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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第三部 漢の礎

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陳豨

 陳豨という男は劉邦りゅうほうから陽夏侯に封じられ、相国にして趙・代辺境の兵を監督させていた男である。


 陳豨は任地に赴く前、淮陰侯・韓信かんしんを訪ねて、別れを告げた。韓信は陳豨の手を取り、左右の人払いをしてから、共に庭を歩いた。


 韓信は天を仰ぎ、嘆息すると、こう問うた。


「汝に語りたいことがあるが良いか?」


 陳豨は頷く。


「将軍の令なら全て従います」


 韓信が答えた。


「汝がいる場所は天下の精兵が集まる所だ。そしてあなたは陛下に信幸されている臣下だ。人があなたの畔(謀反)を訴えたとしても、陛下は必ずや信じないだろう。しかし再び報告する者が現れれば、陛下は疑いを持つ。三回目になれば、必ず怒って自ら兵を指揮するだろう。もしそうなった時、私があなたのために中から内応すれば、天下を図ることができるだろう」


 陳豨は韓信の言葉に震えた。


(おお、天下の大将軍から誘われている)


 元々彼は天下で名を挙げたいという思いがあった。


「謹んで教えを奉じましょう」

 

 陳豨は戦国時代に多数の士を養った信陵君しんりょうくんを慕っていたため、大勢の賓客を求めた。やがて、相として国境を守るようになってから、告(休暇)によって帰還することがあった。


 漢律では、二千石以上の官員に「予告」と「賜告」があった。


「予告」は功績がある者に与えられた休暇の権利のことである。


「賜告」は病を治すために皇帝が与えた休暇のことである。本来、病が三カ月以上治らなかったら罷免されることになっていたが、皇帝が「賜告」すれば、印綬を持って官属を従えたまま家に帰って休むことが許された。


 しかしながら漢の成帝の時代になると郡国二千石(郡守が二千石に当たります)は「賜告」を得ても家に帰ることができなくなり、和帝の時代には「賜告」「予告」とも廃されることになる。


 そんな陳豨が趙を通った時、賓客が従ったが、車の数は千余乗に上り、邯鄲の官舍が全て満員になったほどであった。


 そこで、趙相・周昌しゅうしょうは劉邦への謁見を求め、陳豨の賓客が盛んなこと、辺境で数年も自由に兵を指揮しており、このままでは恐らく変事が起きることを詳しく説明した。


 劉邦は人を送り、陳豨の賓客が代で行った多くの不法な事を調査させた。その結果、多数の案件が陳豨と関連していることが発覚した。


 陳豨が恐れているところに、韓王・しんが王黄や曼丘臣らを送って謀反に誘った。


(韓信殿だけでなく、匈奴も協力してくれるのか)


 ついに天下に名を上げる好機であると考え、ますます野心を強めた。


 劉邦の父が死んだ時、劉邦は人を送って陳豨を招いた。しかし陳豨は病と称して行かなかった。そして。九月、陳豨はついに王黄らと共に反し、自ら代王に立った。趙や代の地を侵していった。


 劉邦はついにという思いがあり、


「彼はかつて私のために働いて、とても信があった男である。故に臧荼討伐で功を立てた時、陽夏侯に封じた。代地は重要であるから彼を列侯に封じて相国として代を守らせてきた。ところが今、王黄らと共に代地を劫掠(侵略)している。吏民には罪がない。陳豨や王黄から去って帰順した者は全て赦すことにする」


