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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
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坑儒

 紀元前212年


 朝廷が蒙恬もうてんに直道(軍事用の大道)を開かせた。九原を通って雲陽に至るというもので、山を削って谷を埋め、長さは千八百里に及んだ。しかし、この工事は数年経っても完成しなかった。


 その頃、始皇帝しこうていは咸陽の人口が多いにも関わらず、先王の宮庭が小さいと考えた。周の文王ぶんおうは豊を都とし、武王ぶおうは鎬を都とし、豊鎬の間は帝王の都になった。そこで始皇帝は渭水南の上林苑に朝宮(宮殿)を建造させた。


 まず前殿として阿房宮を建てることにした。


 東西五百歩、南北五十丈もあり、上には一万人が座り、下には高さ五丈の旗を立てることができるというもので、周囲には閣道(復道。上下二階建てになっている通路)を構えて車馬を走らせて、前殿から下って南山に及んだ。南山の頂上には標識となる闕が建てられた。


 更に複道(復道)を造って阿房から渭水を渡り、咸陽に繋げた。天極(北極星。阿房宮に当たります)と閣道(閣道星。北極星の後ろの十七星)の形を模倣し、漢水(天の川。渭水に当たります)を渡って営室(営星と室星。天子の宮を象徴する。咸陽に当たる)に連なる形を描いた。


 阿房宮は仮の名で、完成してから正式に命名することになっていたが、始皇帝の生前には完成しなかったため、そのままになった。


 始皇帝は隠宮(宮刑を受けた者)や徒刑者七十余万人を動員して阿房宮と驪山(始皇帝の陵墓)を建造させることにした。


 北山を削って石椁(棺)を造り、蜀や荊(楚)の地の木材をことごとく輸送していく。


 これらの他にも、関中(東の函谷関から西の隴関に至る東西千余里)に合計三百の宮殿が建てられ、関外にも四百余の宮殿が造られた。


 更に始皇帝は東海上(東海郡)の朐県内に石碑を立てて秦の東門とした。


 三万家を驪邑に遷し、五万家を雲陽に遷した。彼らに十年間の征役(賦税労役)が免除された。











 盧生が始皇帝に進言した。


「我々は芝(霊芝。仙芝)・奇薬、仙者を求めていますが、いつも遇えません。障害になる物が存在しているようです。方術においては、人主は頻繁に微行して悪鬼を避けるべきです。悪鬼を避けることができれば真人が現れることでしょう。人主が住む場所を人臣が知れば神を妨げることになります。真人とは水に入っても濡れず、火に入っても焼けず、雲気に乗って天地と久長(長久)を共にするものです。今、上(陛下)は天下を治めましたがまだ恬惔(静清無欲)にはなれません(世俗とのつながりが深すぎます)。上(陛下)は自分が住む宮殿を人に知られないようにしてください。そうすれば不死の薬も得られることでしょう」


 始皇帝は、


「私は真人が羨ましい」


 と言い、自分を「真人」と称して「朕」と称さなくなった。


 彼は命令を発し、咸陽周辺二百里内の宮観二百七十カ所を全て復道や甬道(屋根がある通路)で繋げ、帷帳、鍾鼓、美人で満たした。それぞれ場所を決めて配置し、移動を禁止して中が見えないようにした。


 始皇帝が足を運んだ場所を洩らす者がいれば死刑に処していった。


 ある時、始皇帝が梁山宮に行った。山上から丞相の車騎を見つけ、その数が多かったため不快になったことがあった。始皇帝に仕える中人(宦官)の一人がこれを丞相・李斯りしに伝えたため、彼は車騎の数を減らした。


 それを知った始皇帝が怒って言った。


「中人が私の語を洩らしたに違いない」


 始皇帝自ら宦官集めてを審問したが誰も認めようとしないため、始皇帝は当時傍に従っていた者を全て捕えて殺してしまった。


 この後、始皇帝の居場所は誰にも分らなくなった。


 群臣が始皇帝の指示や裁決を受ける場合は全て咸陽宮に集められた。


 そんな時、侯生と盧生が相談した。


「始皇帝の為人は天性の剛戻自用(暴虐で自分が正しいと思っていること)である。諸侯として起こってから天下を併合し、その意思は欲求に従うままとなり、古から今まで己に及ぶ者がいないと思っている。獄吏を選任しており、それらの獄吏は刑罰を重視している者ばかり。博士は七十人もいるが、員数を充たすだけで用いられてはいない。丞相も諸大臣も既に決定した事を受け入れるだけであって、全て上(皇帝)に頼っているだけだ。上は刑殺によって威を示すことを楽しんでおり、天下の人々は罪を畏れて禄を守ることだけを考え、忠を尽くす者はいない(皇帝に反対する者はいない)。上は過失を聞くことがないから日々驕慢になり、下は恐れ伏して謾欺(欺瞞)によって歓心を得ようとしているばかり、秦法においては一度失敗したら次の機会はないという意味。もし験(成果)がなかったら必ず殺される。星気を観測する者は三百人に及び、皆が良士だが、畏忌諱諛(禁忌を畏れて直言を避け、阿諛追従すること)して正面から過失を述べようとしない。天下の事は大小にかかわらず全て上によって決定されているだけだ。しかも上は衡石(秤)で書(奏書)を量って日夜の定量(一日に処理する文書の数量)を決めており、その量に達しなければ、休息もとらない。権勢に対してこれほどまで貪婪なのだから、上のために仙薬を求めるわけにはいかないだろう」


 二人は逃走してしまった。


 それを聞いた始皇帝は激怒して言った。


「私はかつて天下の書を収めて用いる価値がないものは全て排除した。ことごとく文学方術の士を集めて太平を興そうとし、方士は練(煉丹術)によって奇薬を求めようとした。しかし今、韓衆は一度去って報告に来ることなく、徐福らがもたらした出費も巨万を数えるがやはり薬を得られていない。毎日、姦利(不当な利益を謀ること)の報告を聞くだけである。盧生らに対して、私は厚い尊賜を与えてきた。それにも関わらず、今回私を誹謗して私の不徳を重ねさせた。私が人を使って咸陽にいる諸生(読書人。知識人)を廉問(審問)してみたところ、ある者は妖言によって黔首(民)を惑乱させていた」


 始皇帝は御史(法官)に命じて諸生の取り調べを行わせた。諸生は罪から逃れるため、互いに別の者を告発し始めた。その後、禁を犯した者四百六十余人を全て咸陽で阬(「坑」。生埋め)に処し、天下に知らしめて後代の戒めとした。


 更に多くの人が辺境の守備として遷された。


 これが始皇帝による「坑儒」事件である。「儒」とは「儒者」も含むが、実際は読書人の意味が強いため、方士を代表とする道家の士も多かったであろう。


 前年の事件と併せて「焚書坑儒」と称されており、始皇帝の暴政の代表とされている。


 その際、始皇帝の長子・扶蘇ふそが諫めて言った。


「天下が平定したばかりで遠方の黔首(民)はまだ集まらず(帰心せず)、諸生は皆、孔子の言を誦法(唱えて倣うこと)しております。今、陛下は全てにおいて法を重んじ、彼等を捕縛させましたが、私は天下が不安定になることを恐れます。陛下の明察を請います」


 始皇帝は怒って扶蘇を北の上郡に派遣し、蒙恬の監軍を命じた。




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