北征南征
張良の元にいることになった項伯は倉海君が楚の王族を匿ったという噂について聞いた。
「そのような話を聞いたことがありません」
張良はそう答えた後、少し考える仕草を見せて、
「確か楚の貴族であった者と付き合いがあったというのは聞いたことがあります」
「その貴族とは?」
「宋義という人です」
(ああ、楚の名族であった男だな)
彼の先祖の何人かが楚の宰相を務めたことがあった。
(しかし、既に落ちぶれていたと聞いていたが……)
落ちぶれた理由は不明であるがそう聞いている。
(その男が楚の王族を匿っているとしたらどうだろうか)
ありえる話ではある。項伯はそう思った。
紀元前216年
始皇帝は黔首に実田させた。
黔首とは民を指す言葉で、「黔」は黒の意味で、民が黒い頭巾を被っていたため黔首と呼んだのである。
次に「実田」というのは田地の実際の面積を調べて報告させることである。
国民の土地所有面積を調査するということは、正確な税収を得て国庫を豊かにするのと同時に、脱税を行っている者の調査であろう。
黔首に対して一里ごと六石の米と二頭の羊を下賜するなど恩徳を示した行為について史書に記載があるが、その一方でこの年に米一石が千六百銭に値上がったということも書かれている。明らかに異常な値上がりであり、秦の調査は上手くいかなかったのではないだろうか?
紀元前215年
始皇帝は碣石に巡行した。
そこで燕人・盧生を派遣し、羨門(仙人。羨門子高)と高誓(仙人)を求めさせた。同時に始皇帝は碣石門(山門)に石碑を刻んで功徳を讃頌した。
また、城郭を破壊して堤坊(堤防)を切り開いていった。城郭を破壊したのは天下が一つになって戦争がなくなったことを意味しており、堤防を開いたのは険阻な地形を平らにして交通の障害を除いたことを意味する。
不死の薬を求めるため、韓終、侯公、石生も派遣して仙人を探させた。その後、始皇帝は北辺を巡行して上郡から都城に還った。
海に派遣された盧生が戻ると鬼神の事を語り、『録図書』を提出して、
「秦を滅ぼすのは胡である」という言葉を伝えた。
『録図書』というのは、後世には讖緯の書ともよばれる予言書のことである。
この預言書の言葉を受けて始皇帝は将軍・蒙恬に兵三十万人を動員させて、楊翁子を副将として匈奴を北伐して河南の地を攻略するように命じた。
「胡」は異民族を表し、匈奴が北胡に当たるためである。よって秦を滅ぼすのは匈奴であると始皇帝は判断したのである。但し予言の「胡」は別の者を指していたのだが、それは少し先の話である。
紀元前214年
蒙恬は匈奴を攻めて、彼らを駆逐すると河南の地を攻略し、四十四県を置いた。更に匈奴を防ぐために長城を築いていった。地形に基いて険関要塞を制御し、西の臨洮から東の遼東に至るまで万余里に及んだ。
この長城が「万里の長城」である。しかしながらこの万里の長城は秦が統一してから独自に造ったのではなく、秦・燕・趙三国の長城を増築改修したものであり、現代の万里の長城とは違う。
蒙恬は黄河を渡って陽山を占拠し、曲折しながら北に進んだ。この後、十余年にわたって将兵を遠地に曝すことになる。そのため秦の精兵はずっと北にいるという状態となった。その後、蒙恬は上郡を拠点にして周辺を統治し、その威信は匈奴を震わせた。
朝廷がかつて逃亡したことのある者、贅壻(婿。妻の実家で生活する夫)、賈人(商人)を集めて軍を組織し、尉・屠睢を大将として南越の陸梁の地を攻略した。
陸梁というのは南方の人を意味しており、南方人は山陸の後ろに住み、性格が強梁(強暴大力)だったため、「陸梁」とよばれた。
秦は占領した地に桂林郡、南海郡、象郡を置いた。
讁徒の民(罪を犯して流刑に処された民)五十万人に五嶺を守らせ、越人と雑居させた。このような守備を「讁戍」という。
因みに「五嶺」とは大庾、始安、臨賀、桂陽、揭陽とする説と、大庾嶺、桂陽の騎田嶺、九真の都龐嶺、臨賀の萌渚嶺、始安の越城嶺とする説と、虔州の大庾嶺、道州の永明嶺と白芒嶺、郴州の臘嶺、桂州の臨源嶺とする説がある。
今回の南征は越の犀角、象歯(象牙)、翡翠、珠璣といった利を得るためであったという。
この南征軍は三年にわたって甲冑を解かず、弓弩を緩めることもなかった。
だが、監御史・禄が食糧を輸送できなかったため、兵を指揮して渠(水路。現在の広西壮族自治区にある霊渠がこの時に開かれた運河)を穿ち、粮道を通じさせた。これを利用して越人と戦い、西呕君・訳吁宋(西呕は越の族名。訳吁宋は君主の名)を殺した。
しかし、越人は全て叢薄(草が繁茂した地域)に逃走し、禽獣と一緒に生活しました。秦の虜になる者はいなかった。
越人(西呕人)は桀駿(優れた人物)を将に選んで秦軍に夜襲を仕掛け、秦軍は大敗して、大将であった尉・屠睢は殺され、数十万の死体が並んで血が流れた。
北では強さを見せた秦軍であったが、南方では苦戦を強いられた。秦に軍事における才覚が足りなくなっていたと言える。
一方、将軍位を失った章邯が左遷されて送られたのは、山海地澤の税(禁銭)と皇室雑務を管轄した少府である。つまり文官になっていた。
(武人の職務からも追い出されたか……)
始皇帝の怒りは思っていたよりも大きいということである。
(かつて王翦将軍は淡々と引退されていたが……)
その後、始皇帝に請われて復帰した。いずれ自分も復帰するはずである。
(そのためにも目の前の職務を全うせねばならない)
そう言って彼は拙いながらも少府の職務を果たしていった。やがて自分が用いられる時を待ち望んで……