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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

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項羽

 漢軍全体的に項羽こううを逃がさないために軍を広範囲に展開、逃げ場を封じにかかっていた。


 劉肥りゅうひも命令通りに逃げ場を封じるために動く。


(ついに項羽を追い詰めた……)


 あの項羽がもうすぐ死のうとしている。あの化物じみた武勇を持った男がである。


『もし私が息子を持つのであればお前のような息子が欲しいものだ』


 項羽はなぜそんなことを言ったのか。


「わからないものだ……」


 その時、見知らぬ影が見えた。


「待て、そこの者」


 劉肥は剣を抜き、向ける。


「おお、これはこれは」


 二人うちの一人が手を広げ、話し始める。


「あなたは劉肥様ではありませんかな?」


「なぜ、私を知っている?」


 男は笑う。


「それはそれはよく存じ上げておりますとも、あなた様は大変有名ではありませんか。ここにおりますのわ妹でして、あなたに献上したいのですが、どうですかな?」


「妹?」


 馬鹿なことを言う男だ。そう思いながら劉肥は剣を向ける。


「それが妹ならば、お前も化物ということだな」


 男はその言葉に目を細め、妹と述べた女を見る。


「ええ、その男は私の正体を知っていますわ」


 女……虞姫ぐきはそう言った。


「全く、それを早く言わないか」


 男はやれやれと首を振ると言った。


「まさか存じ上げているとは知りませんでしたなあ。しかし、私は化物ではございません。私は楚軍においては、虞子期ぐしきと称していた者でございます。本名は駟鈞しきんと申します」


 駟鈞は道化のようにそう述べた瞬間、劉肥は近づき彼の首に剣を当てる。


「ほう、それはそれは項羽の愛妾の兄を称しておきながら偽名とは怪しい男だ」


「まあそうでしょうな。では、斬りますかな?」


「もちろんだ。その化物を連れて何を企んでいるかわからんからな」


 劉肥は一気に剣で彼の首を飛ばそうとする。


「ああ、残念だ」


 駟鈞は笑う。


「私ならばあなたの欲しいものを手に入れさせることができるというのに」


 そこで劉肥は剣を止めた。


「ふざけたことを言う」


「ふざけたこととは?」


 駟鈞は口角を上げる。


「ならばなぜ、お止めになられたのですかな」


 彼はけらけらと笑う。


「このまま剣で私の首を跳ねれば良かったでしょうに、そでも止めた。あなたに欲しいものがある。そうでございましょう」


 劉肥は彼を見据えたまま、剣の位置を変えない。それでも斬ろうとしない。


「私ならばあなたが欲しがっているものをお取りになられる力となりましょう」


 駟鈞は腕を広げる。


「さあ、如何しますかな?」


「私の欲しいものとはなんだ。答えてみろ」


「それはあなた様ご自身がご存知のはず、しかしならば本来はあなたが得るべきものであるということは確かでございましょう」


(どうなるかしらね)


 二人を眺める虞姫はふと上を見上げる。木の上で見つめる黄色い服の男がいる。


(あなたの予想通りになるか天の理通りになるのか)


 劉肥は剣を振りかぶった……



















 追撃を受けながら項羽は再び兵を率いて東に戻り、東城に至った。二十八騎が従っており、随分と減った。追撃する漢軍の騎者も数千人にまで減少していた。


 項羽は笑いながら言った。


「私は兵を挙げてから今に至るまで八年が経った。この身は七十余戦を経験したものの、当たった者は全て破り、撃った者は全て服させ、まだ敗北を味わうことはなく、霸を称えて天下を有した。しかし今、ついにここで困窮することになった。これは天が私を亡ぼすのであって、まだ敗けたわけではない。今日、死ぬだろうが、諸君のために快戦し、必ずや包囲を潰し、将を斬り、旗を倒し、三勝して、天が私を亡ぼそうとし、まだ敗北していないことを諸君に教えたいと思う」


 項羽は騎兵を四隊に分けて四方に向かわせることにした。漢軍が数重に包囲する中、項羽は笑いながら騎兵に言った。


「私が汝等のために敵の一将を取ってみせようではないか」


 項羽は部下の騎兵を四面から山下に駆けさせ、山東の三カ所で分かれて合流する約束をすると自ら大声を挙げて駆けて行った。漢軍は圧倒されて壊滅し、一将が項羽によって斬られた。


