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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

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范増

「取り敢えず、兄への仕送りと嫁を養うためにもう少しだけ月に頂けると嬉しいのですが」


「給料の話じゃねぇ」


 陳平ちんぺいの言葉に思わず、頭を抱える劉邦りゅうほうは続けて話す。


「おめぇにいくらか金をやってだなあ」


「そう言えば、この前、競馬での配当が来ておりませんが、確か利子がつきますよねあれ」


「あれはなあ蕭何しょうか張良ちょうりょう殿とお前があまりにもボロ勝ちしてしまって高すぎる……違う。それも違う」


 競馬は彭城に行く前にやった。


「お前が項羽こうう陣営に工作するための金だ。どれくらい欲しい?」


「ほう」


 陳平は目を細める。


「それを行う理由は?」


「項羽に王道を進ませないためだ」


(王道……)


 あの項羽が王道を進む。思わず陳平は笑いそうになる。


(あれに王道は無理だ)


 項羽という人間を近くで見てきただけに陳平はそう考える。


「それを行うまでに誰かの進言をお聞きになりましたか?」


薄姫はくきだ。張良殿が六国の印璽の件で来たあとに」


(ほう、薄姫も気になりますが、張良殿がねぇ)


 陳平はあの話を聞き、やるべきではないという意見を持っていた。もしやるのであれば、


(項羽の後方で決起させて、共食いをさせる)


 それで項羽がその王族を殺せば、劉邦のあとあとの治世にも役に立つ、生き残っても適当に評価すれば良い。


(張良殿はもっと単純に止めに入ったか)


 張良は韓の再興を願っていたにも関わらず、これには反対した。


(変わった人だ)


 つくづくそう思う。


(さて、薄姫がそのようなことを……あの方の視点は独特だ)


 彼女の視点と自分の視点はだいぶ違う。だが、その独特な視点による客観視は貴重かもしれない。


(項羽が王道を進まない。そう思っていては、項羽に勝てないかもしれない)


 九分九厘やらないだろうと思ってもやるかもしれない。ある意味、徹底さが足りないと指摘されたのかもしれない。


「天下が紛紛(混乱している様子)としている中で、いつになれば、定まるのか未だわかりませんが」


 陳平はそう言ってから劉邦にこう続けた。


「項羽の骨鯁の臣(剛直な臣)には亜父こと范増はんぞう鍾離昩しょうりばつ龍且りゅうしょ周殷しゅういんといった人材がおりますが、数人に過ぎません。王が数万斤の金を棄て、反間を行い、君臣の間を割き、心に疑いを抱かせることができれば、項羽の為人は内心疑い深く、かつ讒言を信じやすいため、必ずや内部で互いに誅殺しあうことでしょう。そこを漢が兵を挙げて攻めれば、楚を破ることができます」


「よし、して金はいくら渡せば良い」


「黄金四万斤」


 陳平がそう述べると劉邦は頷き、蕭何の元に陸賈りくかを派遣して渋る蕭何を説得させて陳平に与え、自由に使うことを許可した。


「自由に使えるというのはありがたいものだ」


 劉邦はこういうところが上手いと言える。


 陳平は巨額の黄金で人を使い、楚軍の中で反間を行い、こういう噂を流した。


「諸将の鍾離昩らは楚の将となって多くの功を立てたにも関わらず、ついに地を分けて王になることができなかった。だから彼らは漢と一つになって項氏を滅ぼし、地を分けて王になろうとしている」


 それぞれの諸将は人望があることもあり、諸将の意思に反して兵たちがこれに乗ってしまった。


「しばし、諸将と兵を離す」


 兵のこのような混乱を項羽は嫌う。だが、それにより諸将の項羽への不信感は逆に強まることになる。なにせ、項羽は章邯しょうかんから兵を引き離してから兵を殺す真似をしている。また、章邯はあれほど漢軍に抵抗したにも関わらず、項羽は助けようともしなかった。


(項羽は我らを……)


