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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

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置き土産

 劉邦りゅうほうは成皋以東の地を棄てて、鞏・洛の地で楚に対抗しようとした。すると酈食其れきいきが進言した。


「私はこう聞いています『天の天を知る者は王事を成せる』王者とは民を天とし、民とは食を天とするものです」


 最初の「天」は王者にとっての「天」で、「民」を指す。二つ目の「天」は民にとっての天で、「食」を指す。


「敖倉は天下に転輸して(食糧を供給して)久しくなっております。私は敖倉に多数の粟(食糧)が蓄えられていると聞きました。楚人は滎陽を攻略したにも関わらず、敖倉を堅守せず、兵を率いて東に向かい、適卒(讁卒。讁戍。罪を犯して懲役している者)を分けて成皋を守らせております。これは天が漢を助けているのです。今、楚を取るのは容易にも関わらず、漢は退いて自ら機会を失おうとしています。私は心中でこれを過ちだと思っています。そもそも両雄が共に立つことはできないのです。楚・漢が久しく対峙して決しなければ、海内が搖盪(動揺)し、農夫が釋耒し(農具を棄て)、工女が機を下り(機織りができなくなり)、天下の心が安定できなくなります。陛下が急いで再び兵を進め、滎陽を奪取し、敖倉の粟を占拠し、成皋の険を塞ぎ、太行の道を絶ち、蜚狐の口(飛狐口)で対抗し、白馬の津を守り、諸侯に形制の勢(有利な地形を制圧して楚より優勢にいること)を示すことを願います。そうすれば天下が帰するべき場所を知ることでしょう」


 劉邦はこれに従い、敖倉を取る計を謀った。酈食其がまた言った。


「最近、燕と趙を平定したが、斉だけが攻略できておりません。田氏の諸族は強盛で、斉地は海(東海)と岱(太山。泰山)を負い、河(黄河)と済(済水)で阻み、南は楚に近く、斉人の多くは変詐(狡猾で詐術を好むこと)です。陛下が数万の軍を派遣しようとも、歳月(一年や数カ月)で破ることはできないでしょう。私が明詔(漢王の詔書)を奉じて斉王を説得し、漢のために東藩と称させることをお許しください」


「善し」


 劉邦は彼を斉に送った。


 酈食其が来ると案外すんなりと彼は招かれて、斉王・田広でんこうに謁見することができた。


「王は天下が帰す所を知っておられますか?」


 酈食其の問いかけに田広は、


「知らない。天下はどこに帰すだろうか?」


 と返した。


「漢に帰すことになりましょう」


「先生は何を根拠にそう申されるのでしょうか?」


「漢王は先に咸陽に入りましたが、項羽こううが約束を破って漢中の王にしました。その後、項羽が義帝を遷して殺害しましたので、それを聞いた漢王は蜀・漢の兵を挙げて三秦を撃ち、関を出て義帝の居場所を問い詰めました。また、天下の兵を集めて諸侯の後代を立て、城を降せば、その将を封侯し、賂(財物)を得れば、士に分け与え、天下と利を共にしておりますので、豪英賢才は皆、喜んで用いられております。項羽は倍約(背約)の名があり、義帝殺害の負(罪。負い目)をもち、人の功績を記憶せず、人の罪を忘れることもなく、将士は戦に勝っても賞を得られず、城を落とそうとも封を受けられず、親族でなければ重用されないため、天下は項羽に畔(叛)し、賢才は彼を怨み、用いられようとする者がいません。よって天下の事が漢王に帰しており、坐して天下を図ることができます。漢王は蜀・漢の兵を発して三秦を定め、西河を渡って北魏(魏豹)を破り、井陘を出て成安君(陳余)を誅しました。これは人の力ではなく天の福というものです。今、既に敖倉の粟を占拠し、成皋の険を塞ぎ、白馬の津を守り、太行の阪を断ち、蜚狐の口で対抗しているため、天下で後から服した者が先に亡ぶことになりましょう」


 漢軍が敖倉と成皋を占拠しているため、項羽は西に進めない。漢軍が白馬と太行を抑えて蜚狐で対抗しているため、河北の燕・趙の地も漢に属している。そのため斉と楚には先がないため、早く漢に帰順しなければ滅ぼされることになるということである。


「王が速く漢王に降れば斉を保てるでしょう。そうしなければ危亡はすぐに訪れることになります」


 さて、この酈食其の説得には作った部分も多い。


 劉邦が項羽に逆らって東進を開始したのは項羽が義帝を殺す前である。また、劉邦は諸侯の後裔を分封することに反対している。


 しかしながらこの酈食其の説得は田広の心を動かした。


 それにしてもここまで田横でんおうの影を感じられないのはどうだろうか。彼自信も漢軍の方が利があると考えたのだろうか。それともこの時点で彼は田広の傍にいなかったのだろうか?


