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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

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戸惑い

 漢と楚の講和が結ばれ、項羽こううは兵を解いて東に向かい始めた。劉邦りゅうほうも西に帰ろうとした。


 しかし張良ちょうりょう陳平ちんぺいがそれを止めた。


「漢は天下の太半を有しており、諸侯も皆、帰順しています。逆に楚兵は疲労して食糧も尽きているのです。今は天が楚を亡ぼそうとしている時です。この機に乗じて楚を攻めるべきです。兵を解いて攻撃しないのは、『虎を養い、自ら憂患を残す』というものです」


 自ら和睦を持ち出し、それによって和睦したにも関わらず、そんなことをすれば本来、天下の非難を受けて仕方ないの無い行為と言える。


(だが、ここで項羽を倒さなければならないのか)


 秦が滅んだ後の戦乱は凄まじいものであり、これ以上民衆が死ぬのは避けたい。


「よし、楚を攻める」


 劉邦は決断した。


 紀元前202年

 

 年が明けて、漢軍は項羽を追撃して陽夏南に至った。そこで軍を止めて、斉王・韓信かんしん、魏相国・彭越ほうえつに使者を送り、共に楚を撃つため、合流する期日を決めた。


 しかし、劉邦が軍を進めて固陵に至っても、韓信と彭越は現れなかった。


「良いのか合流しなくとも?」


 田横でんおうが彭越に訪ねた。


「いいさ、ここで合流しても大した旨味はねぇしな」


 同じ頃、曹参そうしんも韓信に合流しないのかと訪ねた。


「彭越にも同じような内容の書簡を送っているのであれば、彭越は来ないだろう。彭越が来なければ兵力的にも項羽を殺せない。だから動かん」


 韓信は彭越は欲深いため、あれでは動かない。動かないとなれば万全の勝利を得ることができない。韓信は負け戦が嫌いなのである。


 しかしながら自分も彭越と同じように欲深いやつだと思われていることに彼は気づいていない。そこが韓信の欠点である。


 さて、合流してこないとはいえ、一度攻めると決めた以上、攻めないわけにはいかない。


「楚軍を攻めるぞ」


 劉邦は全軍を持って、楚軍に襲いかかった。


 しかしながら既に漢軍の動きは楚軍に伝わっている。不自然な沈黙もあったのも大きい。


「漢軍の信義の無さよ」


 殿を務める季布きふは憤りながらやってくる漢軍と激突した。さて、その漢軍の先鋒に呂馬童りょばどうがいた。


「呂馬童か」


 季布は彼を見つけるとすぐさま、矛を振るった。


「季布殿か。お懐かしいですな」


 呂馬童は剣を抜く。


「なぜ、裏切った」


 季布は呂馬童の気性を知っている。決して劉邦が美しいと評価されるような人間ではないにも関わらず、彼が劉邦の元にいったことに疑問を持っていた。


「項羽は武人としてならば、確かに比類なき美しさを持っております」


 呂馬童は季布の言葉に答える。


「されど、人の世を作る美しさを漢王に見たのです」


(人の世を作る美しさ……)


 それはつまり項羽に人の世を作れる人ではないのだという。


「今回のような騙し討ちをするような男がか」


「古の聖人も嘘をつくときはある」


 ふたりは矛と剣をかち合わせる。


 一方、漢軍による奇襲を受けたことを知った項羽は後方の軍にまで自ら出向き、襲ってくる漢軍の兵を蹴散らして回った。


「項羽だ」


 蹴散らされる兵たちを見ながら劉肥りゅうひは目を細めた。


 何もないまま項羽に負けたことのある劉肥は正直、恐怖し身体が上手く動かないのを感じたが、


「でも、ここで項羽を」


(殺せれば……)


