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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
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陰徳の刃

遅くなりました。思ったよりも長くなってしまった。

 張良ちょうりょうは悲しそうな表情を浮かべていた。恩人である倉海君そうかいくんが世を去ろうとしていた。


「倉海君……」


 張良は横になっている彼の隣で自ら看病に当たった。そんな彼に倉海君は言った。


「張良殿、私の配下の者たちをあなたの大志のためにお使い下さい」


「それはできません」


 始皇帝暗殺未遂事件において彼から人を借りながら死なせてしまった。それにも関わらず、配下を自分のものになどできない。


「そうは言わず、あなたに託したいのです」


 倉海君はよれよれの手を張良に伸ばす。


「倉海君……」


 張良はその手を取り頷いた。


「わかりました。あなたの配下を借り受けます」


「良かった……」


 安心したように呟いた倉海君は目を閉じていく。


「最後にお聞かせください。なぜ、あなたはこれほどに私を助けてくれるのですか?」


 張良の問いかけに倉海君は答えないまま世を去った。


 倉海君の配下を率いることになった張良であるが、


(これからどうしたら良いのか……)


 始皇帝の暗殺を再び行うことを考えた。しかし、今の自分は倉海君の配下を率いる身である。彼らを危険な目に合わせて死なせてしまえば、倉海君に申し訳が立たない。


 いざ人を率いる身になって、彼らを危険に追い込むことに躊躇する自分に気づいた。


(私は人を率いる器ではなさそうだ)


 特に将軍にはなれそうにない。将軍は時に兵に死ねと言わなければならない。その辺が自分には無い。


 そんな風に思いながらある日、歩いていると下邳の圯(橋)の上で黄色い服を来た老人と出会った。この出会いが彼に新たな道を示すことになる。


 橋の上に黄色い服を来た老人がいる。


(こんなところで何をしているのだろうか?)


 張良がそう思っていると老人は自分の履物を自分で圯の下に落とした。そしてそれを指差して張良に言った。


「孺子(若者)よ。下りて履物を取って参れ」


 流石の張良はむっとして、


(こいつ何様のつもりか)


 と老人を睨む付けた。元々鉄槌で始皇帝を暗殺しようとする人である。血の気は人よりもある。そのため老人を殴ろうかと思ったが、


(相手は老人だ)


 相手が年老いているため我慢して履物を取って来た。


 老人は、


「わしに履かせよ」


 と偉そうに言ってきたため、更に苛立ちつつも張良は既に履物を取ってきたため、あえて拒否せずそのまま長跪して履物を履かせた。


 老人は足を延ばして履かせてから笑って去っていった。


(一体なんだったんだ?)


 そう思いながら張良は呆然としていると老人は一里ほど去ってから戻って来てこう言った。


「孺子には教えることができるようだ。五日後の平明(空が明るくなる頃)、私に会いにここに来なさい。待っているぞ」


 その時の老人には妙な迫力があり、張良は不思議に思いながら跪いて「はい」と答えた。


 五日後の平朝、張良は約束通り、会いに行った。しかしながらそこには老人が既に来ており、老人は怒って言った。


「老人と約束したにも関わらず、遅れて来たのはなぜか」


 そして、人通り怒ってから老人は、


「五日後の早朝に会おう」


 と行って去って行った。


(ならもっと早く来てやる)


 五日後、張良は鶏が鳴き始めた時に会い行きった。しかしながら老人はまたもや先に来ており、また怒って言った。


「遅れたのはなぜだ」


 張良はむっとしながら黙って老人の怒声を聞く。少しして老人は、


「五日後の早朝にまた来なさい」


 と言って去った。


(まだ付き合うのか……)


 そう思いながらも張良は五日後のまだ朝日の出てない夜半に出発した。


 暫くしてから老人が現れ、張良を見ると喜んで言った。


「こうでなければならない」


 老人は一篇の書を取り出して言った。


「この書を読めば王者の師となれるだろう。十年で興り、十三年経てば、孺子は済北で私に会うことになる。穀城山下の黄石がわしである」


 老人は他には何も言わずに立ち去り、そのまま姿を消した。


(老人は人ではなく、神であったのか)


 目の前で起きたことに驚きながら張良は空が明るくなってから書を見るとそれは『太公(呂尚)兵法』であった。張良は奇異に思って常に書を熟読するようになった。


(王者の師か……)


 今の世の王者を挙げるのであれば、始皇帝しこうていであろう。しかし、始皇帝を助けるなどありえない。


(つまりは王者が現れる時代が来るということだ)


 秦の世が揺らぐということが意味している。


(それに乗じて韓王の子孫を助け、韓を再興すれば……)


 それもまた、秦への復讐になり、同時に韓の人々も喜ばせることになる。そしてそこで良い政治を行おう。彼は益々読書に興じるようになった。













 その頃、三人の男が馬を走らせ、下邳に向かっていた。


「もう少しで下邳です兄上」


 項伯こうはくが兄・項梁こうりょうにそう言った。


「そうか……羽よ。もうすぐであるぞ」


「はい、叔父上」


 項羽こううは項梁に向かって頷く。


 彼らは楚が滅亡後、逃げに逃げていたが、項梁は一回、秦の官吏に捕まったことがあった。しかし、彼を見て、


(助けてやろう)


