5)御者だった男
翌日の予定は、昼ごろからという町長の言葉通り、町の者は誰も起こしに来なかった。ロバートがいつもどおり、アレキサンダーの様子を見に来ただけだ。
何も変わらないロバートの様子に、アレキサンダーは、わかっていたこととはいえ、少々がっかりした。
集合場所に現れたローズは、町娘のような服に身を包み、髪を生花で飾っていた。アレキサンダーとロバートも、町の男のような服装に身を包んでいた。町を歩いて自分の目で見たいというアレキサンダーの要望に応え、用意された服だ。
最初に案内されたのは、庁舎に近い、あの疫病についての資料をまとめた建物だった。有事には、民の避難所になり、再度疫病が流行したら臨時の病院にするための建物だという。もとは商人の邸宅だったという町長の言葉に、事情を知るロバートが少し人の悪い笑みを浮かべていた。
街道封鎖直後の混乱、ティタイトによる船の沈没事故、王太子の名代であるロバートの到着、国内の貴族からの支援物資の記録、当時の町の幹部たちの不正の発覚、後任のレオン、カール、マーティン達三人の活躍と、時系列順に記録が並んでいた。
書面だけで見ていた当時の記憶は、曖昧になりつつあった。詳細までは知らなかった事実などに、アレキサンダーが目を通していたときだった。
「なぜ、これが、ここにあるのですか」
二度目となったロバートの焦った声に、アレキサンダーは、資料から目をあげた。
「そりゃ、大切な資料だからな」
「破棄をお願いしたはずです」
「町から出さなきゃいいだろう」
「何があったかという記録ですよ。捨てるなどありえません。もったいない」
「しかし、これは」
「よく見えていいだろう」
騒がしい部屋を覗き込むと、額装された紙面が壁一面に並んでいた。
「定期的に入れ替えている」
「そういう問題ではありません」
ロバートの胸に、ローズが張り付いて顔を隠している。
「どうした」
アレキサンダーの言葉に、町長が紙面の文字を指した。アレキサンダーの目は、見慣れた自分の文字を見つけた。
「あぁ、あの頃の書状か。騒ぐほどのこともないだろう」
「いえ、ですから」
ロバートが赤面していた。
すっかり顔なじみになった町長が、黙ったまま手紙の一点を指した。
ローズの文字があった。
「あぁ、そういえばそうだったな」
あの頃、ロバートとローズは書面の片隅で、簡単な私信をやりとりしていた。
「晒されるとは思っておりませんでした」
「懐かしいな」
手紙は時系列の通りに並んでいた。王都から送った書類はイサカまで届けられ、イサカから送った書類は途中転記されてから王都に届いていた。イサカの町に、両方の書類が揃って残された。残っていた書類は、片隅の二人の私信も見えるように展示されていた。
アレキサンダーも、私信は目にしていた。当時はただ、世話係のロバートが、離れてまで幼いローズを気にかけているのかと、アレキサンダーは微笑ましく思っていた。
二人が婚約した今は、その文面も全く違って見える。
「いいじゃないか。懐かしいだろう」
初老の男が、ロバートに声をかけた。
「ベン。お久しぶりです」
「久しぶりだ。元気そうだな。その子がローズさんか」
「えぇ。この子がローズです。あちらにおられるのがアレキサンダー様です。ローズ、前にお話しした方です。お世話になったベンです。今は、何を」
「母ちゃんの食堂の手伝いさ」
「ロバートが世話になったそうだな。礼を言う」
「お、お、王太子様、直々に、な、何をおっしゃいますやら、世話になったのは俺等のほうで」
慌てるベンにアレキサンダーは言葉をかけた。
「気にするな。今ここには、細かいことを言うやつはいない」
すでに昨夜、歓迎の晩餐会で、最初の挨拶の直後から、無礼講だった。
王族と言葉を交わすには、本来は謁見を申し込む必要がある。謁見が許されても、王族と直接言葉を交わすには、それなりに身分が必要だ。平民の場合は、間に近習や小姓が立ち、言葉を伝えることになる。時間が倍かかる。
「あの制度は面倒ですね」
ロバートが渋面になった。ティタイトとの戦争の後に、公式採用された方式だ。人数の減った王族を守るためというが、どう考えても時間の浪費だ。
ベンは、ようやくロバートから離れたローズに向かって笑顔を向けた。
「はじめまして、ローズと申します」
「はじめまして。ベンだ。もう引退したが、あの頃はロバートの御者をしていた」
