表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

79/126

国母となる人

 七月、劉邦りゅうほう英布えいふを淮南王に立てた。因みに英布の諡号は正式に残されており、「武王」である。


 八月、北貉と燕の人が漢に梟騎(勇猛な騎兵)を献上した。まるで朝貢のような状況である。


 また、この頃、漢は初めて算賦の制度を定めた。


「算賦」とは人頭税のことで、十五歳から五十六歳までの民は賦銭(税金)を出し、一人当たり百二十銭を出して、これを一算という。庫兵(蓄えられた兵器)や車馬の費用とした。


 劉邦は同時に令を下し、軍士で不幸にも命を落とした者がいれば、官吏が衣衾(衣服と布団)で死体を包み、棺に納めて家に送らせるとした。


 この命令が発せられてから、四方が漢に帰心したとされている。大げさではあっても長らく続いた動乱に対して、漢が余裕を見せた証拠とも取れなくはない。


 劉邦が陸賈りくかを派遣して項羽こううに講和と太公(劉邦の父)ら家族を返すように求め始めていた。しかしながら項羽は要求を拒否した。


「全く、道理というものがわからないよね。相変わらず」


 陸賈は頬を膨らませる。


「うーむ」


 すると陳平ちんぺいが進み出た。


「陸賈殿の弁術はまっとうなものですので、ここは弁士として縦横家に近いものを派遣なされてはどうでしょうか?」


「そうだなあ。なら侯公こうこうにしよう」


 侯公がいつの時から劉邦の元にいるのかわからない男である。その風貌はまるで死人のような肌の色をしており、それでありながら存在感が皆無という不思議な男である。


 そんな男が項羽の元に派遣された。


 侯公はぼそぼそと話すため、周りの項羽の配下たちには全く声が聞き取れなかった。


 変な奴を寄越したものだと周りは嘲笑ったが項羽は突然、立ち上がると、講和に同意して漢と天下を二分する約束をした。


 配下たちは大いに驚く。またもや侯公がぼそぼそと話した。すると項羽は洪溝(鴻溝)の西が漢、東が楚とすることに同意した。


 九月、楚が太公と呂雉を漢に返し、兵を率いて東に帰ることにした。


 太公と呂雉が帰還したため漢兵がそろって万歳を唱えた。


 劉邦は見事に仕事を成し遂げた侯公を平国君に封じたが、侯公は姿を隠して二度と劉邦と会うことはなかった。劉邦はこう呟いた。


「彼は天下の辯士で、彼がいる所は国が傾く、だから逆に平国君と号したのだ」


 不思議な話である。












 さて、呂雉が戻ってきたことを知った薄姫はくきは女官として、呂雉の傍に控えさせて欲しいと劉邦に願った。


「なぜ?」


「正室であるとはいえ、奥方様はあまり陛下の元におられず、王の妃としての礼に詳しくないように思えます。そのためお側に控えて、その補佐を私に任せていただきたいのです」


(それで正室の信頼を勝ち取る)


 という打算もある。


「ふむ」


「恥ずかしいことながら私も……王の妃だったことがありますので……」


「わかった、お前に任せる」


「ありがとうございますわ」


 薄姫は自分の思ったとおりになり、意気揚々と呂雉の元を訪れた。


「この度、女官としてお仕え致します薄姫です」


「そう……」


 呂雉は興味がないように呟いた。


(さて、感情が低いわね)


 薄姫は目を細める。


「どうかなさいましたか奥方様?」


「別に……」


 困ったものだ。あまりにもこちらに通ってこない。


「奥方様、私は奥方様のお力になりたいのです」


「そんなはず無いでしょう」


 呂雉はそう呟く。


「あなたも……あの人に抱かれたのでしょう?」


(嫉妬心の強い人なのかしらね?)


 薄姫は微笑みながら言った。


「私が抱かれることはありませんわ」


「なぜ、容姿がいいじゃない」


 薄姫は彼女の胸を見て、腰を見て、自分を見て、わずかに眉を上げたがすぐに顔を整えた。決して僻みではない。


「私は元々魏王の妻でしたわ。そんな私を抱くと陛下の外聞が悪くなりますので、抱かれることはないのです」


「そう……でも、私は正室だとしても他の愛人も多くいてそんな人たちの元に日夜通っているのでしょう?」


(やれやれ、本当に古参の諸将の信頼を勝ち得ている人とは思えないわね)


「確かに陛下の元には多くの愛妾がおられます。しかしながら奥方様は正室であり、御子息は皇太子殿下であられるのです。何を憂うことがありましょうか?」


「皇太子?」


 呂雉は楚軍に囚われていたため、息子の劉盈りゅうえいが皇太子になっていることを知らなかった。


「左様でございます。御子息は皇太子であり、あなたは王妃なのでございます」


「私が……」


 わずかに彼女の言葉の温度が上がっていく。


「そうです。あなた様は国の母となられる方なのです。何を憂うことがありましょうか。堂々と国の母として国の支えとなるのです」


 この時の薄姫の言葉は呂雉の心を震わせた。


(国の母……)


 それは今では考えられないような地位である。しかし、今、自分はその地位にいるのだと言う。


「そうなのね」


 彼女は喜びを感じた。


「薄姫さん。ありがとう。どうか私に礼儀作法を教えて」


「わかりました」


 急にやる気を出した呂雉に驚きながら、頷いた。


(国の母として……)


 元々呂雉は父が名士であったことから尊敬を受ける立場であった。


 そんな自分の知らない高貴な世界にいつの間にか夫は行ってしまっていた。怖かった。そんな高貴な世界で見下されながら生きることが、子供たちが見下され、他の寵愛する女たちの子供に見下されることがあるなんてことがあって欲しくないと思った。


 怖い、怖い。


 それなら貧しくてもいい。今のちょっとした平凡な暮らしのままで良いと思っていた。


 でも、国の母だという。見下されることない地位。その地位に居れば、子供たちを守ることができる。


(しっかりしなきゃ、私が子供を守るのよ)


 夫は自分も子供たちも守ってはくれない。自分で守らなければいけない。その手段が、地位があるというのであれば、使わなければならない。


(私がしっかりしなきゃ)


 自分のかけがえのないものを守るため、彼女は薄姫から礼儀作法の知識を貪欲に学び取ろうとした。


 薄姫は震えた。


(この方は……)


 呂雉は一度見て、聞いた礼儀作法に関して一瞬で自らのものとして見せた。


(とんでもない技量の人だわ)


 戚夫人せきふじんよりもマシであれば良かった。それだけの思いで正室である彼女の傍にいることをしたのだが、


(必要以上に有能かもしれない)


 困った。下手な動きをすると権力を用いて殺されかねない。特に彼女は猜疑心と嫉妬心が強く見える。


(油断がならないかもしれない)


 内心そう思いながら彼女は少なくとも今は呂雉の信頼を勝ち得ているはずだろうと彼女は思った。


 彼女の静かにして緊張感のある戦いが少しずつ始まりつつあった。


 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