『身の程を知りなよ』


『良き兄になってもらいたいと思っている』


「五月蝿い」


 言われた言葉が思い浮かび、苛立つ劉肥は剣を持って、項羽に挑みかかった。


「邪魔」


 だが、項羽は彼を見ることもなく矛を振るい、彼を弾き飛ばす。劉肥は咄嗟に矛の刃に剣を合わせていたため、斬られなかったが、勢いによって弾き飛ばされ、兵たちにぶつかり転がっていった。


「がっ、は、あ……」


 劉肥は身体の軸から震えるのを感じる。あまりの痛みですぐに起き上がれない。


(邪魔か)


 たったその一言だけで項羽は劉肥のことなど興味がないようだった。


「くそが」


『身の程を弁えろ』


「五月蝿い」


 劉肥は近くに転がっている死体となった兵の剣を手に取り、二つの剣を杖に立ち上がる。


「五月蝿いんだよ」


(どいつもこいつも)


 彼は項羽を睨みつける。


「てめぇの首寄越せや」


 一本の剣を項羽に向かって投げつける。項羽はそれを弾く、その瞬間に劉肥は素早く項羽に向かっていき、剣を振るう。それもあっさり防ぐが劉肥は諦めない。


 何度も何度も剣を振るう。それら全て防いでいく項羽に舌打ちすると一旦、距離を取り、身体を低くして、足を斬ろうとする。しかしそれも項羽に防がれる。


 その瞬間、劉肥は身体を低くしたときにつかんだ土を項羽の顔めがけて、投げる。


 それを避けた瞬間、項羽の顔に向かって剣で貫こうとする。それも項羽は距離をとって避ける。


「全く、卑怯なことだ」


 項羽が見下したように言う。


「黙れ」


 劉肥は目を怒らせて項羽を睨む。


「あんたの首が欲しんだ」


「ほう」


「あんたの首があれば……」


 そこまでつぶやき、劉肥ははっと自分は何を考えていたのだろうと思い始める。


(くそ、私は……)


「本当に欲しいものがあるんだ」


 劉肥は項羽に剣を向ける。


「だからあんたの首が欲しい」


 それを聞いて、項羽は笑った。


「面白い。功績が欲しいとかではないようだ」


 項羽という人は本当に面白そうに劉肥を見る。


「さあ、来い。お前の欲しい首はここにあるぞ」


(舐めてやがるな)


 劉肥はいらつきながら、項羽に向かっていった。


「あれは」


 呂馬童は季布と斬り合いながら項羽と斬り合っている劉肥を見た。


「劉肥様。なぜ、項羽と」


「よそ見している場合か」


 助けにいきたいが、季布の矛がそれを邪魔する。


(しかし……まるであれは……)


 呂馬童は斬り合う項羽と劉肥を見て、ふとまるで項羽が稽古をつけているようにも見えた。


「どうした。甘いぞ」


 項羽は笑いながら劉肥の剣を防ぐ。


「くそ」


 一つ一つの剣を完全に防がれてしまい、劉肥はいらつく。


「これでどうだ」


「甘い」


 項羽にどんな攻撃を仕掛けようとも、防がれてしまう。


「さて、そろそろ良いか」


 項羽はそう言うと劉肥の頭を掴むと漢軍の兵に向かって、投げつける。既に漢軍はこれ以上の戦いは難しいと考えて、撤退を始めていた。


「おい、小僧」


 実際はそれほど年があまり離れていないにも関わらず項羽は劉肥に声をかけた。


「もし私に息子を持つのであればお前のような息子が欲しいものだ」


 劉肥は項羽の言葉に驚く。そんな彼がおかしいのか項羽は笑いながら去っていった。


 本来、追撃をかけていたにも関わらず、漢軍は楚軍に勝てず、それどころか大破に近い被害を受けてしまった。


 劉邦は再び営壁を堅めて守りに入った。


 一人、帰還した劉肥は呟く。


「なんで、あんなことを……」


 そして、その言葉を聞いて、嬉しいと思ってしまった自分に驚き、戸惑う自分に気づいた。




 


 

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