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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第三部 漢の礎

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即位

第三部です。第一部、第二部と比べて戦争の話しが少なくなりますが、こういったところも書きたかったので頑張りたいと思います。

 諸侯が劉邦りゅうほうに上疏して言った。


「楚王・韓信かんしん、韓王・しん、淮南王・英布えいふ、梁王・彭越ほうえつ、故衡山王・呉芮(ごぜい、趙王・張敖ちょうごう張耳ちょうじの子)、燕王・臧荼ぞうとが死を冒して陛下に再拝発言させていただきます。かつて秦が道を失ったため天下がこれを誅しました。陛下は先に秦王を得て関中を定め、天下において最も多くの功を立てられました。存亡定危(滅亡した国を存続させ、危機に臨んだ国を安定させること)、救敗継絶(敗亡した者を援け、途絶えた家系を継承させること)によって万民を安んじ、功を盛んにして徳を厚くされました。また諸侯王で功がある者に恩恵を施し、社稷を立てさせました。既に地が分かれて定まったにも関わらず、諸侯王と位号が比儗(同格)ですので、上下の分を失っています。これでは陛下の著しい功徳を後世に宣言できません。よって死を冒して再拝し、皇帝の尊号を贈ることを請わせていただきます」


「私は帝とは賢者が有すものだと聞いている。虚言亡実の名(実情に合わない名称)は取るべきではなかろう。今、諸侯王は皆、私を高くに推しているが、どうしてそこに至ることができようか」


 諸侯王は言った。


「陛下は細微から身を起され、乱秦を滅ぼし、海内を威動させました。また、辟陋の地(僻地)である漢中から威徳を行い、不義を誅し、功がある者を立てて海内を平定されました。功臣は皆地を与えられて食邑としており、陛下は領地を私物にしませんでした。陛下の徳は四海に施されており、諸侯王で並ぶ者はいません。帝位に居ることこそ実宜(適切。相応しいこと)なのです。陛下が天下に幸を与えることを願います」


 劉邦は頷き、


「そうすれば天下の民にとって便になると言うのであれば、同意しよう」


 こうして諸侯王と太尉・長安侯・盧綰ろわんら三百人および博士・稷嗣君(「稷嗣」は邑名)・叔孫通しゅくそんつうが良日を選び、二月甲午(初三日)に尊号を劉邦に贈られ、劉邦は氾水の陽(北)で皇帝の位に即いた。


 王后を皇后に、太子を皇太子に改め、先媼(亡母)を追尊して昭霊夫人とした。


 劉邦が詔を発した。


「元衡山王・呉芮と子二人、兄子(従兄)一人は、百粤の兵を従え、諸侯を助け、暴秦を誅して大功を立てたため、諸侯が彼を王に立てたが、項羽が地を侵奪して番君にした。今ここで長沙、豫章、象郡、桂林、南海の地をもって番君・芮を長沙王に立てる」


 呉芮は項羽によって衡山王に立てられたが、後にその地を奪われて番君と称していた。但し、いつ王位を廃されたのかは不明である。


 劉邦がまた言った。


「故粤王・無諸(または「亡諸」)は粤の祭祀を世奉(代々奉じること)したが、秦がその地を侵奪し、社稷が血食(祭祀)を得られなくしてしまった。諸侯が秦を討伐すると、無諸は自ら閩中の兵を率いて滅秦を助けた。ところが項羽は彼を廃して立てることがなかった。今、閩粤王に立てて閩中の地の王とする。職責を失わせてはならない」


 粤王・無諸は越王・句践こうせんの子孫である。秦が越の地を奪って閩中郡を置いていたが、今回、改めて王に封じた。


 劉邦が西に移動して洛陽を都にした。


 天下が大いに定まり、洛陽を都にして、諸侯が全て臣属していたが、元臨江王・共驩(共尉)だけは項羽のために漢に抵抗しようとした。


 劉邦は盧綰と劉賈りゅうかに包囲させたがなかなか攻略できなかった。


(相変わらず、戦が下手だ)


