6)馬
死ぬ。絶対に死ぬ。もうこれ以上は無理だ。デヴィッドは、胸の内で何度もその言葉を繰り返した。なぜ、この年齢になって、それも影を引退した自分が、馬車にしがみついているのだ。
それでも手を離さず、しがみついているのはデヴィッドの意地だった。デヴィッドと同じように馬車にしがみついているもう二人と、何度も目があった。お互いに言葉などかけない。馬車に乗る連中に、声を聞かれる危険を侵すわけにはいかない。デヴィッドよりも明らかに若い二人は、デヴィッドに戸惑っていた。
デヴィッドも、最初に蹴落とした小僧がどうなったか気になるが、今は自分がしがみついているだけで精一杯だ。
馬車が停まったのは、宿場町の外れにある家だった。デヴィッドは、馬車から降りてくる連中に見つからないように、身を潜ませた。
若い二人のうち一人が、デヴィッドと同じところに隠れた。邪魔だ。そう思ったときだった。そっと水筒を差しだされた。デヴィッドが、若い頃使っていた水筒とほとんど形が変わっていない。デヴィッドが受け取らずにいると、若い男は水筒に口をつけてみせた。もう一度、男が差し出してきた水筒を、デヴィッドは受け取り口をつけた。水だ。喉の渇きがようやく癒やされ、デヴィッドは一息ついた。
馬車からローズが降ろされた。小さなローズが、ますます小さく見えた。男に促されるがまま、ローズは歩いていく。
咄嗟にグレースの身代わりとなったローズの判断と、無計画に逃げようとしないローズの冷静さに、デヴィッドは感心していた。
馬車に連れ込まれたローズを見たとき、デヴィッドは反射的に馬車の屋根にしがみついた。まさか同じように馬車にしがみついてくるものがいるとは思わなかった。
「我ら」
若い男が古代語を口にした。
「共に王国の礎とならん」
デヴィッドはその先を続けた。影ならば誰でも知っている一節だ。
「嬢ちゃんを助けるぞ」
「無論です」
デヴィッドの言葉に、若い男は頷いた。若い男が少し布をずらした。
「お前だろうと思ったよ」
デヴィッドの予想通り、王太子宮で見慣れた顔だった。
「ただし、儂は隠居の身だ」
「御冗談を」
間髪入れずに答えた若い男の言葉に、デヴィッドは舌打ちをこらえた。隠居したのだ。絶対に隠居したのだ。
翌朝、星が瞬き消えていく頃、デヴィッドは昨日とは別の苦難に耐えていた。
死ぬ、死ぬ、絶対に死ぬ。なぜ、俺が馬泥棒の真似事をするのだと、デヴィッドは、言いたかった。だが、この方法を提案したのはデヴィッド自身だ。
奴らの足止めと、王太子宮になるべく早く知らせるため、奴らの馬を奪い、その馬で走る。場当たり的だが、目的には合う。
なぜ、引退した自分が裸馬に乗り、急ごしらえの手綱を手に取り、駆けねばならないのだ。
「アーライル家に縁のあるあなたであれば、各地の騎士団に顔が利くはずです」
そう言われて引き受けたことを、デヴィッドは心底後悔していた。だが、デヴィッドでは、馬車の屋根にしがみつき、あるいは馬車を追い、何日も旅をすることは出来ない。
だが、これも無茶だ。無理だ。絶対に無理だ。馬を止まらせ、どこかへ放してしまえばいい。何度もその誘惑に駆られた。
その度に、デヴィッドの脳裏に、馬車から降ろされ、男達に促されながら歩いていたローズの小さな背中が浮かんだ。
「デヴィッドさん」
ローズは出来の良い弟子ではない。だが、不器用ながらも一生懸命に、一つずつデヴィッドの与えた課題と取り組むローズは、かわいい弟子だった。
成人したばかりの小さなローズは、グレースを助けるため、国のために、身代わりとなる決断をした。デヴィッドの孫であってもおかしくない年頃だ。そんな子供に負けるわけにはいかない。
引退したが、デヴィッドは影だ。ティタイトとの戦いで、おめおめと生きて帰ってきた。情けなかった。死に損なった後悔で、抜け殻のようになっていたとき、救ってくれたのは、先代の長アリアが、かけてくれた言葉だった。
「ロバート兄さんが、立派に戦ったことを教えてくれてありがとう。あなたが帰ってきてくれてよかった。あなたのおかげで、私はロバート兄さんを誇りに思えます。あなたが船を操作してくれたおかげで、兄の死は無駄になりませんでした。今日からあなたはデヴィッドよ」
アリアは、一人息子に長兄と同じロバートという名を付けた。デヴィッドが最後に仕えた先々代ロバート様と比べると、当代のロバートは、まだ若く未熟だ。
「俺をなめるな」
デヴィッドは、自分で自分に発破をかけ続けた。すっかり庭師が板についていたジェームズの顔が脳裏に浮かんだ。
「負けるか」
デヴィッドは、自らを鼓舞し、馬を走らせた。
「楽隠居をしているのは、お前だ」
ティタイトとの戦い、引き上げる船に味方を乗せ、国に帰らせるため、何人もの影が犠牲になった。デヴィッドは、怪我をした川の民に代わって、船の舵を握っていたから、戻ってくることが出来た。
重症を負った影の長ロバートが、大河に沈んでいくのを見たのに、何も出来なかった。御遺体も何も、髪の毛一筋すら、ライティーザに持ち帰って差し上げることが出来なかった。川の民は、今の時期は、おそらくティタイト側に流れ着くと言った。その言葉通り、沈んだ仲間達は、誰も、遺体すら、何も戻ってこなかった。
「負けるか」
荒れ狂う大河で、矢の雨が降り注ぐ中、デヴィッドは舵を離さなかった。怪我をした川の民の指示どおり、舵をとり、船をライティーザに着岸させたのだ。
今度はこの馬を操り、信用できる騎士団がいる町までたどり着くのだ。
「負けるか」
裸馬が何だ。あの日とは違う。あの日、地獄のようだったあの河と比べれば、街道は手入れの行き届いた庭のようなものだ。
「負けるか」
デヴィッドはひたすら自分に活を入れた。