 これ以前に斉は韓信かんしんが兵を率いて東進していると聞いていたため、華無傷かむしょう田解でんかいに重兵を与えて歴下に駐軍させていた。ここに田横がいた様子はない。


 田広は酈食其の言に同意して漢に和平の使者を送った。同時に歴下の守りを解かせた。安心した彼は酈食其と日々酒を飲んで楽しんだ。


 一方、東進していた韓信は平原(恐らく黄河の河港)を渡る前に酈食其が斉を説得して降したと知った。


「どういうことだ?」


 せっかく斉を攻略するための地図を買い占めしたにも関わらず、これでは戦ができない。


「あ~あつまらんなあ」


 それでもこうなっては進軍を止めるしかない。韓信は進軍を止めようとした。その時、韓信の傍に見慣れない男がいた。


「大将軍、ご進言申し上げまする」


 その男の名を蒯徹かいてつ。漢の武帝の諱が徹であるため後世においては蒯通かいつうと呼ばれる。


「大将軍は斉を攻撃する詔をお受けになられました。確かに漢が秘かに使者を送り、斉を降されましたが、将軍を止める詔が出されましたでしょうか。どうして進軍を止めることができましょう。そもそも酈食其は一士に過ぎないにも関わらず、伏軾(軾に伏せる。車に乗ること。軾は馬車の前についた横木)して三寸の舌を弄しただけで斉の七十余城を下しました。将軍は数万の衆を率いて一年余を費やしたにも関わらず、趙の五十余城を下しただけです。将になって数歳(数年)も経つにも関わらず、一豎儒の功にも及ばなくなってよろしいのでしょうか?」


 これほど口の上手い男もいないだろう。韓信という人は一言で言えば、独りよがりの芸術家肌の男である。そして、その芸術の表現の場は戦場である。そんな男の自尊心を上手く刺激しつつ、彼に戦できる方法を教えることで、彼に戦をさせようとしている。


(それなら戦できるな)


 韓信の判断基準はそれである。よくよく考えるとこの韓信という男は降伏の使者を最初に出そうという概念は無いようである。出すならばほぼ詰みまで持っていけた時で良いと考えており、使者の弁術への評価に対する考え方は無い。


 韓信は納得して黄河を渡り、斉を強襲した。


 紀元前203年


 韓信が歴下を守る斉軍を襲って破り、斉都・臨淄に至った。


 田広はこのことに激怒、


「酈食其めぇ」


 彼が自分を売ったと判断して烹(釜茹で)に処した。


 その後、田広は兵を率いて東の高密に走った。かつて晏嬰という斉の名臣が治めていた地である。


 田広は使者を楚に送って援軍を求め、斉の宰相・田横は博陽に、守相(代理の国相)・田光でんこうは城陽に走り、将軍・田既でんきは膠東に駐軍した。













「酈食其が殺された。韓信が進軍を継続し、斉は楚と連携を……」


 劉邦は報告を受けて、激怒しそうになった。なにせ楚は外交的には孤立していたにも関わらず、斉と結ばせてしまった。更には酈食其まで殺されている。


「落ち着いてください」


 張良ちょうりょう陳平ちんぺいは韓信の処罰を命じそうな劉邦をなだめる。


「陛下、酈食其の件は残念なるもここは不問に」


「下手に韓信を怒らせると更に問題を大きくする可能性があります」


 ここまできても劉邦の良さは冷静な耳を持っていることである。二人の意見を聞いた上で韓信に対して不問とした。


「で、どう思われます?」


「どうとは?」


 陳平と張良は劉邦の元から離れて話し合う。


「韓信の斉攻撃に関してです」


「ええ、わかっていますよ。陛下の間違いがあったのは事実ですが……」


「あの大将軍らしくないよねー」


 そこに陸賈りくかがやってきた。


「あの人が斉への攻撃を行う上でこう宣言して進んでるし。漢王からの正式な命令が出されていないためってね」


 張良と陳平は目を細める。


「ええ、この政治的なことを持ち出してくるのはらしくありませんね」


「ということは」


「誰かが、吹き込んだってことだね」


 韓信という男らしくない宣言を持って戦を行ったことに三人は何者かの存在があると判断を下した。


「さて、その者が何者かですが」


「誰だろうね。少し確認取るには難しいかな?」


 すると陳平が言った。


范増はんぞうは、張良殿を殺すために漢軍に自分の配下だった者を送り込んでいたと聞いております」


「ええ、呂馬童りょばどう殿のおかげでなんとかなりましたよ……」


「つまり?」


 陸賈が首を傾げる。


「「范増の置き土産」」


 張良と陳平がそう言った。


「確かに韓信の行動によって斉と楚の間に連携を結ばせる状況にしたけど、まさかそこまで読んでるってことはないんじゃない?」


「かもしれませんが、その配下がよほど有能な男で自由な行動を許していたのかもしれません」


「だとすれば、対策とすればどうするの?」


「正直言って、韓信を呼び戻すのが一番ではある」


 陳平の言葉に張良は首を振る。


「いいえ、ここはほっといておきましょう」


「何故か張良殿?」


「韓信という男をそう簡単に操れるとは思えないのです。また、ここで下手に対策をほどこして韓信の不信感を強めて乱心を抱かせる方が問題を大きくする可能性があります」


 張良はそう言って二人を見る。


「ここは我慢比べです。私たちはできる限り陛下をなだめて韓信との間の溝を大きくしないことに終始するべきだと思います」


「そうだね。その方がいいかもしれない」


「張良殿の意見に従おう」


(まあ項羽を打ち破るまでは…だがな)


 陳平は目を細めてそう考えた。



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