 と思った獄吏の曹咎そうきゅうが上司の司馬欣しばきんに掛け合って開放された。その後、秦に捕まることなく、各地を転々としていた。やがて秦を討つという大志を胸に。


 今回、彼らが下邳に向かったのは、仁義に厚い人物であると評判の倉海君に会うためである。しかも彼は楚の王族の子孫の一人を匿っていたという噂があった。


 (楚王という旗頭を再び、掲げ秦に挑む)


 項梁はそう考えていたのである。


 淮陽に最初いたという倉海君を追って下邳にやってきた彼らは倉海君の居場所を探し始めた。しかし、


「倉海君は数ヶ月前に死んだだと……」


 項梁らは落胆した。これでも危険な道中を必死に駆けてきたのである。それが徒労に終わってしまった。しかも彼の後を継いだ人物については誰も知らないという。


「これからどうなさいますか?」


 項伯が兄に尋ねる。


「取り敢えず、秦の目が遠いところに移住しよう。呉が良かろう」


「そうですね。さっそく旅支度を整えましょう」


 項伯は兄の言葉に頷くと旅支度を整えるため、市場に行った。


(秦の官吏が二人いる)


 低い立場の者たちだろうが、顔を知られている可能性がある。項伯は笠を被り顔を見づらくして、官吏たちの横を歩いて行った。その時、彼らの話し声を聞こえた。それは彼を驚かせるのに十分な話であった。


「ここに張子房ちょうしぼうがいるらしい」


「本当か。あの博浪沙の……」


(張子房……)


 その名には聞き覚えがあった。かつて自分を助けてくれた男である。その彼がここにいるのか。しかも秦に追われている。


「ああ、倉海君の元で匿われており、彼の死後その勢力を引き継いだそうだ」


「なるほど、そうであったか。倉海君の威望が強く手出しできなかったが、張子房を匿っているとなれば、手出しできよう」


「今、このことを知っているのは私と君だけだ。もう少し証拠集めを行ってから県令に報告する」


「そうだな。そうしよう」


(この二人だけが張良殿のことを知っているか……)


 項伯は剣を一瞬、抜こうとした。しかし、そこで止めた。


(今、やれば兄上にも羽にも迷惑がかかる……)


 行動は慎重にしなければならない。しかし、張良を救いたい。そう考える彼は悩みながら項梁の元に戻った。


「兄上、倉海君の後を継いだのは張良という男です」


「ほう、張良というとあの」


 彼の名前を聞いただけで、項梁は驚いた。何せ、あの博浪沙でのことは有名である。


「ええ、そうです。実は私は彼のことを知っているのです」


「それは知らなかった。彼は偉大な人だ。なぜ、黙っていた?」


 始皇帝に果敢に挑み、生き残っている人として、彼は尊敬されている。


「黙っていたわけではありません。父上が罠に嵌められた時、傷ついていた私を助けてくれたのは彼だったというだけなのです」


「ほう、張良殿に」


「はい、しかしながら彼に危機が迫っています。秦の官吏が張良殿が倉海君の後を継いだことを知ったのです。私は彼を助けたいと思っています」


 項伯の言葉に項梁は難しい顔をする。張良を助けようとすると自分たちも余計な火の粉を被らなければならなくなる。


「危険だ」


「わかっています。兄上は羽を連れて先に呉へ向かってください。私一人で張良殿を助けようと思います」


「確かにお前を助けた恩人であろうが、そのためにお前が危険を犯すというのは違うのではないか?」


 そう言った項梁であったが、項伯は譲らない。


「あの時、助けてもらわなければ、こうして兄上と話すこともできなかったでしょう。この恩は重いのです」


(伯は兄弟の中で一番の頑固ものだった)


 しかも正しいことをやるという時は特に頑固になる。


「わかった。だが、決して無茶をしてはならない。必ずや呉に来い。良いな」


「感謝します」


 こうして項梁と項羽は呉に行き、項伯は残って、張良のために動いた。


 あの二人の官吏はいつも市にある安い料理屋で食事を取るということを調べ上げ、その帰り道で襲うという計画を立てて実行した。


 二人を斬ったがそこでたまたま通りかかっていた秦の官吏に見つかり、秦兵に追い掛け回されることになった。


(また、秦兵に追われている)


 その時、黄色い服の男が見えた。その男はある道を指さした。それに感じるものがあった項伯はそれに従った。するとそこに張良が配下と共にいるのが見えた。


 走っている項伯に気づいた張良は脇道に彼を引っ張りこんだ。


「久しいな。何故、秦兵に追いかけられている?」


「秦の官吏を二名殺害した」


「何故に?」


 張良が問いかけると項伯は首を振り、


「言えぬ」


 と言った。張良のためなどとは言わない。そんな恩を着せるようなことは言おうとは思わないと考えるのが項伯という男であった。


「わかった。理由は聞かない。だが、お前のことは私が匿うとしよう」


「待ってください。あなたは秦に追われている身です。ここでこの方を匿ってしまえば、更に秦の目は厳しいものになるのではありませんか?」


 配下が張良にそう言ったが、張良は頷かず、


「彼もまた、秦打倒を掲げる同志だ。彼を助けることは私たちのためである」


 と言って、項伯を連れて自分たちの隠れ家に向かった。


「またもやあなたに恩を受けることになった」


 恩を返すどころか更に返さなければならない恩ができてしまった。


「気にすることはない。ゆっくりされよ」


 張良は特に気にせず、彼を労わり、匿った。その間項伯は秦の官吏を斬った理由を最後まで張良に言わなかった。こういう人である。








 



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