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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

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陳余

 女官となった薄姫はくきがまず行ったことは情報収集であった。劉邦りゅうほうの性格や好み、重臣たちなどを調べた。


 その中であることに気づいた。


(正室がやけに人気がある)


 そう特に古参の将兵からは人気があるのである。


(これは中々無いわよね)


 ずっと正室である呂雉りょちと劉邦は離れ離れになっているにも関わらずである。


(よほどの恩徳を示しているということかしら)


 だからこそ劉邦は彼女を正室から外さないのだろう。


(危なかった)


 下手に側室にならなくてよかったかもしれない。


「まあいいわ私は女官として生きましょう」


 彼女はてきぱきと仕事をこなしていく。


「あら、新しい人なのね」


 そう言って来たのは戚夫人せきふじんである。


「はい、新しく女官となりました薄姫でございます」


「知っていますわあ、あの魏王に売られた方でございましょう」


 彼女はそう言って笑いながら去っていった。そんな彼女の揺れる胸を見て、自分の胸を見て、ふっと笑った。


「身体の割には頭は軽そうね」


 決して僻みではない。


「さあ、仕事をしましょうかね」


 彼女は下女に混じりながら洗濯、掃除まで色々と仕事を行っていく。


 それをたまたま見た劉邦は、


「よく働く女だ」


 と呟いた。








 漢軍が彭城で敗れて西に帰った際、張耳ちょうじが殺されていないことに陳余ちんよが気づいた。


「嘘つきめ」


 陳余は漢に背いた。


「まあそうなるよな」


 劉邦としては予想していたことである。


 そこに魏を平定した韓信かんしんの使者人を送ってきて、兵三万を請うた。北は燕、趙を占領し、東は斉を撃ち、南は楚の糧道を断つことを願うというものである。


「わかった任せよう」


 劉邦はこれに同意して張耳を派遣した。


 韓信は張耳と一緒に兵を東に向け、北の趙(趙王・歇)と代(代王・陳余)を攻撃した。


 この時、代は相・夏説が守っており、代王・陳余は趙の政治を助けていた。夏説は漢軍の襲来に対して地形を利用して、伏兵を置いた。


 ここで韓信の戦における思考の仕方について説明しておこう。


 韓信には趣味がある。それは地域の地図を収集するというもので、彼は地図を得るとその地図に様々な情報をかき入れ、軍事に活かしている。


 戦を行う前、地図を得ると目を見開いて地図を見ていく。


「こことここ。ここで兵を置くでしょう」


 韓信はそう予測を立てるとすぐさま、軍を動かし、伏兵の代兵を破って閼與で夏説を捕らえた。そして、そのまま彼を斬った。


 するとそこに劉邦が人を送って韓信の精兵を滎陽に割くように命じた。


 紀元前204年


 年が明けて、韓信は張耳と共に数万の兵を率いて東進し、趙を攻撃した。


 それを聞いた趙王・歇と成安君(代王)・陳余は井陘口に兵を集めた。二十万と号した大軍である。


 その時、広武君・李左車りさしゃが陳余に進言した。


「韓信と張耳は勝ちに乗じており、国を去って遠征して参りました。その鋒(勢い)に当たるべきではありません。私は『食糧を千里運べば、士に飢色が現れる。薪や草を取って食事を準備すれば、軍は腹一杯になれない』と聞いております。今、井陘の道は、車は方軌(並走)できず、騎は列を成せず、行軍すれば数百里に及ぶことになります。このような形勢ですので、糧食は必ず後ろにあります。私に奇兵三万人をお貸しください。間路から輜重を絶ってみせます。あなた様は溝を深く塁を高くして戦わないでください。そうすれば彼等は前に進んでも戦えず、後ろに退きたくても還れなくなり、野には奪う物もないため、十日も経たずに両将(韓信と張耳)の頭が麾下(旗下)に至ることになりましょう。そうしなければ逆に禽(擒)になりましょう」