 この時、漢の郎中騎・楊喜ようきが項羽を追いかけたが、項羽が目を見開いて叱咤してみせると、楊喜は人馬とも驚いて数里離れた場所に逃げていった。


 からからと笑いながら三カ所に分かれた味方の騎兵うちの一隊と合流した。


 漢軍は項羽の騎兵が三ヶ所に別れたため項羽の居場所が分からなかった。そのため軍を三つに分けて再び包囲する。


 項羽は再び、漢軍に突進して再び一都尉を斬り、数十から百人前後の漢軍の兵を殺していった。


 改めて騎兵達を集めた時、失ったのは二騎だけであった項羽が騎兵達に、


「どうだ?」


 と問うと、騎兵達は皆伏して、


「王の言う通りでした」


 と答えた。


「王、まだ王の天運は失ってはおりません。東へ逃げましょうぞ」


 項羽はその配下の言葉に苦笑すると東に向かって烏江を渡ることにした。


 烏江の亭長が船を岸につけて待機しており、項羽に言った。


「江東は小さいとはいえ、その地は方千里もあり、衆も数十万人を擁しておりますので、王となるに足ります。王は急いで渡ってください。今は私だけが船をもっています。漢軍が至っても渡ることができないでしょう」


 すると項羽は大笑いした。そして言った。


「天が私を亡ぼそうとしているのに、なぜ渡る必要があるのか。それに、私は江東の子弟八千人と江を渡って西に向かったにも関わらず、今は一人も還る者がいない。たとえ江東の父兄が私を憐れみ、王に立てたとしても、私に何の面目があって会うことができるようか。彼らが何も言わなくとも、私の心に愧(羞恥。慚愧)が生まれないというのか」


 彼は亭長に騅馬を与えることにした。


「私はあなたが長者だと知っている。私が乗っているこの馬は五歳になり、向かうところ敵なしで一日に千里を駆けたこともある。殺すのは忍びないからあなたに贈ろう」


「王っ」


 騎兵達たちは涙を流しながら馬から下りた。


「お前たち、涙を流すな」


 項羽は言った。


「男子足る者、涙を無闇に見せるものではない。悲しい時、苦しい時ほど、胸を張って立ち上がるものだ」


 項羽は彼らと共に、漢兵と接戦した。


「ひいいい」


 項羽の一撃によって数人の兵が弾き飛ばされ、殺されていく。


「殺せ、早く殺せぇ」


 指示を出す将も圧倒言う間に殺されていく。


「項羽の周りにはもはや兵はいないぞ。何をやっているのか」


 将軍の一人が叫ぶが、それでも誰も項羽を殺せない。この時点で、項羽一人で殺した漢軍の兵の数は数百人に上っていた。しかしながら既に項羽の身も十余の傷を負っている。


「中々、項羽の首が届かんな」


 劉邦は呟くと立ち上がった。


「前線を上げるか」


「いけません。陛下」


 陳平ちんぺい張良ちょうりょうが止める。


「なぜ、止める。危険だからか?」


「そうです」


 劉邦は笑った。


「そうか、そうか。ここにいる誰もが項羽を恐れているか。これほどの大軍に囲みながら項羽ただ一人を恐れている。これが笑わずにおけるか」


 彼はひとしきり笑うと目を細めた。


「男名義に尽きるなあ項羽よ」


 もはや項羽しか楚軍はいない中、項羽を前に漢軍の誰もが尻込みする。そこに漢の騎司馬・呂馬童りょばどうがやってきた。


「呂馬童ではないか?」


 懐かしい顔だと思いながら項羽はそう言った。


 呂馬童は顔を背けた。彼は項羽を指さし、中郎騎・王翳に、


「項羽です」


 と言った。


 項羽は笑った。


「漢は私の首に千金と邑万戸をかけたと聞いている。汝に与えてやろう」


 項羽は自ら己の首を跳ねた。


 その瞬間、倒れいく項羽の遺体にどっと諸将が押しかけた。王翳が項羽の頭を取り、他の騎兵も殺到して項羽の死体を奪い合った。互いに争って数十人が命を落としていった。


 最後は楊喜、呂馬童と郎中・呂勝りょしょう楊武ようぶがそれぞれ体の一部を得た。五人が死体を持ち寄って項羽のものだと認められたため、褒賞の万戸は五人に分け与えられることになり、五人とも列侯に封じられた。


 呂馬童は中水侯、王翳は杜衍侯、楊喜は赤泉侯、楊武は呉防侯、呂勝は涅陽侯である。


 項羽の首を献上されて、彼の首を見つめる劉邦は目を細めた。


「おめぇさんは本当に強かったなあ」


 劉邦は寂しさを感じた。誰よりも強く、誰よりも天下を掴んでいた。そんな男が死に、自分は生きている。


「なあ、項羽よ。おめぇさんと戦って流した血の量に見合うものを俺は作れるのかね?」


 彼の言葉に誰も答えるものはいなかった。



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