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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争

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高貴にして美しき貴公子

「勝手に兵を動かしたそうだな?」


 項羽こうう虞子期ぐしきにそう言った。


劉邦りゅうほうの家族を捕らえる良い機会でしたので、季布きふ将軍と共に行いました」


 彼はそう言うと目を細めていう。


「何故、あのあと、すぐに引きように命じたのですか?」


「必要がないからだ」


 項羽はそう答えるだけであった。それに范増はんぞうが言った。


「羽よ。劉邦はお前にとって害になる男だはやく対策を立てなばならん。既に劉邦は三秦のほとんどの領域を支配し、こちらへの東進の準備が行われているそうだ」


「河南王・申陽しんようと韓王・鄭昌ていしょうに防がせれば良い」


「申陽は降伏し、鄭昌は殺され、韓王・しんを立てたそうじゃ」


「殷王・司馬卬しばこうも漢軍に降伏したと聞いています」


 陳平ちんぺいがそう付け加えた。


「司馬卬か。あやつはすぐに降伏するからな」


 項羽はそう言うと陳平を見た。


「お前が司馬卬をこちらに引き戻せ」


「承知しました」


 陳平は拝礼して立ち去る。


「それに羽よ。また、わしに相談なく行動したな?」


義帝ぎていのことですか?」


「そうじゃ」


 項羽は義帝を九江王・英布えいふ、衡山王・呉芮ごぜい、臨江王・共敖きょうこうに命じて義帝を襲わせ、江中(郴)で殺させていた。


「必要なことでした」


「やるべき時ではなかったと思うがのう」


 范増はそう言ってから続けて言った。


「劉邦に軍を向けるべきじゃ」


「いや、田栄でんえいを先に始末する」


 項羽は劉邦に見向きもしない。


「羽よ。劉邦は危険じゃ。あやつを始末してから十分、田栄なぞ始末できる」


「私は田栄のような男が嫌いなのだ。自分勝手な理屈をこねて、私に抵抗しようとしてきた。陳余ちんよもそうだ。連中は私に直接かかってこないにも関わらず、声だけは大きい」


「だからこそほっとけば良いのじゃ」


「いな、あのようなものこそが始末されるべきなのだ」


「劉邦はどうなのじゃあやつもそうじゃろう」


 范増の言葉に項羽は目を向ける。


「あやつは違うぞ」


 意外なことを項羽は言った。


「やつは……少なくとも私に本気で勝とうとしている」


 彼はそれだけを言って、斉への侵攻を続けた。


「羽も頑固な男だ」


 范増はやれやれと首を振る。


「范増殿。張良ちょうりょうが劉邦の元に合流したそうです」


 虞子期がそう言った。


「まあ仕方ない。劉邦の軍にはあやつを始末させるための兵を仕込んである」


 范増はそういった。

















 張良は劉邦の元に合流を果たそうとしていた。


「張良ですな」


 漢軍の旗と共に数人の兵を連れてやって来た男がいた。


「そうですが」


 男は手を顔の前にかざし言った。


「おお、かの高名なる張良殿にお会いできたこと誠に感激でございますなあ。噂に類わぬ美しい容姿の持ち主でもあられる。ああ、この高貴にして、美しきこの私でも霞むほどでございます」


 馬上でそんなことをいう彼に張良も雍歯ようしは変なものを見るかの如き目を彼に向ける。


「ああ、言葉も失うほどに、なんとこの私の高貴さの罪深いことか」


 きらきらする何かをまき散らしながら男はいう。


「あっ、呂馬童りょばどう殿ですね」


 劉肥りゅうひはボロボロの格好でそう言った。


「おお、劉肥殿。この私の高貴にして美しき名を知っておられるとは実に御目が高い」


 なぜか顔の横で星が煌く。


「呂馬童だあ。確かその名前、楚軍で聞いたことあるぞ」


「そう、この高貴にして美しき呂馬童は元楚軍におりました。しかし、あなたのような高貴とは無縁のものにも知られているとは私の高貴さは留まるところを知らないものだ」


 彼は馬上に降りるとくるりと周り、そう言う。


「おい、ぶっ飛ばしていいか?」


 わなわなと拳を震わせる雍歯を張良が止める。


「さあさあ、張良殿方、ひとまずはこちらへおやすみくださいませ」


 呂馬童が指を鳴らすとテキパキと配下たちがその場に布を広げて、席を組み立てていく。


「さあさこのようなところではありますが、お座りください」


 張良と雍歯、劉肥はそれに従い、布の上に座る。


「さあ、酒でございます」


 呂馬童は自ら酒を三人に配り、自らも盃を持つ。


「今日という日に感謝を」


 彼はそう言うとすっと酒を飲む。


「ひとえに張良殿」


「なんですかな?」


 呂馬童の調子がよくわからない張良は首を傾げる。


「少し、頭を下げてくだされ」


 張良はその言葉を受けて頭を下げる。すると呂馬童は盃を張良の頭の上へ投げつけると後ろから襲いかかろうとした兵にぶつけた。


「どういうつもりか」


 呂馬童の後ろの兵が剣をぬく。その瞬間、呂馬童は自らの細い剣を抜き、後ろを振り返ることなく後ろの兵を貫いた。


「裏切るのか。呂馬童」


 周りの兵たちが剣を抜いて叫ぶ。


「裏切る?」


 呂馬童は細剣の地をぬぐいながらいう。


「この高貴にして美しき貴公子・呂馬道がいつ誰を裏切ったと申すのか」


 張良たちも剣を抜き、周りの兵たちを切り裂いていく。


「こりゃどういうことだ?」


「張良殿の暗殺を命じられた者たちです」


 雍歯の疑問に呂馬道が答える。


「てめぇは違うのか?」


「ふふ、この高貴にして美しき私がそのような美しくない行動などするわけないでしょう」


 呂馬道は的確に相手の胸、手、足、喉を貫いていく。


「我が美しき、忠誠は」


『俺たちにできることと言えば、束の間の平和を作ることなのかもしれねぇなあ』


 瓦礫の山で言った劉邦の言葉を思い浮かべながら呂馬道は叫ぶ。


「漢王ただ一人に捧げられている」


 四人によって襲いかかったほとんどの兵は始末された。


「危ない目ではありましたが、できる限り多くの暗殺者を始末したかったのです」


「あぶねぇ真似に巻き込んでるんじゃねぇよ」


「ああ、実に美しき貴公子の考えることは凡人には理解されないようですねぇ」


「喧嘩売ってんのかてめぇ」


 雍歯を劉肥がなだめる。


「張良殿。漢王はあなた様が来られることを首を長くして待っておられます。さあ、参りましょう」


「承知した」


 張良が劉邦と合流を果たした中、陳平に決断の時が迫ろうとしていた。











呂馬童「誰だお前?」


蛇足伝の呂馬童もよろしく。

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