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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第三部 漢の礎

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劉敬

 十二月、白登山の戦いでの敗戦の後、劉邦りゅうほうが帰る途中に趙を通った。趙王・張敖ちょうごうは魯元公主を娶っていたため子壻(壻)の礼を採り、自分の身を低くした。


 しかしながら劉邦は箕倨(両脚を前に伸ばして坐ること。礼から外れている行為)したまま傲慢な態度で張敖を罵った。敗戦によりイラついていたのかもしれない。


 趙の相・貫高かんこう趙午ちょうごらが怒って言った。


「我が王は孱王(「孱」は惰弱の意味)である」


 そこで貫高らが張敖に言った。


「天下には豪傑が並立しており、能力がある者が先に立つもの。今、王は帝に仕えてはなはだ恭敬ではございますが、それに対して帝には礼がありません。王は帝を殺すべきです」


 張敖は指をかじって血を流し(忠誠を誓うことを示す行為)言った。


「汝らはなぜ誤ったことを言うのか。先人(父。張耳ちょうじ)は国を失ったが、帝に頼ったために復国でき、徳が子孫に受け継がれることになったのです。秋豪(秋亳。細かい事)も全て帝のおかげである。汝らは二度と口にするな」


 貫高と趙午らはため息をついて話し合った。


「我々が誤っていた。我が王は長者であるため、徳に背くことができない。しかし我々も義によって辱めを受けるわけにはいかないのだ。今、帝が我が王を辱めたからこそ、殺そうと思ったのだ。王を巻き添えにする必要はない。事が成功すれば、王に帰し、事が失敗したらこの身だけで罪に坐すことにしよう」


 劉邦が帰還すると匈奴が代を攻めた。


 代王・劉喜りゅうき(劉邦の兄)は国を棄てて雒陽(洛陽)に逃げ帰った。劉邦は劉喜の罪を赦して郃陽侯に封じた。そしてその代わりに皇子・劉如意りゅうにょいを代王に立てることにした。劉如意は戚夫人せきふじんの子である。


 長安に劉邦が帰還すると大きく壮麗な建物が見えた。


 丞相・蕭何しょうかが未央宮を建造し、東闕、北闕、前殿、武庫、太倉が建てられていたのである。


 劉邦は壮麗な未央宮の宮闕を見ると怒って蕭何を言った。


「天下が匈匈(混乱した様子)とし、労苦(「戦の苦しみ」の意味)が数歳(数年)も続いている。成敗もまだわからないにも関わらず、なぜ過度な宮室の建造を行うのか」


 彼は意外にも宮殿の大きさなどというものは興味が無い人であった。


 蕭何はそんな劉邦にこう返した。


「天下がまだ安定していないからこそ、それに乗じて宮室を建造するのです。そもそも天子は四海を家とするものです。壮麗でなければ重威を持つことができないのです。また、後世に宮殿の規模を越えさせないためでもあるのです」


 つまりこれ以上の者が後代は作らないという基準を始めのうちに作ってしまおうというものである。


 劉邦は納得して喜んだ。


 また、この未央宮の完成により、正式に遷都を行うことにした。漢王朝の都は長安となったのである。


 年が明け、紀元前199年


 冬、劉邦は東進して東垣にいる韓王・しんの余寇(残党)を撃った。その後、匈奴が来るまでに引き上げた。


 引き上げる途中で柏人(県名。趙に属す)を通った。


 ここである陰謀が動いていた。貫高らが厠の壁の中に人を隠し、劉邦を殺害しようとしていたのである。


 劉邦は柏人に泊まろうとしたが、胸騒ぎがした。そこで近臣に、


「ここの県名は何だ?」


 と問うた。


 近臣が柏人であると答えると劉邦は、


「柏人とは人に迫られる(圧力を加えられる。危害を加えられる)という意味である」


 と言って宿泊を中止し、柏人をそのまま通り過ぎた。


 匈奴がしばしば漢の北辺を苦しめたため、劉邦が憂いて劉敬りゅうけいに意見を求めた。劉敬は言った。


「天下は安定したばかりであり、士卒が兵(軍事)のために疲労していますので、まだ武で服従させることはできません。冒頓ぼくとつ単于は父を殺して代わりに立ち、群母(父の妻妾)を妻とし、力によって威を立てていますので、仁義を用いて説くこともできないと思われます。ただ久遠の計を用いて彼の子孫を臣にさせることだけが可能です。しかしながら陛下にはそれができないのではないかと心配しております」


「どうするのだ?」


「もし陛下が適長公主(「適」は「嫡」の意味で、皇后が産んだ子)を単于に嫁がせ、厚奉(厚い俸禄)を贈れば、彼は必ず漢を慕い、閼氏(単于の妻)に立てることでしょう。もし後に子が生まれれば、必ず(匈奴の)太子になります。陛下が歳時(四季)ごとに漢に余っていて彼らに不足している物を準備し、頻繁に慰問してそれらを贈り、機に乗じて辨士を派遣して礼節を風諭(遠回しに諭し教えること)すれば、冒頓がいる間は子壻(娘婿)となり、死んでからは外孫(娘の子)が単于になります。外孫が敢えて大父(祖父)と抗礼(対等の礼を行うこと。対等な振る舞いをすること)するなどとは、聞いたことがあるでしょうか。こうすれば戦うことなく徐々に臣服させることができます。もし陛下が長公主を送ることができず、宗室や後宮に命じて公主を偽らせても、彼が知れば、貴び近づけようとはしないので無益であると考えます」


 劉邦は納得して、長公主を嫁がせようとした。


 しかし呂雉が日夜泣いて、


「私には太子と一女しかいません。どうして匈奴に棄てることができましょうか」


 と言ったため、劉邦は長公主を嫁がせることができなかった。


 翌年、紀元前198年


 冬、劉邦は庶人の家の子を得て長公主と偽り、匈奴の冒頓単于に嫁がせることにし、併せて劉敬を匈奴に派遣し、和親の盟約を結ばせた。


 劉敬は匈奴から戻ると進言した。


「匈奴の河南にいる白羊王と楼煩王は長安から七百里しか離れておりません。軽騎ならば、一日一夜で秦中(関中)に至ることができます。秦中は破れたばかりで(秦が滅んでから)民が少なくなっていますが、土地は肥饒ですので、充実させるべきです。諸侯が初めて起った時、斉の諸田(斉の王族。田氏)や楚の昭氏、屈氏、景氏(全て楚の王族)がいなければ興隆できませんでした。今、陛下は関中を都にしましたが、実際には民が少なく、逆に東方には六国の強族がいます。一日に変があれば、陛下はまた枕を高くして寝られなくなります。陛下が六国の後代と豪桀、名家を関中に遷すことを請います。そうすれば、事が無い時は匈奴らの備えとなり、諸侯に変があれば、彼等を率いて東伐することができます。これは根本を強くして末を弱くする術です」


 劉邦は同意した。


 十一月、斉・楚の大族である昭氏、屈氏、景氏、懐氏、田氏の五族および豪桀を関中に遷して利田宅(便利な田宅)を与えた。その数は十余万人およぶこととなった。


「これで斉、楚の劉氏の統治はしやすくなったか……」


 陳平ちんぺいは劉敬を見る。


(斉王のための行為なのか王朝のための行為なのか……)


 彼はそう思いながら彼を見ていた。




 


 

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