魏豹
五月、劉邦は滎陽に至った。敗戦した諸軍が全て合流した。
敗戦を受けて蕭何は素早く関中の老弱未傅の者(服役の義務から外れている老人や未成年者)を全て動員して滎陽に送った。
漢軍が再び指揮を盛り返し始めた。
因みに古代は二十歳で姓名が登記され、三年間農耕に従事して蓄えを作ってから、二十三歳で服役した。但し身長六尺二寸以下の者は罷癃(障碍者)とみなされ、五十六歳で服役を免除され、庶民として田里に帰った。ここでいう老弱未傅の者とは二十歳未満の者と、五十六歳を過ぎた者を指す。
一方、楚軍は彭城を拠点にして兵を出し、勝ちに乗じて敗北した漢軍を追撃した。滎陽南の京県と索(索亭)の間で漢軍と交戦を行った。
楚の騎兵が多数押し寄せて来たため、劉邦は軍中で騎将の能力がある者を探すと、諸将は秦の騎士だった重泉の人・李必と駱甲を推薦した。
劉邦は李必と駱甲を騎将に任命しようとしたが、二人は、
「私たちはかつて秦の民であったため、恐らく軍(将兵)は信用しないでしょう。王の左右で騎を善くする者を補佐させてください」
そこで劉邦は灌嬰を中大夫令に任命し、李必と駱甲を左・右校尉にした。
三人は騎兵を率いて滎陽東で楚の騎兵を撃ち、大勝して見せた。項羽が自ら率いていなかったとはいえ、まともに楚軍に勝つことができた。
しかもこの勝利によって、楚は滎陽を越えて西に進むことができなくなった。
「よし、蕭何にこう伝えよ」
劉邦は滎陽に駐軍したままそこに甬道(壁に守られた道)を黄河に繋げ、敖倉の食糧を運ばせるようにした。
楚と漢は滎陽を挟んで対峙することになった。
「ふむ、どうしたものか」
范増はこの状況を憂いてると虞子期が言った。
「劉邦の軍には裏切り者の陳平がおります。彼の存在を利用して漢軍に隙を作ってはどうでしょうかな?」
「揺さぶりか……それも悪くはないな」
彼の意見を使って、范増は漢軍の軍中にある噂を流した。
ある日、周勃、灌嬰等が劉邦に言った。
「陳平は冠玉(冠を装飾する玉)のように美しい外貌をもっておりますが、中身があるとは限りません。我々が聞いたところでは、彼は家にいた時、嫂を盗んだと聞いております。魏に仕えても容れられず、楚に逃亡しても重用されず、また漢に逃げて来ました。王は尊官を与えて護軍とされていますが、私が聞くところによると、彼は諸将から金を受け取っており、金が多い者は善処を得られ、金が少い者は悪処を得ているとのことです。彼は反覆の乱臣です。王が察することを願います」
「ふむ……」
劉邦は陳平を疑って紹介した魏無知を招いた。彼が噂を信じたのは前者の嫂の部分よりは金の部分であろう。一度、金にがめつい曹無傷に裏切られたことがある。
譴責された魏無知はこう答えた。
「私が語りましたのは能(能力)です。陛下が問うておられるのは、行(行動。品行)です。今、尾生(孔子の弟子・微生高。または古の信士と呼ばれている)や孝己(商の高宗の子。孝行で名が知られていた人物)がいても、勝負の数(命運)に対しては無益でございます。陛下はどこに暇があってそのような者を用いられるのでしょうか。楚と漢が対抗しているため、私は奇謀の士を進めたのです。その計が国家を利するに足りるかどうかを顧みただけなのです。盗嫂、受金(賄賂)を疑う必要がありましょうか?」
陳平を用いた理由を踏まえて考えるべきという彼の意見は確かにという思いが劉邦にはあったが、
(金の問題は重い)
と考えているため、陳平を呼んだ。
(来たか)
陳平は張良には頼らない。恐らく劉邦という人の信頼を勝ち得るのは自らの言葉のみでいくべきだろうと思っているからである。
劉邦は陳平を招いて直接譴責した。
「あなたは魏に仕えて重用されず、楚に仕えても去り、今また私に仕えて周遊しているが、信を守る者とは多心なのだろうか?」
(忠義心を疑うのは簡単に反論できる)
