プロローグ 伊藤祐介という男
「──……ごめんね伊藤。私、実は……っ、好きな人が、いるの」
「……ぇ」
それはとある日の放課後のこと。俺こと伊藤 祐介は中々踏み出せずにいた決意を固めて、前々から想いを寄せていたクラスメイトである安藤 奈津美に告白していた。
安藤と俺の関係は今日まで、友達関係だった。彼女と知り合ったのは入学してから三ヶ月経ち、俺がそろそろバイトを始めようかと家の近くのコンビニに面接に行った時だった。安藤は既にそのコンビニでバイトをしていたらしく、ちょうど俺が面接する日と彼女のパートの日が同じで、ばったりと出会ったと言う訳だ。最初は互いに話すこともなかったが、次第に自然と打ち解けていて、ただのバイト仲間という関係から、すぐに気の良い友達関係となったのだ。
安藤は可愛いかった。サイドテールの綺麗な黒髪で、今時のJKらしくいつも少し制服を着崩していた。流石に女優やアイドルに比べるとだが、時折見せてくれる人懐っこい笑顔のお陰で、俺としてはすごく接しやすかった。性格は失礼だが、気が強い方だとは思う。しかし、同時に彼女に妹がいるせいなのか、なんだかんだ言いつつも世話を焼いてくれる。照れ臭そうで不器用な優しさでいつも俺を助けてくれた。
彼女のことを好きになった時期はわからない。ただ一緒に過ごしている内に意識するようになってから、いつの間にか彼女に恋をしていた。
特に今年、同じクラスメイトになってからは一層意識した。
「……」
しかし、結果は見ての通り振られてしまった。
高校に入学して一年生の頃から、三年生になった今までの長い間実らせていた、安藤への好きな気持ち。本人から直々に今、その想いの丈を断られた事実が暫くの間、頭の中を反芻する。
そして気が付けば、もう何がなんだか分からない状態に陥っていた。胸は張り裂けそうで、喉の奥からは思わず嗚咽が漏れ出しそうだった。訳もわからず、ふと気を抜いてしまえば、この眦からも涙が溢れ出しそうで。
「……っ」
しかし、ここで取り乱したらそれこそ安藤に迷惑をかけてしまうし、何より女々しい男は格好悪いだろう。だから俺は、腹の奥底から湧き上がってくる複雑に絡まり合った様々な感情を抑え込み、努めて笑顔で返答した。
「……そ、そう、なのか」
「っ…………うん」
俺はちゃんと安藤の顔を見て笑えているだろうか。
いや、恐らくは笑えてないだろう。何せ、目の前の彼女の顔を見れば分かる。その表情はとても苦しそうで、如何にも俺に罪悪感を向けているのが分かる、そんなものだった。
情けねえ……
自分から告白しといて、相手に気を遣わせて。自分が本当に情けなく思えてきてしまう。
その気持ちが先行したのか、今すぐこの場から逃げ出したかった。
だから俺はさり気なく涙を指で拭って、バツが悪そうな顔をしている安藤に次はちゃんとした笑顔を向けた。
「……悪いな。態々呼び出して。安藤の恋、っ……お、俺、応援するからさ。あ、そろそろ時間だな! あーあ、早くバイト行かねえと遅れちまうし。先に行っとくな。また……あとのバイトでなっ!」
俺は矢継ぎ早に言葉を捲し立てて、足早に校舎裏から立ち去り、彼女の視界の死角に入ったところで——全力で下駄箱へと走り出していた。今まで俺が積み上げてきた想いが、胸中で崩れ去っていく音を掻き消すように、一心不乱に腕を振り、足を踏み出す。
「──ッ……待って伊藤!」
立ち去る際に聞こえてきたはずのあの子の声も、置き去りにして。
◆ ◆ ◆
バイト先であるコンビニまで、俺はとぼとぼと歩いていた。普段はちらっと見てしまう行き交う車には目もくれずに、ただ呆然としたまま、分かりやすくも頭を地面に向けて落ち込ませている。さっきからすれ違う歩行者たちにも時には不審そうな、そして時には心配そうな視線を向けられていた。
「……はぁ」
このままバイトに行きたくねえなぁ……
思わず嘆息する。
何せ安藤と同じバイト先だ。あんな別れ方をしてしまった手前、またこの後バイト先でばったり出会うのは気まず過ぎるし、何よりまた逃げ出しそうだった。
いっそのこと今日は体調不良ということにして休んでしまおうか。
と、そんなことを考えながら、出来るだけバイト先には着きたくない衝動なのか、普段よりゆっくりな速度で歩いてると目の先に児童公園が見えてきたのだが──
「お、あそこにいるのは」
何やら見覚えのある姿に目を細める。
「……げっ、安藤の妹じゃねえか」
そこで小休憩を取っている3人組の中に、安藤の妹である今年で中学二年生になる銘花ちゃんを発見した。いつもは気楽に声をかけて挨拶をするところだが
「……今、会いづらい」
そう。今さっきその銘花ちゃんの姉である安藤にフラれたばかり。未だに心の整理も全くついてない中で挨拶するのも忍びない。というか、俺があなたの姉に先程フラれましたと突然言われたらパニック起こすだろうし。
