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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第二部 楚漢戦争
55/126

無名な男

「法令遵守」


「法令遵守」


「勤労奉仕」


「勤労奉仕」


「前例尊重」


「前例尊重」


「迅速対応」


「迅速対応」


「臨機応変」


「臨機応変」


「復誦」


 目に隈のできている蕭何しょうかが新人の官吏たちに向かってそう言うと再び、新人たちは先の内容を復誦し始めた。


 それを死んだような目で復誦するのは韓信かんしんである。


(何、これ……)


 ここで彼の過去について説明しよう。


 韓信は淮陰の人である。家が貧しく善行もなく、そのため官吏に選ばれることなく、商賈(商業)で生計を立てることもできず、常に人に頼って飲食を得て暮らしていた。そのため多くの人から嫌われていた。


 ある日、韓信が城下で釣りをしていた時、水辺にいた漂母(洗濯をしている老母。または綿絮を洗っている老母)が餓えた韓信の姿を見て食物を与えた。


 韓信は喜んで漂母にこう言ったという。


「私は必ずあなたに厚く報いることでしょう」


 すると漂母は怒って言った。


「大丈夫(立派な男)が自ら食べることもできないでいるから、私はあなたを哀れんで食を進めたのですよ。報いを望んだのではありません」


 また、こういうこともあった。


 淮陰に住む屠(屠殺を行う者。身分が低い者)の若者が韓信を罵ってこう言った。


「汝は長大(背が高いこと)で刀剣を帯びることを好んでいるくせに、その中情(内心)は怯(臆病)だ」


 若者は大勢の前で韓信を辱めた。


「汝が死を畏れないのならば、私を刺せ。死ねないのなら私の袴(胯。股)の下をくぐれ」


 韓信は若者を孰視してから体を屈め、匍匐して股の下をくぐった。市中の人々はそんな韓信を嘲笑し、臆病者だと罵った。


 その後、項梁こうりょうが淮水を渡った時、韓信は剣を持って従った。しかし韓信は項梁の麾下にいても一向に名が知られることはなかった。


 項梁が敗れてからは項羽こううに属した。項羽は韓信を郎中にした。奇妙なことに韓信のことを知っていた鍾離眜しょうりばつが推薦したためである。


 以前よりもと思ったのも束の間、韓信はしばしば項羽に策を与えようとしても、項羽は韓信を重く用いようとしなかった。


 更に項羽の戦を見て、


(一体、どんな神経して戦をしてるんだ)


 と思い、更に秦軍・三十万の生き埋めを見て、


(なんて非効率的なやつだ。あれほどの兵がいれば、どんな戦でも再現できるというのに……)


 韓信は項羽の戦ぶりに呆れた。それによって彼は楚軍をやめた。


(さて、どうするものか)


 恐らく天下はまだ荒れる。それぐらいの認識は韓信にはあった。


 ふと、ある立札を見つけた。


「読み書きできる人。募集、官吏として即採用します。あなたの才能を活かすのは今です。さあ皆さんの才能はここで発揮しませんか?」


 と、書かれていた。


 更にその下には給料面の待遇等も書かれており、破格であった。


「ここにするか」


 すぐさま、官吏になれるのなら自分を使ってもらえる可能性が高くなるだろう。


 こうして韓信は劉邦りゅうほうの漢中への移動に従うことにした。


 そして、今に至る。


 正直に言おう。韓信は凄まじいほどに後悔した。なぜなら官吏として即採用されたのはいいが、あまりにもそのための教育が厳しく、このような復誦が行われている。


(私はとんでもないところに来てしまったのではないか……)


