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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第三部 漢の礎

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反動の始まり

 この頃、張良ちょうりょう劉邦りゅうほうに従って関に入ってから病のためとして、道引(導引。道家の養生の術)を始めた。穀物を食べず、門を閉ざして外出もあまりしなくなった。


 元々病弱であるため、純粋な思いで隠居生活の準備を始めたようである。後に張良はこう言った。


「我が家は代々韓の相となった。韓が滅んでからは、万金の資財を惜しまず、韓のために強秦の讎に報いようとして、天下を振動させてきた。今、三寸の舌を用い、帝の軍師となり、万戸侯に封じられたが、これは布衣(庶人)の極みであり、私にとっては充分なことである。人間の事を棄て、赤松子に従って游びたいと思う」


 赤松子は仙人の号である。神農時代に雨師(雨乞いの人)になり、水玉を服して神農に、火に入っても焼死しない術を教えた。その後、昆山の上に至り、しばしば西王母の石室に留まった。風雨と共に天空を上下した。炎帝の少女(末の娘)が赤松子を追い、仙術を得て共に去ったという。


 七月、燕王・臧荼ぞうとが謀反を起こし、代の地を攻略した。


 臧荼がなぜ謀叛したのかははっきりしない。だが、この反乱に対して、劉邦自ら討伐に向かった。


 その道中で、趙景王・張耳ちょうじと長沙文王・呉芮ごぜいの死が伝えられた。


「取り敢えず、嫡子にそれぞれ継がせよ」


 これにより、趙では張耳の子・張敖ちょうごうが、長沙では呉芮の子・呉臣ごしんが王位を継いだ。


 九月、劉邦率いる漢軍は燕王・臧荼の軍をあっさりと破り、彼を捕らえてそのまま処刑した。


「もう処刑にしたのか……」


 陳平ちんぺいは眉をひそめた。反乱を早めに鎮圧するのは構わないが、臧荼の反乱起こした理由をはっきりさせたかった。


「まあよかろう。大した反乱にはならなかった」


 大きな反乱こそが安寧を築く上で必要なことである。








 風そよぐ草原の中、馬の背に寝っ転がる男がいる。そこに別の男が馬に乗ってやってきた。男は馬から降りると片膝をつけて、


「ご報告します臧荼が破れて処刑され、息子の臧衍ぞうえんが亡命を希望しております」


「ふわあ」


 馬の背にいる男は大きなあくびをすると言った。


「早いなあ。臧荼が弱すぎたのか。漢軍が強すぎたのか……」


 男がそう述べると控えている男に言った。


「亡命は受け入れてやれ、情報は欲しいからな」


「承知しました」


 男は立ち上がり、馬に乗ると去っていった。


「さて、もう少し寝るか」


 男は馬の背で再び、寝始めた。この男は後世においては冒頓単于ぼくとつぜんうと記載される男である。漢王朝を長年苦しめることになる匈奴の長である。










 


 劉邦は詔を発して諸侯王の中で功がある者を燕王に推挙させることにした。韓信かんしんら十人がそろって言った。


「太尉・長安侯・盧綰ろわんは功が最も多いため、燕王に立てることを請います」


(盧綰をか……)


 戦もできない。だからといって弁が立つわけではない。政治でも上手い内容を言えるわけでもない。


(それでも王として地方を治めるのは上手かったりするのだろうか)


 劉邦はそう考えた。こうして太尉・長安侯・盧綰を燕王に立てることにした。


「盧綰。上手くやれよ」


「はっ陛下のご期待に添えるように努力致します」


 喜ぶ盧綰を見ながら、やはりダメそうだなと思いながら劉邦は彼を見続けた。


 盧綰が燕に向かってから項羽こううの故将・利幾りきが叛した。


 かつて利幾は項羽によって陳県の令に任命されていたが、項羽が破れた時、利幾は項羽に従わず、陳令として漢に降った。劉邦は彼に潁川の地を与えて侯に封じた。


 後に劉邦が洛陽に来た時、通侯(徹侯)として籍を置く者を全て招いた。その中には利幾も含まれていた。


 利幾はかつて項羽に仕えていたためか。


(洛陽に呼んで殺すつもりではないか)


 と、恐れて謀反を起こした。


 劉邦は自ら利幾を撃って破り、殺した。


 九月、劉邦は諸侯の子を関中に集め、長楽宮の建築を開始した。長安遷都の準備のためである。


 劉肥りゅうひは長男である劉襄りゅうじょうを送ることにした。


「子供で行けるのはこの子だけだからな」


「そうですなあ、しかしこのように人質を取るような真似をするとは陛下の疑心も相当なものと言えましょうな」


 駟鈞しきんがけらけらと笑う。


「しかし、子供もいない諸侯や諸侯王はどうするのでしょうなあ」


「そうだな」


「まあ、それ相応の対応は取るでしょうが、何か動きがあれば長安の者が伝えてきますので、ご心配はなさらず」


「ああ、わかってる。頼むぞ」


 劉肥は彼を下がらせると虞姫ぐきの部屋に向かった。その部屋の前で子供が泣いている。


「どうしたじょう


 泣いているのは息子の劉襄であった。近づいて、ぎょっとした。劉襄の片手に魚が握られているためである。


「お母様みたいに魚丸呑みできない」


 劉章はそう言ってわんわん泣いている。劉肥はやれやれと彼の頭を撫でる。


「できないのが普通だ。さあ、部屋にお戻り、明日は長安に行くのだしな」


「うん」


 泣きながらも劉襄は自分の部屋に戻っていった。


「やれやれ」


 劉肥は虞姫の部屋に入った。彼女は寝転がっており、口を明けて、魚を丸呑みにしていた。


「子供が真似するぞ」


「真似すればいいじゃない。美味しいわよこの魚」


 骨を噛み砕く音を鳴らしながら虞姫は話す。そんな彼女に彼はため息をつきながら座る。


「襄ができないと言って、泣いてたぞ」


「そう」


 因みに彼女は妊娠している。後に産まれる劉章りゅうしょうは虞姫(ここでは駟姫と呼ばれている)との子である。


「お前は化物みたいなところを隠そうとしないなあ」


「子供を産めるのだから人に見えるでしょ」


 虞姫はそう言って次の魚を掴む。


「全く……」


 魚を再び、丸呑みにして噛み砕いていく虞姫は言った。


「それであなたはどうするの?」


「どうするとは?」


「これから動くのかどうかってことよ」


 劉肥は目を細める。


「いつもどおりにするだけさ」


「そう、ところであなた、何しに来たの?」


「駟鈞には親族はいるか?」


「さあね。知らないわ。自由に動かせる配下はいるみたいだけどね」


「そうか」


 劉肥は立ち上がり、部屋を出ようとする。


「あなた、前よりも考えていることがよくわからなくなったわね」


「そうか?」


「ええ」


「そうか」


 彼は目を細めながら部屋を出て行った。


「男って、わかんないわねぇ」


 虞姫は再び、魚を丸呑みにした。








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