 友人と従兄弟の戦の下手さを思いながら劉邦は特に支援を行わなかった。同調する勢力などいないため、時間をかければ十分落とせるという判断である。


 共驩は数か月後にやっと投降した。彼は洛陽に送られ、そこで処刑された。


 五月、兵を全て解散させて家に帰らせた。


「民の中にはかつて山沢に集まって安全を保ち、名数(戸籍)を登記しなかった者が多くいる。今、天下が既に定まったため、それぞれ自分の県に帰るように命じ、元の爵位と田宅を回復させることにしよう。吏は文法によって軍中の吏卒を教訓辨告せよ。笞辱してはならない。爵が七大夫以上に及ぶ者は皆、邑(封地)の収入を得させる。七大夫以下の者は皆、本人と戸(一家)の賦税徭役を免じることとする」


 七大夫は公大夫を指す。爵位が第七位に当たるため、七大夫という。


 続けて詔を発した。


「七大夫と公乗(第八爵)以上は全て高爵である。諸侯の子や従軍して帰郷した者には高爵が甚だ多い。私はしばしば官吏に詔を発して、まず彼等に田宅を与え、彼等が吏に要求することがあれば、急いで処理するように命じることにしよう。爵位がある者や人君(国邑を有して人の主となった者。高爵の者)は上(皇帝)が尊礼(尊重して厚遇すること)しているのだ。しかしながら久しく官吏に要求を訴えてもいまだに解決できない者もいるのだ。これは甚だしく事宜(道理)を失った状態である。かつて秦の民で爵が公大夫以上にある者は令丞(県令・県丞)と対等の礼を用いたものなのだ。今、私も爵を軽視することがないが、どうして吏だけはこのような態度でいるのだろうか。そもそも法によって功労がある者には田宅を与えると決められている。今、小吏は従軍したこともないにも関わらず、自分自身を多く満たし、功がある者は逆に得ることができない。公に背いて私を優先し、守(郡守)・尉(郡尉)・長吏(県令・県長)の教訓(教訓)も全く行き届いていない。諸吏には高爵の者を善遇するように命じる。我が意に背くことはあってはならない。廉問(調査)して我が詔に従わない者がいたら重く論じよ(厳しく裁け)」


 劉邦がある日、洛陽南宮で酒宴を開いた。因みに洛陽は秦代の時点で既に北宮と南宮があった。その宴の中、劉邦は言った。


「徹侯(後の「通侯」「列侯」。「徹」は「通」と同義で、功徳が王室に通じるという意味)、諸将は私に隠すことなく、道理を語れ。私が天下を得ることができたのはなぜか。項氏が天下を失うことになったのはなぜか?」


 高起こうき王陵おうりょうが答えた。


「陛下は傲慢で人を侮っておられ、項羽こううは仁があって人を愛していました。しかしながら陛下は人に城を攻めさせて地を奪わせますと、その攻略した地を与えて天下と利を共にしました。逆に項羽はそうすることなく、賢能の者に嫉妬し、功がある者を害し、賢者を疑いました。戦に勝利しても人に功を与えず、地を得ても人に利を与えなかったため、天下を失ったのです」


 劉邦は笑っていった。


「汝らは一を知っているがまだ二を知らない。帷幕の中で策をめぐらし、千里の外で勝負を決することにおいては、私は子房(張良ちょうりょう)に及ばない。国家を鎮め、百姓を慰撫し、餉餽(食糧)を供給して糧道を絶たないという点においては、私は蕭何しょうかに及ばない。百万の衆を統率し、戦えば必ずや勝ち、攻めれば必ず取るという点においては、私は韓信に及ばない。この三者は皆、人傑なるものの、私は彼らを用いることができた。これが私が天下を取った理由だ。項羽は范增はんぞう一人すら用いることができなかった。これが私の禽(擒)となった理由だ」


 群臣は皆、納得して喜んだという。


 劉邦が皇帝となり、新たな時代を迎えた。しかしそれは同時に大きな反動へのきっかけに過ぎなかった。









次回、さっそく結構な人が死ぬ。

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