 諸将はそう思った。そんな諸将の感情にまで疎くはない項羽は彼らへの不信感を強めた。


「次に陛下、項羽に和を乞う使者をお出してください。滎陽を境に西を漢、東を楚にするという条件を出すのです」


「引き受けるわけないだろう」


「私が見たいのは范増の動きです。使者は陸賈殿に」


 劉邦から和を乞う使者が来る。その報告に楚の諸将が驚く中、范増は、


「なりませんぞ。漢を相手にするのは簡単なのです。今赦して取らなければ、必ずや後悔することになろう」


 項羽は范増の意見に従い、共に漢軍を急攻して滎陽を包囲した。


「もう一度、使者をお出し下さい」


「えーやだあ」


 陸賈が渋る中、陳平は彼にある書簡を渡した。


「これを虞子期ぐしきの陣営に落として下さい」


 渋々、陸賈は項羽の元に出向き、書簡を虞子期の陣営に落とした。


「このような書簡が落ちておりました」


 虞子期の元にその書簡が届けられた。


「なんだ……これは……」


 その書簡の内容はこうである。


「范増は先の食料横流しの犯人に目星がついた」


(まさかあの爺さんが)


 虞子期は悩んだ後、項羽の元に出向いた。范増が和を乞うてきたことに反対する中、言った。


「漢の使者が和を乞うてきました。何かしらの策かもしれません。ここは使者を派遣なされて、様子を見ては如何でしょうか?」


 項羽はこの虞子期の意見を採用して、使者を漢軍の元に派遣した。


「来たな」


 陳平は使者のために大牢具を準備した。大牢具というのは周代の礼で、盛大な料理や宴席を意味する。


 料理を運んで来た陳平は楚の使者を見ると驚いたふりをした。


「私は亜父の使者だと思っておりましたが、なんと項王の使者でございましたか」


 陳平は豪勢な料理を持ち去ってから、改めて悪草具(粗末で簡単な料理)を楚の使者に与えた。


 楚の使者は帰ってから詳しく項羽に報告した。


「ふむ」


「王よ范増殿は裏で漢軍と繋がっているのではありませんか。范増はしきりに滎陽を落とそうと策を提示なされておりますが、どれもこれも成果を出せていません。范増がわざと成果を出せない策を出しているのです」


 ここで項羽の悪い癖が出る。それは判断をくださず、沈黙することである。


 この沈黙は明らかに疑っていると見られかねないにも関わらず、彼は沈黙した。相変わらず、戦場外では優柔不断というべきか無言である。


 その間に虞子期が動く。彼は楚の諸将の間を巡り、


「范増を項羽は警戒している。今、自分たちも疑われている中でその目をそらせるためにも范増の不信感に同調するべき」


 これにより楚の諸将は、范増が急いて滎陽城を攻略しようと欲しても、同調せずに反対を行うようになった。


 ここで范増は項羽を始め皆が自分を疑っていることに気づいた。


 ここまで気付かなかったのは自分は信頼されているという自負と間違った意見を出してはいないという考えによるものであろう。


 彼は激怒して言った。


「天下の事は大体ほぼ定まった。汝は自分で為すべきことを為しなされよ。骸骨(引退)を賜って卒伍(士兵)に帰ることを願う」


 ここでも項羽はわかりづらいことをする。あれほど尊敬していた范増に対して、説得も何もせずにさっさと同意してしまったのである。


 このあっさりさはどうなのか。あまりにも人としての温度が項羽は低い。


 范増は帰路に就いたが、彭城に至る前に疽(腫瘍)が背にできて死んでしまった。誰よりも項羽の未来を憂い、良い未来への導き手になろうとした男は世を去った。


 范増が死んだことは項羽にすぐさま、伝わった。


「滎陽を攻めよ」


 ここにも項羽のわかりづらさがある。滎陽を激しく攻め立て始めたのである。これは范増への最後の敬意の示し方なのか。


 だとすればこの人ほど自分というものを戦場でしか示せない人も珍しい。


「苛烈になったな」


 范増を引き離すことに成功はしたが、もはや滎陽は陥落寸前であった。


「陛下、策をよろしいでしょうか?」


「なんだ?」


「その前に一つ確認してもらいたいことがあります。臣下の中でもっともあなたの顔立ちに似ておいでなのはどなたでしょうか?」



 

賭け事の勝率。


蕭何 九割 張良、陳平八割 劉邦六割 陸賈五割 その他四割から三割。


「何かコツみたいのはあるんですか?」


蕭何「勘」


因みに残りの蕭何が負ける時は大抵、陸賈が勝ってる時。

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