終わりと始まり
項羽が死んだことで、多くの楚の地が漢に降伏する中、魯だけは漢に降ろうとしなかった。魯は項羽が最初に封侯された地であるためか項羽への忠義心を最後まで捨てようとしなかったのである。
劉邦は天下の兵を率いて魯を屠そうとした(皆殺しにしようとした)。
漢軍が城下に至った時、絃誦の声(琴の音や読書の声)が聞こえた。すると張良が進言した。
「魯は礼義を守る国ですので、主のために死節を守っているのでしょう。ここは項羽の首を見せて降伏するように問うべきです」
劉邦は魯に人をやって項羽の首を魯の父兄に示した。魯は項羽の死を確認してやっと投降を決めた。その後、劉邦は魯公の礼で項羽の葬儀を行い、穀城に埋葬した。自ら発哀し、哭声を上げてから去っていった。項羽への敬意の現れと言って良いかもしれない。
また、劉邦は項氏の諸族を誅殺せず、後に項伯らの四人を列侯に封じて劉氏を与えている。奇妙なほどに彼は項氏一族に対して優しかった。
封じられた四人というのは、射陽侯・項伯、桃侯・項襄(劉襄と書かれることのが多い)、平皋侯・項佗と玄武侯(名は不明)である。
項伯は鴻門の会で劉邦を助けた人物であり、その感謝の現れで評価されたのだろう。しかしながら彼の死後、子の劉睢が罪を犯したため射陽国は廃されることになる。
項襄は早くから客(賓客)として劉邦に従っていたという変わり種である。諡号を安侯といい、劉襄の子の哀侯・劉舎は景帝の時代に丞相にまでなる。
項佗(「項它」)は碭郡の長として漢に帰順した。諡号は煬侯である。
最後の玄武侯は記述がないため、詳細が分からない。
楚軍に捕えられて楚に連れていかれた民は皆故郷に帰すように決めてから劉邦は帰還し、定陶に至った。そこで劉邦は突然、斉王・韓信の営壁に駆け入るや、軍権を奪った。
これほどの早業には韓信は対応できないまま彼は軍権を取られたまま次の命令を待つように指示された。
正月になると劉邦は韓信を楚王に改め、楚王は都を下邳に置き、淮北を統治するとした。また、魏相国・建城侯・彭越を梁王とし、梁王は定陶を都とし、魏の故地を統治させるとした。
さて、ここで劉邦は韓信の代わりに斉を治める者として、劉肥を斉王とすることを決定した。
「謹んでお受け致します」
劉肥は拝礼すると直様、任地である斉に向かうことにした。その道中、彼の元へ駟鈞が近づいた。
「遠ざけられましたなあ」
けらけらと笑う彼に劉肥は無言である。
「恐らく陳平辺りの策略でございましょう。あなた様を警戒し、遠ざけようというのです]
劉肥は答えない。
「今は我慢することです。あなた様の本当に欲しいもののため、本来はあなた様に与えられるべきものを得るためにも……」
けらけらと笑う駟鈞を背に劉肥は目を静かに閉じた。
「ちょっと露骨過ぎたんじゃない?」
陸賈が陳平に言った。
「陛下のお子の中で成人なされているのは劉肥様ただ一人。そのため斉王になられる方がいなかったそれだけのことだ。劉氏以外で王になられるべき方が一人の以上、劉肥様を斉王にしなければならなかった」
「本当かなあ?」
陳平の言葉はあくまで建前であると陸賈は思っている。
「天下の安寧は磐石な政権によってもたらされるもの。そのための布石ではある」
「揺らぐかな?」
「揺らぐ。確実に。私たちはその揺らぎをどれほど小さくできるかが仕事だ」
彼の言葉に肩をすくませる。
「まあね。でもさあ陳平さん」
陸賈はおどけたように言う。
「そういう揺らぎっていうのは、意外なところから始まるもんだよ。それにどれだけ早く対応できるかが鍵じゃないかなあ」
「天下はこれで治まったのね」
呂雉はそう呟いた。
「ええ、ある程度は治まるでしょう」
「ある程度とは?」
薄姫の言葉の真意を直様、探ろうとする呂雉に、
(この方は地頭が良すぎる)
と思いながら薄姫は言った。
「天下は陛下の元で安寧を得ることになりますが、それでも多かれ少なかれ、不満を持つ者が出てきます。そんな彼らによる反動に警戒をしなければならなくなるでしょう」
「その対応するための手段として何があるかしら」
(そんなことは本来、王后足る方が気にするべきことではないはずなのに……)
呂雉の思考が完全に君主としての思考になっていることに薄姫は驚きと恐怖を感じる。
「それ相応の手段を用いることになりましょう」
「それ相応の手段とは?」
薄姫は知識の貪欲さを持っている彼女に辟易しながらも答えた。
「例えば、陛下が韓信の軍権を奪ったようにです」
「なるほどね……」
呂雉は小さく呟く。
「なら、警戒するべきは韓信、彭越、英布、盧綰、劉肥、そしてあの女かしらね」
その呟きに薄姫はただただ恐怖する。とんでもない女がここにいる。この女がすることに巻き込まれないようにしなければならない。彼女は改めてそう思った。
夜。
「始皇帝が死に、項羽も死んだ」
黄石が呟く。
「英雄は劉邦ただ一人となった。しかしその彼もやがて世を去るだろう」
夜空を見上げる。そこには数多の輝きを放つ星たちが見える。
「英雄無き世が到来し、時代はどうなるのだろうか。再び、動乱の時代が訪れるのか。安寧の世が生まれるのか」
英雄がいなければ時代は成り立たないのか。それとも英雄がいなくとも人々は時代を作り上げることができるのだろうか。
「ある者は自らの理不尽に苦しみ、足掻くことだろう。ある者は乱れし世の再来を望むだろう。ある者は安寧の世を望むだろう。ある者は永遠の幸せを求めるだろう。数多の者たちの願いが、欲望が如何なる者を作り上げていくのだろうか」
黄石は大地に輝く星たちを見る。
「さあ、歴史の続きを始めよう」
第二部 完
次回 第三部 『漢の礎』




