天の怒り
怒声が響き渡っている。
そこはある者にとっては天国、ある者にとっては地獄。そのような場所で黄石は罵声を浴びていた。
「貴様、どういうつもりだ」
「そうだ。あれを持ち出すなど何を考えている」
「荘周め。とんだろくでなしを育てたものだ」
しかしながら黄石は無言を貫くため、更に場は灼熱していく。
「これこれ、皆の衆。そう怒鳴ることもあるまい」
青い牛に座る老人が手を挙げて、止めた。
「黄石よ」
「はっ」
黄石は頭を下げる。
「何故、お前はあれを持ち出した。いやあれ以上になぜ、お前は己の力の一旦を与えたのだ?」
「前者は救済のため。後者は師の言葉を確かめるためです」
「ふむ」
老人は髭を撫でる。
「汝の師・荘周の言葉か……」
「そうです。我が師が最後に残された言葉の意味を、私は長く人の世を眺めて、あの言葉の意味を確かたくなったのです」
「そうか……良かろう。この件についてこれ以上の言及をしないことにしよう」
「ありがたきお言葉です」
「だが、言っておくぞ。荘周は言葉は至言ではあるが、それにばかりこだわり過ぎてはならん。良いな」
老人はそう言うと手を挙げた。すると天地がひっくり返り、黄石は森の中にいた。
「荘周……あなたの言葉通り、人は同じ答えを出すのでしょうか」
彼は一人呟いた。
漢王に封じられた劉邦は不機嫌であった。
「項羽を攻撃しましょうぜ」
樊噲を始め、周勃、灌嬰は劉邦に挙兵を勧めた。
そんな中、蕭何が劉邦を諫めながら言った。
「漢中の王にされたのは憎むべき事であるが、死よりもひどくはないだろう」
「なぜ死に至るというのか」」
(本来はこういうことは張良殿の仕事なのだ)
そう思いながら蕭何は言った。
「今、あなたの衆は項羽に及ばない。百戦したら百敗するのだから、死なないはずがない。湯王や武王は一人の下に屈して万乗の上に伸びることができたものだ。私は王が漢中で王となり、民を養って賢人を招き、巴・蜀の財を集めて利用することを願っている。その後、東に還って三秦(雍王、翟王、塞王。旧秦の地)を平定すれば、天下を図ることができるだろう」
「わかった。お前の言うとおりだ」
劉邦はそう言って国に赴くことにし、蕭何を丞相に任命した。
「やれやれまた、仕事が増える」
蕭何はそう思いながら同意した。
続けて劉邦は張良に金百鎰と珠二斗を与えた。
「張良殿には世話になったからな」
「いや、これは項伯殿に渡しましょう」
張良は全て項伯に献上した。劉邦はその意図を察して、更に張良を通して項伯に厚い礼物を贈り、関係を深めた。
その後、劉邦は改めて漢中の地を全て治める許可を得るため、項伯に項羽へのとりなしを頼んだ。項伯が項王に報告して項王は同意した。
「こういう細かなことにも心を配らなければならんとは王とは大変なものだ」
劉邦はそう呟いた。
四月、諸侯が自軍の兵を率いて解散し、それぞれの国に向った。。
項羽は士卒三万人を劉邦に従わせて封国に送ることにした。
「項伯殿の好意であるな」
劉邦は張良に言った。
更に楚兵や諸侯の軍中で劉邦に従うことを希望した者、数万人が杜南から蝕中(『資治通鑑』胡三省注によると駱谷、または子午谷)に入った。
「漢王、では私はここまでです」
張良は襃中まで至ったところで劉邦にそう言った。張良は項羽から韓王・成の元にいるよう命じられている。
「あなたと別れなければならんのは残念だが。仕方ないものだな」
劉邦は残念そうに言うと張良も悲しそうにしつつ言った。
「漢王にご進言したいことがあります」
「何かな?」
「この後、通過した棧道(木を組んで造った山道)を焼き払うべきです」
「それでは……いやなるほどわかった。つくづく張良殿のご好意には感謝しなければならんな」
劉邦は頷くと張良と別れ、通過した棧道を焼き払った。
諸侯の侵略を防ぐためという意味と、東に帰る意志がないことを項羽に示すための行為であり、張良は今後のために行うよう勧めたのである。
劉邦と別れて戻った張良は韓王・成と共に韓へ行くことになっていたが、項羽は彼を彭城に留めたため、異動することはなかった。
項羽によって燕王に立てられた臧荼は燕に向かい、元燕王・韓広を遼東に駆逐しようとしたが、韓広が逆らったため、臧荼が無終(燕都・薊)で韓広を襲って殺し、領地を兼併した。
田栄は項羽が斉王・田巿を膠東に遷して斉将・田都を斉王に立てたと聞き、激怒した。
「西楚の覇王は物事の道理がわからぬ。叔父にそっくりだ」
彼は斉王を膠東に遷そうとせず、斉を挙げて項羽に対抗し、田都を迎え撃った。田都は楚に走った。
「斉は正義ある者が治めるべきなのだ」