 韓信は後悔した。











 少し、時を戻す。


 蕭何は笑っていた。


「ふふふ、沛公が漢王となり、漢中に向かうことになった。これでしばらくいや、少しの間は戦をしない」


「のう、なんでわしら集められているんじゃろうか?」


「わからないのお爺ちゃん。ツケが回ってきたってことだよ」


 陸賈りくか酈食其れきいきにそう言った。


「ちょっと用事が」


「ダメだよ。曹参そうしんさん」


 逃走しようとする曹参の袖を陸賈は掴む。


「皆で苦しめば怖くないって言うじゃない」


 蕭何は微笑む。


「つまり、今まで軍部に回していた人員をこちらに回せるということだ。なんと素晴らしい。私たち官吏の時代が来たのだ。ふふふふふ」


「負担かけすぎて、壊れてしまったのか」


 夏侯嬰かこうえいは死んだ目でそう言う。


「もう、みんなサボるからあ」


「いや、お前が言うな」


 陸賈が頬を膨らませるとこの場にいる全員が突っ込む。


「さて、皆さん。官吏としての仕事は大変、多くありますが、しっかりと行っていきましょう」


 もう終わった。そんな目をし始める皆の中で陸賈がすっと手を挙げた。


「提案があります」


「なんですか陸賈?」


「今回、国を治めるということになって大量の官吏が必要になると思います。とてもここにいる人たちだけでは、難しいと思います」


(なるほど)


 ここにいる者たちは陸賈の提案を喜んだ。このまま蕭何によって酷使されることにはなるだろうと思っていたが、その負担を人の数で軽くしようというのだ。


「確かに新たな人員募集は必要ですね」


 蕭何は微笑む。


喜び(苦しみ)は共有した方が楽しいですからね」


「おかしいなあ、聞き間違いかなあ?」


「いや、聞き間違いじゃないと思うのう」


「さあて、腕がなりますね。新人を育てるのは、得意なんですよ。私」


 蕭何が微笑む中、曹参、夏侯嬰は青ざめる。


「蕭何殿の新人教育と言えば……」


「ああそうだ夏侯嬰。あれだ……」


 二人はどうにかして、逃れなければと思った。


「法令遵守、勤労奉仕、前例尊重、迅速対応、臨機応変」


 蕭何は集めに集めた官吏たちの前で語る。


「常に私たちは正確かつ迅速な対応が求められています」


 そう語る蕭何の後ろで、目元に隈ができている陸賈たちが立っている。


「故に上司の言葉に即座に答えられるようにしなければならない。つまりありとあらゆるものを暗記するのは普通のことです」


 蕭何は指を鳴らした。すると官吏たちが木簡を次々と運び込んでいき、山のように積まれていった。


「さあ、諸君、これを明日までの暗証できるようになってください」


「無理だと思います」


 勇気ある若者がそう言った。


「心配することはありません。確かに一回では難しい。その通りです。失敗は恥ずかしいことではないのです。失敗すれば次、挽回すれば良いのです。さあ、皆さんやりましょう」


 しかし、若者の勇気は通じなかった。


 この他にも文字の書き取りを何日もかけて続けさせて、誤字脱字があれば何度も何度も修正させ、誤字脱字が無いようにし、礼儀作法も徹底的に鍛え上げ、時には体力をつけさせるための運動も行った。


「さあ、諸君。十二刻働けますか」


 蕭何は微笑む。彼の沛県の時代においての新人教育をした時に付けられた異名は新人殺しである。


「さあ、皆さん。ご一緒に法令遵守、勤労奉仕、前例尊重、迅速対応、臨機応変」


 しかしながらこの過酷な酷使に耐え切れない者たちはもちろんいた。


 彼らは酒場で蕭何を罵り、暴れ周り、やがて酒場にいた関係の人間も巻き込んでいき、被害者が出る始末となった。それを受けて、武官による鎮圧が行われ、特に暴れたとする十四名の男たちが捕らえられた。


 その一人が連敖(楚の官名。客を接待する官)になっていた韓信であった。彼ははっきり言って無関係であったが、間違えで捕らえられてしまった。


(こんなところで死ぬのかあ)


 韓信は嘆いた。しかし、ここから彼の運命が少しずつ動き出すことになる。



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