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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

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紀信

データが一度吹っ飛んだ。

「俺に顔が似てるというと紀信きしんかなあ」


「では、その方に王の身代わりになってもらいましょう」


 陳平ちんぺいがそう言うと劉邦りゅうほうは彼を睨みつけた。


「おい、それはどういうことだ」


「今、我々のいる滎陽城は楚軍の攻撃を前に耐え切るのは不可能なところまでいっております。そのため王が脱出されるための策として申し上げさせていただきました」


「それで紀信を?」


「はい」


 劉邦は激怒した。


「あいつは沛県からここまでついてきた仲間だ。あいつの忠義心の厚さも誠実さも知っている。そんな男に俺の代わりに死ねなど言えるか」


「ここで王が死んでしまうことよりもよろしいことです」


「陳平」


 劉邦は陳平の胸ぐらを掴む。


「陛下、あなた様は既に個人の感情で動く立場ではないのです。あなた様がここで死ねば、あなた様のために死んでいった者たちに申し訳が立たなくなります。どうかご決断を」


「くそ」


 彼は陳平を離す。


「俺は許可を出さん。ほかの作を考える」


 その態度に陳平はこれ以上の説得は難しいと判断し、引いた。


「仕方ない。絡め手でいくとしよう」












 紀信は城壁の上で笛を吹いている。


「笛を吹けるなんて知りませんでした」


 劉肥りゅうひはそう言って、彼に近づいた。


周勃しゅうぼつに教わったんだ」


「そうなんですね」


 紀信は目を細め、笛で美しい音色を奏でる。


「いいねぇ、こういう音ってやつは、何もかも関係なく響かせていける」


 そこに陳平がやって来た。


「これはこれは平凡な顔の方がこの私に何のようでしょうかな?」


(陳平)


 劉肥はあまり陳平と話したことがない。正直言って苦手な相手だからである。


 紀信の言葉に対して、陳平は答えず静かに目線を劉肥に向けた。


「坊ちゃんがいなければならん話なのですかな?」


「ええ」


 劉肥は眉をひそめる。


「どういうことですか?」


「あなたに関係の無い事です」


「父上の命令であるならば関係の無いなど無いでしょう」


 陳平と劉肥は互いににらみ合う。


「坊ちゃん、やめな。陛下の密命ってことでいいんだな陳平さんよ」


「ええ」


 陳平はそう言って再び、劉肥に目線を向けて言った。


「このことは他言無用、口出し無用です。よろしいか?」


 劉肥は頷く。それを見て、彼は紀信を見据える。


「ここはもはや陥落寸前。そこで陛下の御身を脱出する策が必要となりました」


 紀信は無言で聞く。


「そこであなたに陛下の身代わりとなっていただきたい」


「なるほど」


「待ってください。それは父上……陛下の命令なのですか」


 劉肥が口を開くと陳平は睨みつける。


「口出し無用と申したはずです」


「しかし」


「よせ」


 紀信は劉肥を止める。


「陛下の命はしかとお聞きした。それで私はどうすれば良いのか?」


「それはおいおい行います。その前にあなたには陛下の前でこの件についての進言を行っていただきたい」


「何故に?」


「陛下自らこの件を持ち出すよりもあなた自ら持ち出す方が外聞としてよろしいのです」


 紀信は目を閉じる。


「それは本当に陛下の命令なのですか?」


 劉肥がそう言った。


「陛下のご命令です」


「はあ」


 紀信は肩をすくませる。


「承知した。次の軍議にて申し上げればよろしいか?」


「ええ、そのように」


 陳平は踵を返し、去っていく。


(漢王の庶子・劉肥……後々始末することも考えるべきかもしれませんね)










 あまり機嫌の良いとは言えない劉邦を中心に軍議が行われた。


張良ちょうりょう殿は?」


 陳平が陸賈りくかに尋ねる。


「なんかねぇ。今日は調子が悪いんだってさ」


 張良はこの頃、体調を崩し、このように軍議を休むことも多くはなかった。


(ちょうど良かった)


 張良は劉邦と近すぎて、劉邦の思いを汲んだ策を提示しかねない。


(それでは最善を打てない)


「陛下」


 紀信が立ち上がり進言した。


「事は急を要しております。私が陛下の格好をし、楚を騙しますので、王はその間に脱出なさってください」


 諸将の間にざわめきが生まれる。そして、劉邦は困惑し、すぐに陳平が紀信を動かしたのだと思った。


(陳平)


