焚書
紀元前213年
秦は獄吏でありながら不直な者、罪があると知りながら判決を覆して罪人を放った者、誤った裁きを下した者(失者)を謫治(懲罰)し、長城建築に従事させるか南越の地(前年の五嶺)に移住させた。これに恐れた曹咎は逃走した。後に項梁の元に行く事になる。
そんな時、始皇帝は咸陽宮で酒宴を開いた。
博士七十人が進み出て始皇帝の寿を祝った。
僕射・周青臣が始皇帝の功績を讃頌して言った。
「かつて秦の地は千里に過ぎませでしたが、陛下の神霊明聖のおかげで海内を平定し、蛮夷を放逐することができました。日月が照らすところで賓服(服従)しない者はおりません。諸侯は郡県となり、人人は自然に安楽し、戦争の患もなくなり、これを万世に伝えることになったのです。上古から今まで、陛下の威徳に及ぶ者はいません」
始皇帝は気分を良くした。すると博士で斉人の淳于越(淳于髠の子孫か?)が進み出て言った。
「殷(商)・周の王は千余歳に及び、子弟功臣を封じて枝輔(補佐)にしたと申します。今、陛下は海内を有しておられますが、子弟は匹夫(庶民)のままです。田常や六卿のような臣下が現れたとしても、輔拂(補佐)がなければ、どうして国家を助けられるでしょうか?」
田常と晋の六卿はどちらも国君の地位を衰弱させ、後には子孫が簒奪を行っている。
「事を行うにあたって古を師としないにも関わらず、長久だった者がいたとは聞いたことがありません。今また周青臣が面諛(面前で阿諛追従すること)して陛下の過(過失)を重ねさせたが、彼は忠臣ではありません」
不快な表情を浮かべた始皇帝はこの内容について議論するように命じた。すると丞相・李斯がそれを察知して上書して言った。
「五帝の制度は互いに繰り返すことがなく、三代の制度も互いに継承することはなく、五帝も三代もそれぞれ異なる制度をもっていました。それぞれがそれぞれの方法で治めたのは、過去の逆を行う必要があったからではなく、時代の変異に従ったためです。今、陛下は大業を創り、万世の功を建てられました。これは愚儒(愚鈍な儒者。読書人)に理解できることではありません。そもそも淳于越が言及したのは三代の事です。倣う必要があるでしょうか?」
元々儒教の元で学んでいた男の割に儒者は物事がわからないとのたまうこの男は何だろうか?
「往時は諸侯が並争していたため、遊学の士を厚く招きました。しかし今は天下が既に安定し、法令が統一して出されています。百姓は家で農工に力を尽くすべきであり、士は法令辟禁(刑法禁令)を学習するべきなのです。ところが今、諸生は現在の事を学ばず過去に倣おうとし、それによって当世を非難して黔首(民)を惑乱させ、互いに法を否定することを人に教えています。私は死を冒して申し上げます。古の天下は散乱として統一できませんでした。そのため諸侯が並立し、皆が古を語って現在を誹謗し、虚言を飾って実を乱し、人々が私学(自分の学説)を善とし(正しいと信じ)、上(国君)が建立したもの(政治・制度)を否定してきました。今、皇帝は天下を并有し、是非を正して至高の地位を築きました。それにも関わらず、人々は私学によって互いに法教(法令・政教)を否定し、令(命令)が発布されれば、それぞれが自分の学説に基いて議論し、入朝したら心中で非難し、出たら巷で議論し、国君を誇り阿諛追従することで名を挙げ、異趣(異なる見解)によって自分を高くし、群下を率いて政府を造謗(誹謗)しています。このような状態を禁止しなければ、主勢(天子の権勢)は上から降ることになり、党与が下で形成されることになります。禁止することこそ便(利)となるのです」
これから彼が述べることが後世において始皇帝の悪名を高めさせたことを思うと彼の発言は善言であっただろうか。用いた始皇帝が悪かったのだろうか。少なくとも彼は儒教を学んだにも関わらず、天下の儒者に喧嘩を売り始める。それが始皇帝への非難に晒させたことは確かである。
「よって私は以下のことを請います。史官は秦記以外の書(列国の史記。史書)を全て焼き捨て、博士官が職責によって保管する書以外は、天下に私蔵されている『詩』『書』および百家の語を全て守・尉(郡守と郡尉)に提出させ、まとめて焼き捨てるべきです。敢えて『詩』『書』について偶語(集まって議論すること)する者は棄市に処すようにし、古のことを挙げて現在を非難する者は族滅し、官吏で見聞きして知っているにも関わらず、検挙しなければ、同罪と見なします。また、令を下して三十日経っても書を焼かなかったら黥(顔に刺青をする刑)に処して城旦(朝から城を守る刑徒。長城の修築に派遣されることになる人たちで四年の刑)とします。排斥する必要がないのは医薬、卜筮、種樹(農業)の書のみです。また、もし法令を学びたい者がいたら官吏を師にするべきです」
彼の発言の最後の部分をよくよく考えると法家の書物まで燃やすことを提案しているように思われる。
始皇帝は制(皇帝の言葉)を下して許可した。
こうして秦の焚書が始まります。天下の書が焼かれて博士官だけが書籍を所蔵することになったが、後に項羽が秦の宮殿を焼いた時、博士が所蔵していた書も失われることになる。
戦国時代に関する列国の史書が乏しいのは焚書が原因である。
天下に焚書の内容が轟くと魏人の陳餘(陳余)が孔鮒に言った。
「秦が先王の書籍を滅ぼそうとしおられますが、あなたは書籍の主だ。危険ではないでしょうか?」
孔鮒は孔子の八世孫で字を子魚という。儒学の書を守っていた。
孔鮒はこう言った。
「私は無用の学問を為してきた。私を知るのは友だけである。秦は私の友ではない。だから秦は私を知らない。私に何の危険があるというのか。私は書籍を隠して求める人が現れる時を待つとしよう。求める人が現れたら憂患はなくなる」
また、この時、儒者の書籍を隠そうと伏勝(伏生)が書籍を土壁に盛り込み隠すなど、儒者は秦による弾圧に抵抗を示した。
その抵抗は始皇帝にとって不快であった。