 陳余はかねてから義兵を自称しており、詐謀奇計に反対してこう言った。


「韓信は兵が少ないうえに疲労している。そのように避けて戦わなければ、諸侯は私を怯(臆病)とみなし、私を攻めに来るだろう」


 ここが趙にとって、重要な戦という認識が陳余にはなかったのかもしれない。


 さて、韓信は地図を集めさせると共に、間者もばら撒いていた。その間者から陳余が李左車の策を用いなかったと知ると大喜びした。


「これで勝ったも同然よ」


 きゃっきゃと笑うとそのまま兵を率いて直進した。


 漢軍は井陘口から三十里離れた場所で駐軍した。


 夜半、韓信は伝令を発して軽騎二千人を選んだ。一人一人が一本の赤幟を手に持たせた。赤は漢の旗幟の色である。


 その二千騎を間道から送って山上に隠し、趙軍の様子を伺わせてこう命じた。


「趙軍は我々が走るのを見れば、必ずや壁(営塁)を空にして我々を追うはずだ。その時、汝等は速やかに趙壁に入り、趙幟(趙の旗)を抜いて漢の赤幟を立てよ」


 二千騎を送り出した韓信は裨将(副将)・曹参そうしん灌嬰かんえいに命じて将兵に簡単な食事を配らせ、こう伝えさせた。


「今日趙を破ってから腹いっぱい食事をしようではないか」


 しかしながら諸将は簡単に趙軍を破れるとは思ってはいなかった。この辺に韓信と諸将には温度差がある。彼らは応じるふりをして、


「わかりました」


 と答えた。


 続けて韓信は言った。


「趙は先に便地(有利な地)を占拠して壁(営塁)を築いている。彼らは我が大将の旗鼓を見つけなければ、我々の前行(先行部隊)を撃とうとはしないだろう。彼等は我々が険阻な地で前を塞がれて引き還すことを恐れているのだ」


 趙が井陘の口を塞いだのは韓信が険阻な道を通って出て来たところを攻撃するためである。もし韓信の先行部隊を攻撃すれば、韓信は険阻な道が塞がれていると判断して引き返してしまう恐れがある。一方の韓信は趙軍の考えを見通して趙が先行部隊を攻撃することはないと判断しているのである。


 韓信は一万人を営塞から出撃させた。一万人は先行して川(綿蔓水)を東に渡り、水を背にして陣を構えた。


 これをが後世における背水の陣である。趙軍は韓信の陣を眺め見て大笑いした。


「漢軍の大将は兵法を知らない」


 平旦(夜明け)、川辺の陣にいた韓信が大将の旗鼓を立てた。戦鼓を鳴らして井陘口を出た。綿蔓水の東に井陘口があり、そこを出ると趙営に出る。


 趙軍は韓信の大将旗を見て、塁壁を開いて迎撃した。


 久しく大戦を繰りひろげてから、韓信と張耳は偽って鼓旗を棄て、川辺の軍営に走った。川辺の軍営は門を開いて迎え入れ、再び趙軍と疾戦(力戦)していった。


「さあ、臆病者の韓信を殺せぇ」


 陳余が指揮を取る中、趙軍は営壁を空にして漢軍の旗鼓を奪い、韓信と張耳を追撃した。


 しかし韓信と張耳が川辺の軍営に入ってから全ての漢兵が死戦したため、趙軍はなかなか攻略できなかった。


 その間、韓信が出した奇兵二千騎は趙の陣営が空になるのを待っていた。趙軍が全て出撃したのを見届けると、一斉に趙の営壁に駆け入り、二千騎は趙の旗を抜いて漢の赤幟二千本を立てた。


 韓信を破ることができないと判断した陳余率いる趙軍は営壁に還ろうとしたが、一面に漢の赤幟が立っている光景が見えた。


 驚いた趙軍は漢軍が既に趙王の将領を捕えたと思ったことで、兵達は混乱して遁走を始めた。陳余は逃げる兵を斬って制止しようとしたが、止めることはできなかった。


「戦とはかくも簡単なものだ」


 韓信は総攻撃を行った。


 漢軍は趙軍を挟撃して大破し、陳余を泜水(井陘山水)の辺で斬り、趙王・歇を捕らえた。


 趙と代の地に常山郡と代郡が置かれた。


 諸将が趙軍の首や捕虜を献上して戦勝の祝賀を終えてから、韓信に問うた。


「兵法において、『右側と背面に山陵を置き、前方と左側に水沢を置け』と申します。しかし今回、将軍は我らに水を背にした陣を布かせて『趙を破ってから会食しよう』と申されました。そのため我らは不服でしたが、図らずも勝利しました。これはどのような戦術でしょうか?」