 冷静に対処を行う旨を述べると自ら親征して東に向かい、邯鄲に至った。


 劉邦はそこで喜んで言った。


「やつは南の邯鄲を守らず漳水で抵抗している。私は彼が何も為せないことを知った」


 同じ感想は匈奴の長・冒頓ぼくとつ単于も持った。


「これで勝つつもりなの?」


 更に韓信も、


「思ったよりも使えない……」


 と上手くいかないと確信した。


 趙相・周昌が上奏して言った。


「じょ、常山二十五城のうち二十城が陥落しております。しゅ、守(郡守)・尉(都尉)を誅殺なさってはどうでしょうか?」


 劉邦は訪ねた。


「守や尉は反したのか?」


「いいえ」


 劉邦は首を振り、


「それは力が足りなかったのである。罪はない」


 負けることを責めないのが劉邦のいいところである。


 彼は周昌に命じて趙の壮士から将の能力がある者を選ばせた。周昌は四人を選んで劉邦の前に連れて来た。劉邦は彼らを見て、


「豎子が将になれるのか」


 と言った。四人は恥じ入って地に伏せた。しかし、劉邦はそれぞれに千戸を封じて将に任命した。


 左右の者が諫めた。


「蜀・漢に入った時から楚討伐まで従った者に対して、賞がまだいきとどいていないにも関わらず、今、彼らを封じましたが、何の功があるのでしょうか?」


 劉邦はこう答えた。


「汝が分かることではない。陳豨が反したため、趙・代の地は全てやつに占有された。私が羽檄(檄文)を発して天下の兵を集めても、まだ来る者はいない。今の計は、ただ邯鄲にいる兵を使うだけである。どうして四千戸を惜しんで趙の子弟を慰撫しないのか」


 つまり今、趙と代の地での劉邦と陳豨の信用勝負であり、この地の人々の人望を得ることが大切なのである。左右の者はそろって、


「その通りです」


 と言った。


 劉邦が近臣に、


「楽毅の後代がいないか?」


 と問い、孫の楽叔を得た。本当に孫だとすれば、相当な高齢かと思われる。楽叔は楽郷(地名)に封じられ、華成君と号した。


 次に劉邦は陳豨の将達がかつて賈人(商人)であると聞き、


「私は彼等にどう対処すればいいか分かった」


 と言った。すぐに金が準備され、陳豨の将が買収されていき、陳豨の将の多くが投降した。


 紀元前196年


 陳豨の将・侯敞が一万余人を率いて遊撃し、王黄が騎兵千余を率いて曲逆に駐軍し、張春が歩卒一万余人を率いて渡河してから聊城(斉地。黄河の東にある)を攻めた。


 これに対して漢の将軍・郭蒙と斉王・劉肥りゅうひとその補佐として曹参そうしんが共に迎撃し、大勝した。


 太尉・周勃しゅうぼつも太原を通って代地に入り、馬邑を攻めた。しかしなかなか攻略できなかったため、やっと占拠した時に多くの人を殺戮した。


「思ったよりも抵抗が激しいな。時間がかかるかもしれない」


 陳豨の将・趙利が東垣を守っており、劉邦が攻め続けても中々攻略できず、一月以上経過した。東垣の士卒が劉邦を罵ったため、劉邦は激怒した。


 ついに東垣を攻略すると、彼は自分を罵った士卒だけ斬首し、それ以外の者は全て赦した。東垣は後に真定に改名された。


 陳豨に降らず堅守し続けた諸県は三年の租賦を免除した。


 劉邦は王黄と曼丘臣に千金の賞金を懸けた。その結果、麾下(部下)が二人を生け捕りにして劉邦に届けた。こうして陳豨軍の敗北は決定的となった。


 それでも陳豨は抵抗を続けた。


(まだだ。韓信殿が内応すれば、良いのだ)


 事実、劉邦の陳豨討伐に韓信は病と称して従っておらず、逆に人を派遣して、秘かに陳豨と謀反の相談を始めていたのである。


「まだだ。まだやれる」


 彼は抵抗を続けた。


 討伐に従っている劉肥の元に駟鈞しきんの使者がやってきた。


「そろそろよろしいか?」


 というものであった。


「良いと伝えよ」


「承知しました」


 この数日後、長安を守る呂雉りょちの元に韓信謀反の密告がなされた。





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