「ここは大人しくスルーするとし──」
「——お兄さんじゃん。そこで何してるの」
「うわぅ!?」
「うわ! びっくりしたぁ……いきなり変な声出さないでよ」
突然声をかけられて逆にパニックを起こしそうになる。恐ろしいことにこの子は気付かぬ内に俺の隣に来ていたようだ。クノイチかよ。
「あ、ああ悪い。じゃ、そういうことでな」
さり気なく可及的速やかに逃げようとすると直ぐに腕を掴んで引き戻された。
「いやいやいや。お兄さん早い、早いって」
「……え?」
「いやこっちがえ? だよ。なんで逃げようとするのさ。どうかしたの?」
「そ、それよりも友達はいいの?」
「もう帰ったよ」
いつの間に帰ったんだ。もしかして俺が黙考してたあの一瞬で『じゃあねー』と別れを取り付けたのかこの子は。
「お兄さん。私が聞きたいのは、わかりやすく変な今日のお兄さんに何があったのか知りたいだけだよ」
「わ、分かりやすく……」
そんな挙動不審だっただろうか……しかし、隠していてもしょうがないか。
と、俺は意を決して口を開く。
「……実はさ」
「うん」
「これからバイト行くんだよね。だから急がないと」
「ふーん」
「…………じゃ」
「いやいやいや」
逃走を図ろうとしてもどうしてもまた腕を掴まれて引き戻される。いや、振り払えば良いと思うが流石に悪いし。好きな人の妹であるため丁重に扱ってしまう。
先程からやはり不審な行動をしてる俺に銘花ちゃんは目を細めて
「お兄さん。この際だからはっきりと言うね……」
「え、なんだよ」
「……お姉ちゃん絡みでしょ」
「…………いやっ?」
「はぁ……で、お姉ちゃんと何があったの」
「あ、決めつけられちゃった」
もう言い逃れは出来ないらしい。ここは素直に、『俺、今さっき君のお姉ちゃんにフラれちゃいました!』と言わなければ。
「……本当のこと言うと」
「本当のこと言うと?」
「……ふ、フラれ、ました」
「……」
あら、銘花ちゃんフリーズしちゃったわ。どうしましょう。
「え? フラれた?」
「……あ、ああ」
「………………HAHA、面白いジョークだね」
「いやジョークじゃねえよ本当だよ。てか本人に言わせんなよ悲しくなるだろうが!」
「あ、ご、ごめん。まさか……えぇ、お姉ちゃんどう言うことなの」
「……こっちが聞きたいくらいだよ。はあ、ったく」
なんか銘花ちゃんに暴露したら少し気が軽くなった気がするし、もう今日はサボって帰るか。
「お兄さん。まあ……その。ど、ドンマイ」
「うわーうぜぇ……」
「な、なんでさ!」
そんな笑顔で言われてもそう思うに決まってんだろ。
なんだか馬鹿らしくなってきたため、俺は踵を返して歩き始める。
「ちょ、待ってよお兄さん。ごめん悪かったから」
「あーいいよ。気にしとらん。俺のことは良いからさっさと帰りな」
「いやでもそう言うわけにはいかないというかー」
「なんで銘花ちゃんまで罪悪感感じてんだよ。伝染すんのかこのフラれたムードは。じゃあな銘花ちゃん」
「いや、その。と、取り敢えず今日は家まで送ってよ。話はこれからでいいから」
「いやだよ。また会ったら気まずいだろ。というか……多分これからあいつとも交流が無くなるだろうし、お前も無理して俺に付き合わなくても良いんだぞ」
「そ、そんな釣れないこと言わないでよ」
その後もそんなやり取りは公園を出た後にも続き、銘花ちゃんが後ろからピーチクパーチク言いながら付いてくる。
「まあ、こ、今回のはツイてなかったんだよ。あのお姉ちゃんって素直じゃないし、次にまた告白すれば絶対に付き合えるって! だから今から会いに行こうよお兄さん。傷が深まらない内に!」
「……っ」
なんだか今の精神状態だと、何を言われてもイラっと来てしまう。そのせいか、中々付いてくるのをやめない銘花ちゃんに腹が立って来てしまい──
「──鬱陶しんだよッ!」
と、カッときてしまった。
「……っ!」
初めて銘花ちゃんに強めの言葉を言ってしまったせいか、明らかに動揺したと同時に、顔を俯かせた。
「……ぁ」
「……ッ!!」
流石に言い過ぎたのを後悔したが、時は遅く。銘花ちゃんは涙を溜まらせた眦からこちらを悲しそうな視線を向けると、次の瞬間走り去って行ってしまった。
俺は最低だ。鬱憤がいくら溜まってたって好きな人の妹に当たってしまうなんて。
後悔は先立たず、俺も堪らず彼女が走り去って行った方へ走り出した。心配だったのもあるが、一番は真っ先に謝りたかった。
それから30分経っただろうか。汗だくでびしょびしょになったワイシャツにイラつきながら、銘花ちゃんを探し回っていると──
「……あ」
いた。やっと見つけた!