「私は魏王に仕えましたが、魏王には私の説(意見)を用いることができなかったために魏を去って項羽に仕えました。しかし彼は人を信用できず、任愛しているのは親族でなければ妻の昆弟(兄弟)に限られており、奇士がいても用いることができません。漢王は人を用いることができると聞きましたため、王に帰順したのです。私は裸一貫で参りましたので、金を受け取らなければ資(資本。資金)ができませんでした。私の計画(計策)が実際に採用するべきものであるのならば、王に用いられることを願います。採用するに足りないのならば、私が受け取りました金は全てそろっていますので、封をして官に送り、引退することを請います」
すると劉邦はぱっと笑顔になった。その表情を見て、
(この方は私の経歴などをしっかりと調べてから招いている)
項羽ならこういうことはしない。少なくとも劉邦は目の前のものだけで判断はしない。
劉邦は陳平に謝罪して厚く賞賜を与えた。劉邦は陳平が魏や楚を去る際の行動をしっており、彼の言った言葉に忠義があると考えたのである。更に護軍中尉に任命して諸将を監督させた。
陳平は処刑されるそう思っていた諸将はこのことに大いに驚き、敢えて再び意見しなくなった。
六月、劉邦は関内の櫟陽に還り、息子の劉盈を太子に立てて罪人を大赦した。
罪人だったものを正式に兵に加えるためである。
劉邦は祠官に天地・四方・上帝・山川を祭らせ、この後は定期的に祭祀を行うことにした。また、関内の士卒を動員して塞(営塞)を守らせた。
その時、関中に大飢饉が襲った。米一斛が万銭に高騰するほどのものであった。
劉邦は蕭何を通じて、関中の民に蜀・漢の地で食を求めるように命じた。
この際、このような話がある。
秦が滅亡したばかりの頃、豪桀(豪強富豪)が争って金玉を奪い合ったが、宣曲の任氏だけは穴倉を造って食糧を貯えていた。
楚と漢が滎陽で対峙すると、民が農耕ができなくなり、飢饉を招くことになった。
豪桀たちは金玉を任氏に贈って食糧と交換するようになったため、任氏はここから興隆し、数代にわたって富を有することになったのである。
八月、劉邦が滎陽に入った。蕭何を太子に侍らせて関中(櫟陽)の守りを命じ、諸侯の子で関中にいる者を全て櫟陽に集めて守らせた。
蕭何は素早く法令約束(規則)を制定し、宗廟社稷を建立し、宮室を造り、県邑を整えていった。劉邦の決定を仰いでいる余裕がない場合は蕭何の判断で臨機応変に実行し、事後報告を行えるようにしていたためである。
彼は関中の戸口を把握し、漢軍に対する転漕(物資の輸送)、調兵(兵の調達)を欠かしたことはなかった。すぐさま、劉邦が楚軍と戦えるようになったのはこのためである。
劉邦は酈食其を招いて言った。
「緩頰(甘い言葉)で魏豹を説得してください。もし彼を降すことができれば、魏地の万戸を生(先生)に封じましょう」
酈食其は魏に入って魏豹に会い、漢に着くように求めた。
しかし魏豹は拒否した。
「漢王は傲慢で人を侮っており、諸侯や群臣に対して奴隷を罵るように罵詈していると聞いている。私は再び会うことなどできない」
薄姫はこのことを弟の薄昭から聞き、舌打ちした。
(兄には及ばないわね)
劉邦がこのようにやってきたということは劉邦に余裕ができたということである。そうでなければこのような動きを見せることはない。
(漢軍は立ち直りがやはり早い)
蕭何という物流の化物がいることは知られていない。いや、当時の人々に彼の恐ろしさを知る方が難しいだろう。
(漢軍は恐らく断られることを前提に動いているわよね)
それだけの余裕が出てきたのだろう。
「次は軍を動かすわね」
薄姫の予想通り、魏豹の返答を聞いた劉邦は韓信を左丞相に任命し、灌嬰、曹参と共に魏を攻撃させた。
劉邦は酈食其に問うた。
「魏の大将は誰ですか?」
「柏直です」
劉邦は笑った。
「彼はまだ口が乳臭い男だ。どうして韓信に当たることができようか」
人としては韓信のが子供っぽいが、それは横に置いておこう。
次に劉邦が問うた。
「騎将は誰ですか?」
「馮敬です」
「ああ彼は秦将・馮無擇の子である。賢才だが灌嬰に当たることはできないだろう」
経験の差が違うということである。
劉邦がまた問うた。
「歩卒の将は誰ですか?」
「項它です」
劉邦は笑った。
「曹参に当たることはできない。勝てるな」
韓信も酈食其に問うた。
「魏は周叔を大将にしないのですか?」
「柏直ですな」
韓信は笑った。
「豎子(子供)に過ぎませんなあ」