「紀信の忠義のなんと厚いことでしょうか」


 陳平のそう述べるのを劉邦は眉をひそめる。


「陛下、我が命を持って、陛下の御身を御守りしたいのです。どうかご許可を」


 紀信が頭を下げる。その表情を見て、劉邦は顔を歪める。そして、上を向き、


「死んでくれるか……」


「はっ喜んで」


 紀信は笑って確かにそう答えた。










 紀信が軍議を後にすると諸将も軍議を後にしていく。そんな中、劉邦、陳平、劉肥が残る。


「陛下」


 劉肥は動揺を隠せない声で劉邦に言う。


「劉肥様」


 陳平が劉邦の前に立とうとするとそれを劉邦が止める。


「お前は下がっていろ」


「承知しました」


 陳平は下がる。


「言いたいことを申せ」


「陛下、紀信殿は忠義心が厚く、沛県からここまで陛下に尽くしてきた忠臣でございます。そんな彼になぜ、このようなことをなさるのでしょうか」


 劉肥は声を震わせる。


「忠義ある者を殺し、欲に目をくらむ者や策のためならば簡単に人を切るような男を信用なされるのですか」


 彼は陳平を見る。


「そのようなことをしていてはやがて陛下の元から多くの臣民は離れていくことでしょう。忠義ある者を、誠実なる者を生かし、用いていくことこそが重要なのです」


 劉邦は目を細める。


「陛下のため、父上のために誰かが犠牲にしていくことに何の意味があるのでしょうか」


「黙れ」


 劉邦は劉肥の言葉に立ち上がる。


「お前に何がわかる」


「父上が間違っていることがわかっております」


 劉肥に向かって劉邦は歩き出す。


「正しさとはなんだ。紀信を身代わりにすることが正しくないというのであれば、何が正しいと言うのか」


 劉邦は劉肥からあと少しというところで立ち止まる。


「ならばあやつが「喜んで」と申した思いに汲まぬことは正しいことではないのか?」


「紀信殿の忠義の厚さは正しくそれに父上は甘えているのです」


「劉肥」


 劉肥の両肩を劉邦は掴む。


「お前に何がわかる。あいつがどれほど俺に尽くしてきたのかを知っているのか。お前が生まれる前から俺はあいつを知っているんだぞ」


 沛県にいた頃、共に酒場を歩いたこともあった。適当なところと一緒に喧嘩したこともあった。


「あいつのいいところなんざ。お前に言われなくたっていくらでも知ってるんだ。あいつの誠実さなんて、あいつの忠義心なんて、俺はいくらでも知ってるんだ」


 劉邦の目に涙がこぼれる。


「だから、だからあいつの忠義心を知っているからこそ、あいつの誠実さを知っているからこそ、あいつに死んでくれって、俺のために死んでくれって頼めるんだ」


 劉肥の肩から手を離し、背を向ける。


「出て行け」


「父上……私にはわかりません。誰かを犠牲にした先に何があるんですか……」


 劉肥は軍議の部屋から出て行った。


「先に何かか……」


 劉邦は小さく呟いた。


「俺たちの夢だよ……」









 紀信を身代わりに劉邦が脱出する策の準備が行われ、紀信を劉邦の漢王としての服装を着せる。


「まるで王になったような気分になる」


 彼はそう笑いながら言った。


「そうですね」


 陳平は微笑みながら答える。


「で、いつやるんだ?」


「今日の夜にでも決行致します」


「そうか……俺の命を使うんだ。陛下を勝たせろよ」


「ええ、わかっています」


 紀信はその答えに笑った。


「あ、そうだこれ、あんたに預けるわ」


 紀信は陳平に笛を預けた。


「まああとは任せるわ」


「適当ですな」


 陳平は大切そうに彼の笛を預かった。


 その後、陳平は夜の間に甲冑を着た二千余人の女子を東門から出した。楚軍は四面からこれを攻撃した。そこに紀信が王車に乗って現れた。車は黄屋(黄色い車の屋根。天子の車)、左纛(天子の車の左前につける装飾。大旗)を具えていた。


(さあ一世一代の演技ってやつを見な)


「食糧が尽きたため、漢王である私は降る」


 と叫んだ。楚軍はこれを聞くと皆、万歳を唱えて城東に見に来た。


「今です」


 その隙に劉邦は数十騎と共に西門から遁走した。滎陽には韓王・しん、御史大夫・周苛しゅうか魏豹ぎひょうに守らせることにした。


「なんで魏豹を残すんだ?」


「もう必要ないので」


 劉邦の問いかけに陳平はあっさりそう答えた。


 その後、王の格好をした紀信が連れて込まれたのを見た項羽はすぐに劉邦でないことを看破した。


「劉邦はどこにいる?」


 紀信は項羽を罵りながら、


「漢王は既に脱出された」


 と答えた。


 項羽はすぐさま、紀信を焼き殺した。その間も紀信は項羽を罵り、


「漢王、万歳」


 劉邦を称えながら死んだ。


「これを項羽の元へ」


 滎陽を守るはずの魏豹が部下に書簡を渡す。


「やはり反国の王と城を守るのは困難であるなあ」


 そこに周苛が現れた。


「全く、天は素晴らしいことに私のことを大層愛しておられる」


「私は、別にですな。そう項羽を油断させようと」


「こうして漢王の回りにいる害虫を一匹殺せるんですからなあ」


 そう言って、周苛は魏豹を切り殺した。


「紀信、俺もあと少しでお前のところ行くぜ」


 彼はそう言って笑った。


 



 

笛は劉肥の元に行きました。

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