「これも兵法にあるが、諸君は察していないようだ。兵法はこうとも言っているではないか『死地に陥ってから生となり、亡地に置いてから存続するものだ』。そもそも私が得たのはかねてから拊循(訓練)した士大夫ではないのだ。まるで『市人を駆けさせて戦う』ような状況だった。このような情勢においては、彼らを死地に置いて一人一人を自分のために戦わせなければならないのだ。もし彼らに生地を与えれば、皆、逃げてしまったことだろう。彼等を使えるはずがない」


 諸将は皆感服して、


「素晴らしいことです。我らのおよぶところではありません」


 と言った。


 韓信は賞金千金を懸けて広武君・李左車を生きたまま得ようとした。


 暫くして李左車は自ら縛って、麾下(旗下。韓信の陣)に来た。韓信はすぐに縄を解き、李左車を東向きに座らせて師事した。


「私は北の燕を討伐し、東の斉を討伐したいと思っています。どうすれば功を立てられましょうか?」


 李左車は謝辞して言った。


「私は敗亡の虜です。どうして大事を計ることができましょうか?」


 韓信は首を振り、


「百里奚が虞にいた時には虞が亡び、秦にいた時には秦が霸を唱えたと聞いています。百里奚は虞では愚者であったにも関わらず、秦では智者になったのではありません。その言を用いるか用いないか、聴くか聴かないかの違いなのです。もし陳余があなたの計を聴いていたら私のような者は既に禽(捕虜)になっていたでしょう。陳余があなたを用いなかったから、私は教えを請うことができるのです。私は心を委ねて計を聴くつもりです。あなたが辞退しないことを願います」


 百里奚を持ち出してきたということはもしかしたら李左車は老将なのかもしれない。彼は答えた。


「今、将軍は西河を渡って魏王を虜とし、夏説を禽にされました。東は井陘を降し、朝の間に趙の二十万の衆を破って陳余を誅しました。将軍の名は海内に聞こえ、威は天下を震わせています。農夫は全て農耕を止めて耒(農具)を手離し(輟耕釋耒)、美しい服を着て美味しいものを食べ(褕衣甘食)、耳を傾けて命を待っております」


 つまり人々は韓信の威信を恐れているため、その日を満足させることだけを目標にして遠いことを考えられなくなったという意味である。


「威信が行き届いて民が命令に従順であることは将軍の長所です。しかし衆は労して卒は罷(疲)していますので、実際に用いるのは困難です。今、将軍は倦敝の兵を挙げて燕の堅城の下に駐留しようとしていますが、戦いたくても戦えず、攻略したくても落とすことはできず、こちらの内情が露見して威勢が減少し、日を費やして持久する間に糧食を消耗し尽くしてしまうでしょう。燕が服さなければ、斉も必ず国境を守って自強します。燕も斉も共に対抗して降ることなく、劉と項の権もまだ決着がついていません。これは将軍の短所です。用兵を善くする者は短所によって長所を撃たず、長所によって短所を撃つものなのです」


「それではどうするべきでしょうか?」


「今、将軍のために計るならば、甲を止めて兵を休め、趙の民を鎮撫し、百里の内で牛酒が日々至るようにして士大夫をもてなするべきです。兵を北の燕路に向けてから辨士に咫尺(咫は八寸。「咫尺」は一尺か八寸の簡牘の意味)の書を奉じさせて派遣し、長所(民が帰心している様子)を燕に示せば、燕が従わないことはないでしょう。既に燕が従ってから東の斉に臨めば、たとえ智者がいようとも斉のために計を為すことはできません。こうすれば天下の事を全て図ることができます。兵とは先に声(声望)があって後から実(行動)があるものです。これがその計でございます」


「素晴らしい」


 韓信はそう称えると李左車の策に従った。


 燕に使者を送ると燕は声望を聞いて帰順した。


 続いて韓信は使者を漢に送って報告し、張耳を趙王に立てるように請うた。趙を治めるためである・


 劉邦はこれに同意した。


 



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