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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
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呂公

 紀元前217年


 この年、何も事件はなかった。そう史書に書かれている。秦でもっとも幸福な年であったと言えよう。


 ここである英雄の話をしたい。


 その英雄は沛県豊邑中陽里の人である。名を劉邦りゅうほうと言った。しかしながら劉邦の名は本来は季であり、後に改名したという説もある。または季は字であるともいう。


 このように本当の名について話が出るほど劉邦は低い身分の出身であった。


 彼の父は劉太公りゅうたいこうと呼ばれており、本名は「執嘉」または「煓」というらしく劉媼(太公の母)が夢で龍のような赤鳥を見て遊んでから執嘉を生んだと言われている。取って付けたような話である。


 さて、劉邦の母も劉媼という。媼は年長の女性に対する尊称、または母の意味で、劉氏のお母さんという意味である。諡は漢の昭霊后。劉邦が挙兵した時に小黄城で死に、後に小黄というところに陵廟が建てられた。


 因みに劉邦の母は王氏または温氏で名は含始(妻の名)であるという。これも取って付けたような話である。


 この取って付けたような話には後世からも疑問の声が上がっており、劉邦の両親の名はわからないとするべきとしている。


 劉媼は大沢の陂で休んでいる時、夢で神に遭遇した。にわかに雷電が轟いて空が暗くなり、心配になった劉太公が劉媼を見に行くと、蛟龍が体の上にいた。その後、劉媼は妊娠して劉邦を生んだという。よくある話である。


 劉邦という人の要望は隆準(鼻が高いこと)、龍顔、美須髯(鬚が美しいこと)で、左股に七十二の黒子があった。


 彼は若い頃、家の手伝いを行わず、荒くれどもと付き合い、いたるところを遊び歩いた。裏の社会の者たちとも付き合った。しかし、天下が統一され、裏の社会で生きづらい世の中になった。


 そんな彼を官吏になることを勧めたのは同郷の蕭何しょうかである。劉邦は泗水の亭長を勤めることになった。


 亭というのは道に設けられた休憩用の施設のことで、十里に一亭が置かれた。亭長は一亭が管轄する地域の長である。十亭で一郷になる。


 廷内(郡県の府廷)の官吏は皆、劉邦となれ合い親しんだという。実際は、低い身分で裏の社会とのつながりを持っている彼を下に見ていたというのは実際のところであろう。


 劉邦は常に酒を愛して、女色も好んだ。そして、金がないのにしばしば王媼や武負(どちらも酒店の主。恐らく二人とも女性であり、娼婦という説もある)に酒をもらいに行ったという。


 しかし、二人は彼を拒むことはなかった。その理由を問われると、彼は酔って寝てしまった時、武負と王媼は劉邦の上にいつも龍がいるのを目撃し、彼が酒を買いに来て店内で飲み始めると、いつもより数倍も多く酒が売れるためである。


 そのため二人は一年の終わりになっても酒代の取り立てなかった。


 劉邦は咸陽で徭役に従事したことがあった。


 始皇帝しこうていが外出した際、その姿を自由に見る機会があったため、劉邦も見に行った。


 始皇帝の行列を眺めてから嘆息してこう言った。


「ああ、大丈夫とはまさにこうあるべきである」


 この時、同じく項羽こううが見ていたという話もあるが、実際は違う時であろうと思われる。













 単父(地名)の人・呂公りょこうは沛令(県令)と仲が良かったため、仇から逃げてきて、沛令の客となって家族も沛に移してきた。


 また、呂公は汝南新蔡人という説や魏人で、名を文、字を叔平という説がある。


 沛中の豪桀官吏は県令に重客(重要な客)が来たと聞いて祝賀に行った。蕭何が主吏として客が納めた礼物を管理することになった。


 蕭何が諸大夫(貴人の総称)に言った。


「進物が千銭に満たない者は堂下に座るように」


 そんな中、劉邦がやってきた。どれほど持ってきたのかを門兵に尋ねられると彼は門兵に「祝賀の金一万銭」と偽って書かれた名刺(姓名や用件を書いた札)を提出した。実際は一銭も持っていない。


 この名刺を見た呂公は驚いて立ち上がり、門まで迎えに行った。そして、呂公は人相を看るのが得意であり、劉邦の容貌を見ると重敬して中に入れ、席を与えた。


 劉邦が一万銭をもって来たと知った蕭何は呂公に、


「劉季という男は大言が多く、事を成した実績はほとんどない男ですよ」


 と言って、劉邦などに席を与える必要は無いと言ったが呂公は気にせず、上坐に座りながら全く遠慮せず、他の客に絡む劉邦を見続けた。


 酒宴が終わりに近づいて客達が帰り始めたが、呂公は劉邦を返さなかった。やがて客たちのほとんどが帰ると劉邦に近づき、呂公は言った。


「私は若い頃から人相を看るのを好み、多くの人を見て来ました。しかしあなたの相に及ぶ者はいません。あなたは自分を大切にしてください。私には息女(娘)がいます。あなたの箕帚の妾(妻)にさせてくだされ」


「いいよ」


 これを呂公の後ろで聞いていた蕭何は驚き、呂公に囁いた。


「既に劉邦には曹氏という妻がおり、子もいます」


 事実である。劉邦は正式に婚儀を上げたわけではないが、曹氏という女がいる。彼女との間に産まれた子は劉肥りゅうひという。しかし、呂公は気にせず、婚儀の日程を決め始める。


 酒宴が終わってから、呂媼(呂公の妻)が怒って呂公に言った。


「あなたは以前から娘を常人とは異なるようにさせたいと思い、貴人に嫁がせることを願っていたではありませんか。そのため沛令とあなたは仲がいいのに、彼に求められても婚姻に同意しなかったのですよ。なぜ妄りに劉季に嫁がせる約束をしたのですか?」


 しかし呂公は、


「これは児女子(婦女)が分かることではない」


 と言って娘を劉季に嫁がせることにした。これに呂公の妻は呆れに呆れて、嫁ぐことになった娘の呂雉りょちに言った。


「今日、あなたの父上は馬鹿であることがわかりました」


 すると呂雉は、


「ならば、母上は馬鹿な人の妻ということになりますね」


 と返した。彼女にはこういう気の強さがある。


 こうして劉邦と呂雉の婚儀はなり、呂雉は彼との間に息子の劉盈りゅうえい(後の恵帝けいてい)と娘(魯元公主)を産むことになる。


 妻ができた劉邦は相変わらず、家のことを手伝うことはなかったが、呂雉は夫の父と兄、義姉たちを手伝い、尽くしていった。本来の身分よりも苦労を重ねた彼女は精神的に大きな成長をしていくことになる。


 一方で相変わらずだらしのない夫の劉邦にため息をつく。そんな日々を過ごしていった。


 



 


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