銘花ちゃんが、先程のフラれたばかりの俺のようにとぼとぼと歩道を歩いている後ろ姿を視認すると同時に安心する。
もう時間は遅いし、とにかく犯罪に巻き込まれてなくて良かった。
今はもう6時頃。冬という季節柄、すっかり辺りは暗くなっていた。
俺は安全のためにスマホのライトで照らしながら、横断歩道を渡ろうとしてる銘花ちゃんの背中に声をかけようとした瞬間──曲がり角に建てられているミラーに車が走って来ているのが映っていた。しかも、銘花ちゃんは死角から車が来ていることに気づいてなさそうだった。
「──い、伊藤!? 何してんのよ! 探したよ!」
「っ!?」
そこで、なんて神様は気まぐれなんだと、その時は思った。こんな危機一髪という時に、安藤が告白に失敗した俺を心配してくれて探しに来てくれていたらしい。なんだ。探されていたのは俺の方だったのか。
俺と同じように走ってきたせいか、肩で息をして汗を拭っている安藤を尻目に、俺は直ぐ様前を見据えた。
残念ながら今、目の前で女の子に危険が迫っているのだ。俺は目の前のことで精一杯で、態々心配をかけてしまったことを、彼女に謝ることは叶わない。でも──
「──ッ! 馬鹿野郎! 銘花ぁッ!」
「……ぇ?」
——これで許してくれるか。安藤
後ろの俺から大声で叫ばれた彼女は何事かと惚けて振り返ってくる。彼女の右側からは既に車が迫って来ていた。車も曲がり角から目の前に出てきた彼女に今頃気付いたようで、慌ててブレーキを踏む音が聞こえた。
たった数秒間。されど俺には、今のこの数秒がとても長く感じた。自分の判断が目の前の命の行く末を左右しているのだ。
必死に動かしているこの足に。
必死に伸ばしているこの手に。
必死に名を叫ぶこの俺に。
銘花ちゃんの命が重くのしかかる。
目の前の彼女と自分の距離は届くか届かないか微妙な位置だった。最良なのは、自分は負傷するが彼女を抱いて跳びこんで回避すること。しかしそれは無理だと判断した俺は、精一杯に両手を伸ばして彼女を全力で押し出した。
後ろから思い切り押し出され、銘花ちゃんは前に倒れ込んでしまう。怪我は免れないだろうが、その命は助けられた。
安堵する。しかし無情にも、時は止まってくれない。
「──お兄さぁん!!」
「──祐介ぇ!」
次の瞬間、とても大きな衝突音とともに、強烈な痛みが全身を駆け巡った。全身のさまざまな骨が折れていき、終いには臓器に突き刺さるのを自覚した。
俺は飛んでいた。思い切り空中で車に横からぶつけられたせいだろうか。徐々に高度が下がっていくのをスローモーションに感じながら、俺は上空から二人の姉妹の表情を見ていた。
文字通りのぐしゃぐしゃな顔だった。銘花ちゃんに至っては鼻水までターザンさせている。
ぷ、ふっ……だっせ、え
安藤も酷い顔をしていた。今にも泣き出しそうな表情だ。あんな顔、今の瞬間まで見たことが無い。思えば、俺はまだ安藤のほとんどを知らないままだ。俺が変に奥手なせいで、彼女と二年半近く過ごしたくせに、あまり深い交流を重ねてこなかった。今更後悔しても遅いか。
あぁ……あ。付き合いたかったなぁ
嗚呼。安藤の好きな奴はどんな男だったんだろうなぁ……きっとモデルみたいに足が長くて、さぞイケメンなんだろうな。あいつは普通にモテてたし、やっぱり俺は……不釣り合いだったか。
走馬灯のように彼女と過ごした温か過ぎる記憶たちが流れていく。死ぬ前だというのに、何故か痛覚よりも心地良さが勝った。家族との思い出も光り輝いていて、何気ない日常風景も宝物のように思えて。なにより、安藤の笑顔。そして、銘花ちゃんの笑顔。俺の人生を彩ってくれた二人の顔が——
そんな時間もとうとう終わりを告げる。やがて頭から地面に思い切り落ちて、また何かの骨が何本も折れる生々しい音を聞いた。
辺りに響くのは騒然とする人々の声たちと、喧しいクラクション──そして、誰かが泣き叫ぶ声が聞こえた。
あんど、う。お、れはやっぱりお前の、こ──