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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第三部 漢の礎

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田横

 諸侯となった者たちはそれぞれ任地に向かった。楚王となった韓信かんしんは封国の楚に入ると漂母を招いて千金を下賜した。


 また、韓信を辱めて跨の下をくぐらせた者も招き、彼を中尉に任命した。韓信が諸将に告げた。


「彼は壮士である。私を辱めた時、私が彼を殺せないはずはなかった。しかし殺しても名(名分)がない。だから忍んで今の地位に至ったのである」


 ある意味、晒し者にしているようなものである。




 



 彭越ほうえつが漢から梁王に封じられたため、田横でんおうは誅殺を恐れ、徒属五百余人を率いて海に入り、島に居住した。


 因みにこの島は後に田横島と呼ばれることになる。安易な名前付けではある。


 田横を始めその兄弟たちはかつて斉地を平定したため、斉の賢者の多くが帰順していた。海中に住むようになってからそんな人々が集まったこともあり、劉邦りゅうほうは早く手を打たなければ後に乱を招く可能性があるように感じた。


 そこで使者を送り、田横の罪を赦して、入朝を誘うことにした。その際、劉肥が任地に出向いた後、斉の相国として派遣されていた曹参そうしんから書簡が届いていた。


「田横のことは時間をかけて慰撫してよければよく、このままにされるべきです」


 しかしながら劉邦はこれを無視した。


「何故、そのような書簡を送られたのですか?」


 劉肥りゅうひが曹参にそう訪ねた。


「田横の性格はよく知っております。その彼は陛下に膝を屈するとは思えないのです。そのため時間をかけるべきと進言しました」


「そうか」


 劉肥はそれだけ言って曹参から離れると彼に駟鈞しきんが近づいてきた。


「田横には派手に反乱でも起こしてもらいたいことですなあ」


「なぜ?」


「それによって討伐を我らに行わせて、名声をあげることもできますしなあ。大規模な反乱となればそれはそれで楽しいと思いませんかな」


 けらけらと笑う彼を劉肥は横目で見つめるだけである。


「まあ田横の反応次第ですな。あとは王よ。くれぐれも曹参には警戒なされれよ」


「わかっている陳平の間者だと申すのだろう」


「そうです。くれぐれも気をつけなければなりませんぞ」


 劉肥は小さく頷いた。











 使者を迎えて、田横は辞退した。


「私は陛下の使者・酈生を烹しました。今、その弟の商が漢将になっているとお聞きしております。私は恐懼しており、詔を奉じることはできません。庶人となって海島を守ることを請います」


 使者が還って報告すると、劉邦はわざわざ衛尉(宮門の衛屯兵を監督する官)・酈商に詔を発してこう告げた。


「斉王・田横がもうすぐ至る。人馬従者に対して敢えて手を出そうとする者がいれば、私は族夷(族滅)に処す」


 劉邦は再び使者に符節を持たせて派遣し、酈商に発した詔の内容を田横に詳しく伝えた。その上で使者が劉邦の言葉を伝えた。


「田横が参れば、大きければ王に、小さくても侯になれる。しかしながら来なければ、兵を挙げて誅を加えるだろう」


 田横は苦笑して同意した。


 彼は自分の賓客二人と一緒に伝馬(駅馬。早馬)に乗って洛陽に向かった。しかし洛陽から三十里離れた尸郷(地名)の厩置(駅。馬を置く場所)に着くと、使者に、


「人臣が天子に会う際のは、まず沐(沐浴)をする必要があります」


 と言って留まった。そして賓客二人を呼び、彼らに言った。


「私は漢王と共に南面して孤(国君の自称)を称していた。しかしながら漢王は天子となり、私は亡虜になって北面して仕えることになった。この恥辱だけでも既に甚だしいものだ。しかも私は人の兄を烹したにも関わらず、その弟と肩を並べて主に仕えなければならない。たとえ彼が天子の詔を畏れて動けなくとも、私の心に媿(慚愧。羞恥)が生まれないはずはない。そもそも陛下が私に会いたいのは、私の面貌を一目見たいからだけのことだ。今、私の首を斬れば、三十里の距離を駆けようとも、形容(容貌)が損なわれることはなく、まだ見ることができるだろう」


 田横はそう言って、自剄した。賓客たちは涙を流しながら彼の首を運び、使者に従って洛陽に行き、劉邦に上奏した。


 劉邦は田横が自剄したことに驚き、


「ああ、布衣(庶人)から身を興して兄弟三人が繰り返し王となった。賢人でないはずがなかった」


 と言って田横の節に心を動かされて涙を流し、二人の賓客を都尉に任命した。また士卒二千人を動員して王者の礼で田横を埋葬した。


 葬儀が終わると二人の賓客は田横の冢の傍に孔を掘って自剄した。二人とも孔に落ちて田横に従ったのである。


 それを聞いた劉邦はまたもや驚き、田横の賓客は全て賢人だと考えた。まだ五百人が海上の島に残っていたため、使者を送って洛陽に招いた。


 ところが漢の使者が至ると田横の賓客は田横の死を聞き、皆、自殺していった。













「ただ一人の招き方を間違えたのです。あのままそっとしておけばあれほどの者が死ぬことはなかったでしょう」


 曹参は劉肥にそう言った。


(父上はこれを望んでいたように思えるが……)


 劉肥としてはそう思えてならない。


 元々劉邦は侠者として鳴らしていた者である。その彼が田横の反応を予想できなかったとは思えない。


「ただ一人の招き方、処罰のやり方でその後ろにいる何百という命が散ることもある。政治とはそのことを考えなければなりません」


 曹参はまるで教育を行うかのように言った。


「一方で絶対に生かしてはならない者というのもおります」


「ほう、その者とは何か?」


「それは場合によりますので、お答えすることは難しくございます。されど決してお忘れなきよう」


 劉肥は彼の言葉を聞いた後、物陰に控えている駟鈞を横目で僅かに見て、すぐに目を離した。





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