(お前よりは大人だろうよ)
とは、劉邦は内心思った。
韓信は兵を進めた。
魏豹は蒲坂に大軍を置いて臨晋を塞いだ。
「韓信とは誰だ。全く無名な者を使うものだ」
彼はそう言って嘲笑った。韓信は章邯と戦っていたため、彼の名は知られていない。
韓信は疑兵を増やして船を並べ、臨晋から渡河する姿を見せた。一方で伏兵を送り、夏陽から木罌(罌は口が小さくて胴が大きい甕。木罌は甕の上に木を縛って作った筏)で渡河させた。
それによって漢軍は安邑を襲った。
驚いた魏豹は兵を還して韓信を迎え撃った。
「遅い、遅すぎるよなあ」
韓信は笑いながら魏軍を一瞬で打ち破って見せた。
そのまま魏の都を落とし、九月、韓信は魏豹らをあっさりと捕虜にして、駅馬で滎陽に護送した。漢軍が魏地を全て攻略して河東郡、上党郡、太原郡を置いた。
「やはり負けたわね」
魏豹と共に送られた薄姫は自分はどうするべきかと考えた。
「ここは魏豹を庇って、賢妻を強調しましょうか……」
よしそうしようと決めた彼女は喪服に着替え、劉邦に謁見を求めた。
「ほう、魏豹の妃が何の用だ?」
(これが劉邦)
直接見るのは初めてである。貧相な要望の人で、この人が項羽と天下を争っているとは思えない。
(不思議な人ね)
「此度は、お願いがあり参りました。」
「お願い?」
「はい、我が夫・魏豹の助命を乞いたく参りました」
彼女は膝をつけ、深々と頭を下げた。それを冷めた目で劉邦は見つめる。
「我が夫は不明の者であり、陛下に対し、裏切りを行いました。それは万死の罪と言えども、彼は魏の王族であり、高貴な方です。今後、魏の地を運営する上で必ずや陛下のお力になりましょう……」
その時、劉邦の声がほぼ真ん前から聞こえた。
「あんたの夫とやらはあんた売ったぜ」
(売った……)
その言葉が意味するものを素早く把握する。
「あんたを売って自分の助命を乞うてきたぜ、あの男はなあ」
(恐らく私は凄まじい顔をしている)
顔を上げないまま薄姫は自分の拳に力が入るのを感じる。
(私は一度でも魏豹を裏切ったことがある?)
自分は決して裏切り行為を行ったこともなければ、魏豹の利益になれるように動いたではないか。
(どうする)
そもそも劉邦がわざわざ明かしてきた理由がわからない。自分の反応を見て、確認をとっているというのだろうか?
(魏豹を罵る方がいいのか。それでも庇う方がいいのか)
わからない。劉邦が何を確認したいのか何を見たいのかがわからない。
薄姫は顔を上げた。
「そうでしたか。それで夫が助かるのであれば本望でございますわ」
できる限り微笑みながら彼女はそう言った。劉邦の表情に変化はない。
(失敗したか……)
内心では魏豹への憤りと焦りが混じる。その時、口に苦さを感じた。
唇をいつの間にか噛んでいたようで血が少し、流れた。
それを見て、劉邦の表情がわずかに変わった。
「あんたの健気さに免じて、魏豹を許すことにしよう」
「感謝致しますわ」
何が理由で許されたのかがわからない。それでもこれで生き残ることはできるだろう。
「あんたは売られたんだから、俺の元に来な」
「わかりましたわ。女官としてお仕え致します」
劉邦は眉をひそめる。
「ここで私を側室とされれば、陛下のことを勘違いなさる方もいらっしゃることでしょう。私は女官の方が合っているのでございます」
「そうか、わかった。下がっていいぞ。扉の先に官吏がいるその者に従い部屋にいくといい」
「わかりましたわ」
薄姫は拝礼すると部屋を出て行った。
劉邦の後ろから男が現れた。
「賢い女のようだ。陳平」
現れたのは陳平であった。
「ええ、魏豹よりもあの方を得られたのは陛下にとって喜ばしいこととございます」
「で、お前さんはなぜ、あの女を助けるんだ?」
劉邦が問いかけると陳平は目を細め答えた。
「あの方が魏で私を唯一評価してくださったからです」
「そうかい、まあおめぇの筋の通し方は嫌いじゃねぇよ」
劉邦は自らの寝室に戻っていった。
陳平も部屋に戻る。
「天子を産む……あの予言が当たるのかどうかは、あなた様次第ですよ。薄姫様」
彼はそう呟いた。
「ふうううう」
部屋に案内されて魂が口から抜ける薄姫さん