「ロバートがお世話になったそうで、ありがとうございます」
「いやいや、町全部が世話になった。礼を言うのはこちらだよ」
ベンは豪快に笑うと、ローズの肩を抱いた。
「せっかくだ、今日の昼は母ちゃんの食堂だ。少し町を歩かないか。その服装なら、多分、目立たない、まぁ、お前の身長はどうしようもないからなぁ」
ロバートは無言で、ベンの手を払いローズを取り返した。
「お前、爺の俺に嫉妬してどうする。孫みたいな子だ」
あちこちから冷やかされたが、ロバートはローズの肩を抱いたまま離そうとしなかった。
目立たない服装でも、町長以下、町の名士達と連れ立っていては目立つことは間違いない。彼らは先に、次の目的地に行くということで別行動になった。彼らが別れ際に、しっかりロバートを冷やかしていく光景に、護衛達は目を丸くしていた。
「では、こちらです」
ベンの先導で、一行は出発した。護衛達は三々五々、群衆に紛れ同行した。周囲から視線が向けられるが、声をかけてくるものはいなかった。
「まぁ、わかるでしょうね」
「お前は結構長くここにいたからなぁ。顔を覚えているやつも多いはずだ。町に来ているのも有名だし。まぁ、よく似た他人か、本人か迷うところだ」
一行は、杖を使うベンに合わせて、ゆっくりと歩いていた。
「あぁ、そうそう。ここだ。ちょっと相談だ」
市場がない日の広場は広い。その一角でベンが立ち止まった。
「あの時、封鎖した水場だ。どうせだから記念に何か建てようって計画だ。何がいい。って、えぇっと。何がいいでしょうか、王太子様」
「何というのは、例えばお前たちに案はあるのか」
「いやぁ、ほら、こういう広場って、町の歴史の英雄とかの彫像を建てるものだって、町の商人仲間が言い出したんです。で、ロバートの彫像にするかと」
「やめてください」
「と、本人が言うから、やめておいたほうがいい、って、レオンとカールとマーティンの三人に口を揃えて言われたもんで。聖アリア教の司祭様は賛成してくださったんですけど。本人が嫌がるんじゃぁしょうがない。かといって何もないのもつまらない」
ロバートの反論を予測したかのようなベンの物言いに、アレキサンダーは言葉にはしなかったが、感心した。
「アレキサンダー様の石像にしたらよいでしょう」
「まぁ、今回いらっしゃった記念ってのもいいだろうが、そうすると、ロバート、お前とローズさんの石像もできるぞ」
「その資金があれば、町の」
「なに、石切場とは話がついている。川の民もそういう理由なら、無料で運ぶと言っている。石工はやる気だ。ほら、お前も覚えているだろう、あの偏屈。小さめの試作品は町長室にあるから、後で見てこいよ」
「今、なんと、おっしゃいましたか」
「いや、だから石工の偏屈野郎が、お前のこのくらいの胸像を作って、町長の部屋に飾っているから」
ベンは両手で、人の肘くらいの高さを示していた。
「聞いておりません」
ロバートが両手で顔を覆った。
「今、言った。ほら、母ちゃんが待っているから、早く考えてくれ。そうじゃないと、お前の石像だ」
二人の様子に、アレキサンダーは笑いが抑えられなくなった。ローズも同じらしく、小さな笑い声が聞こえている。
「あの、石で長椅子はどうかしら。町の人が休めるように」
笑いながらも、ローズはロバートに助け舟を出してやっていた。
「なるほど。恋人同士座れるような椅子がいいな」
ベンはそう言うと、ロバートを肘でつついた。
「ご家族連れが座れるようになさってはいかがですか。そのほうが、使い勝手が良いでしょう」
「そうかそうか。家族か。そうだなぁ」
ベンは言いながら、ロバートを肘でつつくのを止めようとしない。
「じゃぁ、町長にそう言っとくよ」
多分、ベンが肘でつつくのを止めない意味をローズはわかっていないだろう。つつかれているロバートは、わかっているはずだが、無反応を貫いている。
「じゃあ、食堂にいこう。母ちゃんが、ローズさんが来るのを、首を長くして待っているからな」
「お二人ともお元気で何よりです」
「そうだよ。おまえさんがなかなか来てくれないから、ふたりともお呼びがかからない」
「では、お二人に長生きをしていただくためには、来るのはもう少し先延ばしにしたほうがよかったでしょうか」
「いやいや。結婚してからも来てもらうからな。子供の顔も見せてもらわないと」
二人の会話にローズが頬を染めていた。