田栄はそう言ったが、彼に誰よりもついていけないと思った者がいた。田巿である。彼は項羽を恐れ、秘かに臨菑を出て膠東に逃げた。
「それでも田儋の子か」
怒った田栄は田巿を追撃し、膠東の都・即墨で田巿を殺した。
「斉の地は正義ある者が治めなければならん」
田栄は田横にそう言った後、自ら斉王となった。田栄は更に西を攻めて済北王・田安を撃殺した。
しかしながら斉一国のみで項羽に対抗できると思うほどに田栄は項羽を侮っていないため、彼は当時、鉅野におり、一万余人の衆を率いていた彭越に将軍の印を与えて梁の地で楚と対抗させた。
この頃、張耳が封国の常山に向かったことを知った陳余は激怒して言った。
「張耳と私は功が等しいにも関わらず、今、張耳は王になり、私は侯にしかなれなかった。項羽は不公平だ」
彼は秘かに張同と夏説を派遣し、田栄にこう伝えてきた。
「項羽が天下を主宰したものの、不公平な結果のみをもたらしました。今、故王(旧王)は全て醜地(悪い地)の王にされ、彼の群臣諸将が善い地の王となっています。故主(旧主)の趙王も北の代に住んでおり、このような状況を私は相応しくないと思っています。斉王は兵を起こして不義(項羽の命)を拒否したとお聞きしました。斉王が私に兵を貸して常山を撃たせ、趙王を復させることを願います。趙を斉の扞蔽(藩屛。壁)にさせてください」
田栄は同意して兵を出し、趙に向かわせた。
斉、趙で反項羽の動きが見え始めていた頃、范増は自らの手下を集めていた。
「劉邦と張良を離すことができた」
劉邦を誰よりも警戒している范増は劉邦を僻地に押し込み、張良と引き離した。後は張良を始末し、劉邦に道を示すことができる者を消せば、劉邦を滅ぼし、項羽の天下を決定的にすることができると考えている。
「今、張良は韓王と共にいるが、最悪、韓王と共に始末しても構わん。やれ」
范増は手下に張良を暗殺を指示した。
指示を受けた手下は夜間に韓王・成と張良が宿泊する屋敷を襲撃した。
「韓王の身を守れ」
張良はこの襲撃に対応しようとするが、既に范増の手下たちは屋敷深くに侵入し、韓王の配下を惨殺していた。
「韓王、どこぞにおられますか」
必死に韓王・成を探す中、張良の前に范増の手下たちが現れ、斬りかかる。
「くっ」
張良は剣で対抗するが、多勢に無勢となっていく。その時、手下たちの後ろから悲鳴が上がった。そして、手下たちをなぎ払いながら大男がやって来た。
「張良殿」
大男は雍歯であった。彼は陳平から指示を受けて、張良を助けにきたのである。
「雍歯殿か。韓王は?」
「わからねぇ。張良殿、ここは脱出をしねぇと」
「いや、韓王を置いて逃げるわけにはいかない」
なおも韓王・成を探そうとする張良に雍歯は彼の腹を殴り、気絶させると彼を肩に抱え込み、范増の手下たちの攻撃を避けながら屋敷を脱出した。
この騒ぎを知った項伯は項羽の元にやって来た。
「どういうことか?」
項羽の元には范増と虞子期もいた。
「韓王を始め、その配下は襲撃を受けて殺されたと聞いたぞ」
「張良は生きておる」
「そういう問題では無い」
項伯は范増をきっと睨みつける。
「范増殿、あなたの指示か」
「張良は劉邦と協力しており、韓王はそれを支援しておった」
「范増殿、それは道理に合わん」
なおも項伯が范増を責め立てようとすると項羽が手を挙げた。
「叔父上、これは私が指示したことだ。韓王には何の功績もなく、本来配下である張良は劉邦と好を通じている。処刑する理由は大きかった」
范増は驚きながら項羽を見た。一方、虞子期は意外そうな表情で項羽を見る。
(へぇこんなやつでも庇うぐらいはするんだなあ)
虞子期は内心、けらけらと笑う。自分は特に何もしてないのに、自分勝手に皆、踊っているように見えて面白いのである。
「羽よ、道理に悖る行為を行えば、やがて己自信を滅ぼすことになるぞ」
「私はしっかりとした裁きを与えているだけです」
何も間違ったことはしていないという風に項羽は言った。
「いいか、羽よ。張良殿は秦打倒を真っ先に掲げ、始皇帝の暗殺未遂事件の後も始皇帝の追ってから逃れ続け、最後には秦打倒を成し遂げてみせた方なのだ。彼はやると決めたことを最後までやり抜く方なのだ。その彼がお前を決めれば、全力を持ってお前を滅ぼしにかかるだろう」
今回の一件により、項羽は張良の怒りを買うことになるだろう。それは同時に天の怒りを買うことになるだろう。そのことを項伯は告げると、
「天が相手か……」
項羽は呟き、笑った。
「悪くないな」
彼はそう言った。その笑みを遠くで見ていた虞姫はなぜか羨ましく感じた。




