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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

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夏侯嬰

 楚軍は執拗に劉邦りゅうほうを追った。しかし、劉邦を捕らえることが中々できないでいた。


「王、しっかりとお掴みください」


 馬車に激しく揺られながら必死に落ちないようにしている劉邦を後ろ目で見ながら夏侯嬰かこうえいが馬車を駆けさせていたからである。


 彼は常にいつでも馬車を動かせるようにしていた。


 その結果、楚軍の襲来に合わせてすぐさま劉邦を乗せて、逃走することに成功していたのである。


「か、夏侯嬰」


 劉邦が呼んだ。


「沛県へ向かってくれ、家族を連れて行きたい」


(沛県に……)


 正直言えば、ここで沛県に向かうのは危険すぎる。


(だが、ここで行かねば難しいか)


 夏侯嬰は頷き、沛県に向かうことにした。


 一方、劉邦を追跡していたのは、虞子期ぐしき季布きふであった。


「私は劉邦が沛県に向かっているように見えますなあ」


 虞子期はそう言うと自分は近道を通って劉邦の家族を捕らえると言った。


「承知した。私はこのまま追撃を続ける」


 季布はそう言って、追撃を行った。


 さて、劉邦が沛県に近づいた時、既に虞子期によって劉邦の家族の捜索が行われていた。


「既に楚軍が近くにいます」


「家族は」


「捕らえられた可能性が強いと思われます」


「仕方ない。報告を変えよ」


 夏侯嬰は劉邦の家族の回収を諦め、逃走を続けることにした。その途中、子供の泣き声が聞こえた。


「あの声は」


 夏侯嬰は周囲を伺うと二人の子供が泣きながら歩いていた。


「王のお子です」


 劉邦の子である劉盈りゅうえい魯元公主ろげんこうしゅを拾い上げて、馬車に載せた。


「お前たち泣くな」


「ち、父上、母さんがあ」


「お爺ちゃんも」


 そこに楚軍が迫ってきた。


「急ぎますよ」


 夏侯嬰は馬をかけさせる。しかし、人数が増えたために速さが鈍る。


「これでは……」


 劉邦は子供たちを見た。そしてそのまま二人を蹴り上げて落とした。


「と、父さん」


 小さな手を伸ばす彼らに劉邦は僅かに困惑しながら目を閉じる。


「ああ」


 夏侯嬰はこのことにきつくと馬の尻を強く叩き、勢いをつけて馬車の上でバク転すると紐を腰に巻き、馬車につなげると落ちた二人の元に向かって飛んだ。


「お二人ともお手を掴みください」


 彼は二人を抱き寄せるとなんとか馬車に戻った。


「落とせ」


 劉邦はせっかく戻した子供たちを再び叩き落とした。


(それはねぇぜ兄貴)


 夏侯嬰は再び彼らを拾い上げて回収した。


 同じことが三回繰り返されると、夏侯嬰は言った。


「今は危急の時なるも二子を棄てるわけにはいきません。二子を棄ててどうなさるのですか」


「だが……」


(仕方ないなあ)


 夏侯嬰は急に速度を落とした。


「おい、夏侯嬰」


 劉邦は激怒して、彼に手を挙げようとしたが、すると楚軍の追撃の勢いが落ちた。突然、速度を落とした夏侯嬰の動きに追撃してる季布が困惑したためである。


「今だ」


 その隙に夏侯嬰は速度を上げた。それによってついに楚軍の追撃を巻くことに成功した。


 一方、その頃、審食其しんいき劉太公りゅうたいこう(劉邦の父)と呂雉りょち(劉邦の妻)を連れて、間道で劉邦を探していたが、ついに遇うことができず、逆に楚軍に遭遇して捕まってしまった。


(いつだって私ばかり)


 そう思いながら呂雉は家族と共に楚軍に捕まった。


「劉邦の家族を捕まえました」


 虞子期と季布が項羽こううに報告を行った。


「そうか、まあ丁重にな」


 項羽は思ったよりも穏やかにそう指示を出した。


 この時、呂雉の兄・呂沢りょたくが漢の兵を率いて下邑に居た。優秀な呂一族の人物で劉邦の数少ない親戚の中で好ましいと思っている人物である。


「義兄上」


「王よ、妹たち家族を守る前に捕らえられてしまった。申し訳ございません」


「いえ、大丈夫ですよ」


 呂沢はこういう礼儀の良さがある。


 劉邦は彼と合流してから徐々に離散した士卒を集めた。


 諸侯は大敗した漢から離れて再び楚に附く動きをみせ、塞王・司馬欣しばきんと翟王・董翳とうえいは逃亡して楚に降った。


 同じく降った殷王・司馬卬しばこうは処刑された。


 一方、項羽が彭城を救いに行った間に、田横でんおう田假でんかを責め立てて、斉から追い出すことに成功した。


 田假は楚に走ったが、項羽によって斬られた。


「私も劉邦から離れて楚につくぞ」


 魏豹ぎひょうがそう言うと薄姫はくきは止めた。


「なりません」


「なぜだ。漢軍は楚軍によって大打撃を受けた。もはや楚軍の方が有利なのだ」


「大打撃は事実なるものの、決して漢軍が立ち直れないわけではありません」


 確かに漢軍は五十六万という大軍を率いていながら破れた。その印象が強いため魏豹は楚軍の方が有利に見えるのであろう。しかし、それは諸侯の兵を合わせた数であり、全て自前で用意した兵数ではない。一種の数字の手品のようなものである。


「此度の敗戦によってもっとも打撃を受けているのは漢ではなくその他の諸侯なのです。今だ漢軍には余力があります。見限るのは時期そうそうに思えます」


「もう決めたことなのだ」


 魏豹は劉邦に謁見すると親族の病を看病するために魏に帰ることを請い、許されると魏都・平陽に入り、河津(黄河の渡し場)を絶って楚に附いた。


(嘘に嘘を重ねて裏切った)


 劉邦という人は嘘を平気につく割には嘘をつかれることを嫌っているところがある。


(恐らく魏への報復は激しいものになるだろう)


 その時、自分はどうするべきか。薄姫はそのことを考え始めた。



 





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