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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第三部 漢の礎

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論功行賞

なぜだ。なぜ、データが二回も飛ぶんだ。

 劉邦が始めて剖符を使って諸功臣を徹侯に封じることにした。


「剖符」の「剖」は「破る」「割る」の意味である。符を半分に割って諸功臣に与え、封侯の証にした。「徹侯」は秦代から踏襲された爵位で、後に武帝・劉徹の名を避けて通侯に改名される。


 蕭何を酇侯に封じた。


 功臣は皆、不満を抱いた。


「我々は身に甲冑を纏って剣を持ち、多い者は百余戦、少ない者でも数十合を経験した。蕭何は汗馬の労がなく、ただ文墨を持って議論しただけにも関わらず、逆に我々の上に居るのはなぜでしょうか?」


 劉邦は彼らに言った。


「諸君は狩猟を知らないのか。狩猟において、獣兔を追って殺すのは狗であるが、狗を放って獣がいる場所を指示するのは人だ。諸君はただ逃げ走る獣を得ただけにも関わらず、功は狗と同じことだ。蕭何に至っては、狗を放って指示をしてきたため、その功は人と同じである」


 これを聞いて、群臣たちは敢えて何も言わなくなった。


 張良ちょうりょうも謀臣として劉邦に従ったため、戦闘による功績はなかった。しかし劉邦は張良に斉の三万戸を選ばせた。


 張良は言った。


「かつて私は下邳で身を起こし、留で陛下とお会いしました。これは天が私を陛下に授けたのです。陛下は私の計を用い、幸いにも時には的中しました。私は留に封じていただければ充分です。三万戸を受け取ることはできません」


 劉邦はこれを聞き入れて、張良を留侯に封じた。


 次々と功臣が封じられていくと、陳平ちんぺいを戸牖侯に封じた。


 陳平は辞退した。


「私には功がありません」


 劉邦が言った。


「私は先生の謀を用いたため、戦に勝って敵を破ることができたのだ。これが功でなくて何だというのか」


 陳平はこう答えた。


「魏無知がいなければ、どうして私が進められたでしょうか」


 この答えに劉邦は感動し、


「汝のような者は、本に背かない(根本を忘れない)者だと言えるだろう」


 魏無知にも賞賜を与えた。


 続けて、劉邦は天下が定まったばかりで、自分の子がまだ幼く、兄弟も少なく、秦の皇帝が孤立して滅亡した前例を教訓とし、同姓の親族を大勢封侯して天下を鎮めることにした。


 そこで劉氏一門に参内を命じた。もちろん劉肥りゅうひも呼ばれた。


 劉邦は詔を発した。


「斉は古に立てられた国である。今は郡県になったが、再び王を封じて諸侯としよう。将軍・劉賈りゅうか(従兄)はしばしば大功を立てた。彼のように寬恵脩絜(寛大慈恵・高尚純潔)の者を斉・荊の地の王に選ぶべきであろう」


 既に劉肥が斉王となっているのに、よくわからない発言ように見えるが劉邦は配置替えを視野においていたようである。


 韓王・しんらが上奏した。


「元東陽郡、鄣郡、呉郡の五十三県をもって劉賈様を荊王に立て、碭郡、薛郡(魯国)、郯郡(東海郡)の三十六県をもって陛下の弟君にあたる文信君・劉交りゅうこう様を楚王に立てるように請います」


 劉邦は楚国(韓信かんしんの旧封地)を二国に分け、劉賈を淮東五十三県に封じて荊王とし、劉交を薛郡・東海・彭城三十六県(淮西)に封じて楚王にした。


 次に、兄にあたる宜信侯・劉喜(劉仲)を雲中・雁門・代郡五十三県に封じて代王にした。


 膠東・膠西・臨菑・済北・博陽・城陽郡七十三県をもって、劉肥を封じて斉王とすることにした。劉邦の子の中で唯一の封じられたことになる。


 民衆で斉の言葉を話せる者は全て斉に住ませることにし。斉は関中に匹敵する大切な地である。その地に劉肥を封じて人口も増やしたところから、劉邦の実子に対する信用は相当高いことがわかる。


 劉邦は韓王・信に能力と武略があり、治めている地は北が鞏・洛に、南が宛・葉に隣接し、東に淮陽を有しており、全て天下の勁兵(強兵)がいる場所だったため、脅威になると考えていた。


 そこで太原郡三十一県を韓国に改めて韓王・信を太原以北に遷し、胡(匈奴)を防がせることにした。都は晋陽である(以前の都は陽翟)。


 韓王・信が上書した。


「国が辺境に接しており、匈奴がしばしば入寇しております。晋陽は塞から遠いため、馬邑を治めることを請います」


 馬邑を韓都にすることに劉邦は同意した。

 

 封侯した大功の臣は二十余人を数えたが、それ以外の群臣は日夜功を争い、優劣が決しないために未だに封侯できずに時間が過ぎた。


 劉邦が洛陽南宮にいた時、複道から諸将を眺め見た。諸将は沙地の所々に集まって話をしていた。劉邦は張良に言った。


「彼等は何を話しているのだろうか?」


「背反を謀っているのでしょう」


 劉邦は眉をひそめて、


「天下は安定しようとしている。なぜ反すというのか?」


 と言ったため、劉邦は言った。


「陛下は布衣から身を興し、彼等のおかげで天下を取りました。今、陛下は天子になられましたが、封賞されたのは全て陛下が親愛する故人(旧臣)で、誅されたのは全て陛下が生平から仇怨としていた者たちです。今、軍吏が功を計っておられますが、天下の地を使っても全てを封じるには足りません。彼らは陛下が全て封じることができないのではないかと心配し、しかも平生の過失が原因で疑われて誅されるのではないかと恐れているのです。だからこそ互いに集まって背反を謀っているのです」


 劉邦が憂いて問うた。


「それではどうすればいい?」


「陛下が平生から嫌っており、群臣も共に知っている者の中で、最も甚だしいのは誰でしょうか?」


 張良の言葉を聞いて劉邦はぱっとある男を思い浮かべた。


雍歯ようしは私との間に旧怨があり、しばしば私を困窮させて辱めてきた。私は彼を殺したいが、その功も多いので忍びないと思ってきた」


 張良は頷き、


「まずは急いで雍歯を封じるべきです。そうすれば群臣はそれぞれ自分も封侯されると堅く信じることでしょう」


 三月、劉邦は酒宴を開いて雍歯を什方侯に封じた。同時に丞相と御史を催促して急いで論功封侯するように命じた。


 群臣は酒宴が終わってから喜んで、


「雍歯でも侯になれたのだから、我々が心配することはない」


 と言った。


 動揺を治め、列侯(徹侯)の受封が全て終わった。


 劉邦は詔を発して元功十八人の序列を決めさせた。


 この時の十八人というのは、蕭何、曹参そうしん張敖ちょうごう周勃しゅうぼつ樊噲はんかい酈商れきしょう奚涓けいかん夏侯嬰かこうえい灌嬰かいえい傅寬ふかん靳歙きんきょう王陵おうりょう陳武ちんぶ王吸おうきゅう薛歐せつおう周昌しゅうしょう丁復ていふく蟲達ちゅうたつとされていると。


 この十八人には後世で疑問を持たれている。序列第三位にいる張敖である。彼は劉邦の娘を娶っていることから呂雉りょちにより、いじられたものであるとされている。


 ともかく序列が出たのは確かである。群臣が言った。


「平陽侯・曹参は身に七十創(傷)を負い、城を攻めて地を掠め、功が最多であるため、第一にするべきです」


 すると謁者・関内侯・鄂千秋が進み出た。


「群臣の議は皆、誤りと言えましょう。曹参には野戦略地の功がありますが、これは特別な時の事に過ぎません。陛下は楚と五年も対峙しましたが、軍を失って衆を亡ぼし、軽身で遁走したことが何回もございます。しかし蕭何が常に関中から兵を派遣して軍を補ったために、陛下が詔を発して招集しなくても、数万の兵が集結したのです。陛下は乏絶(食糧が乏しくなること)したこともしばしばありますが、軍中の糧食がなくなった時でも蕭何が関中から転漕(陸運と水運)し、食糧の供給を途絶えさせませんでした。陛下がしばしば山東を失っても、蕭何は常に関中を保って陛下を待っていました。これは万世の功というべきです。たとえ百数(百人以上)におよぶ曹参のような者がいなくとも、漢にとって欠けることはなく、漢が得たとしても国土を保全できるとは限らないのです。どうして一旦の功によって万世の功を覆おうとするのでしょうか。蕭何こそ第一で曹参はその次です」


 劉邦は頷き、蕭何に「帯剣履上殿」「入朝不趨」の特権を与えた。


 古の君子は身を守るために必ず剣を帯びたが、秦法によって群臣が上殿する時には尺寸の武器も持ってはならないことになった。草靴を「菲(屝)」、麻靴を「屨」、皮靴を「履」といい、履は従軍の時に履くものであった。そのため上殿の際には履を脱がなければならなかった。つまり「帯剣履上殿」は剣を帯びて皮靴(軍靴)を履いたまま上殿できるという特権である。


 国君の前を移動するときは必ず小走り(趨)することで崇敬の意を示した。「入朝不趨」とは入朝して国君に謁見する時も小走りをしなくていいという特権である。


 この日、蕭何の父子兄弟十余人にも食邑が封じられ、蕭何には二千戸が加封された。元の八千戸と併せて万戸になった。


 劉邦は、


「私は『賢人を進めた者は上賞を受ける(進賢受上賞)』と聞いている。蕭何の功は高いが、鄂君を得たことでますます明らかになった」


 と言って。鄂千秋は所有していた食邑を元に安平侯に封じられた。


 これらが終わり、それぞれの持ち場に戻っていく中、劉肥の裾をもって止めた者がいた。劉恒りゅうこうである。






 

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