項伯
「王になるのか」
父が王になる。そのことが信じられなそうに寝ながら夜空を眺める劉肥は呟く。
「母さんを捨てるような人なのに、人に慕われ、王になる……」
不思議なことが起きている。息子である自分でもそう思うのである。
「そうだ。お前の父は王になる」
ふとそんな声が聞こえ、振り向いた瞬間、劉肥は飛び上がり剣を構えた。
「化物」
彼は己の伸びる影に向かって叫んだ。
「やれやれ、会う度に化物、化物と」
影から両手が伸び、地面に手を付くとそのまま勢いよく劉肥の影から現れたのは黄色い服を着た若い男であった。
「それしか言えないのかね」
男は首を鳴らしながらそう言う。
「うるさい、影から声を出し、影から現れ、更には以前よりも若くなっている。これが化物と言わずして何が化物か」
「ふむ、まあ良いだろう」
彼はそう言うとどこかへと去ろうとする。
「どこに行く?」
「悲劇の地へ」
そう言って男は消えていった。
「沛公、失礼致します」
ある男が劉邦の元にやって来た。
「おう、なんだ?」
劉邦は軽い調子で問うと男は鯫生と名乗り言った。
「秦(関中)の富は天下の十倍もあり、地形も強(優位。険要)です。最近、章邯が項羽に降ったため、項羽は章邯を雍王と号して関中の王にしたと聞いております。彼が来れば、沛公は恐らくこの地を有すことができなくなるでしょう。急いで兵を送って函谷関を守らせるべきです。諸侯の軍を中に入れてはなりません。同時に関中の兵を徐々に徴集して自分の勢力を拡大し、彼等を防いでは如何でしょうか?」
劉邦はこの計に納得して実行することにした。
退出した鯫生は一人ほくそ笑んだ。
「いいぞお。これでどうなるかねぇ」
駟鈞は笑った。
項羽は秦の地域を攻略しながら函谷関に来た。すると関門は閉鎖されており、兵が守っていた。この時、初めて劉邦が既に咸陽を破って関中を平定したと知った。
「なんだと」
項羽は激高した。
「沛公は一別働隊に過ぎず、こちらに報告もせずに防御を固めてこちらに敵意を向けたのは秦で得た富を我が物にして独占し、将軍を排除しようとしているのだろう」
范増がそう言うと項羽は頷き、英布らに函谷関を攻撃させ、関門を突破させた。
「劉邦は危険じゃ」
范増はそう呟いた。
范増の元には詳細な劉邦たちの情報が届いていた。それによれば、劉邦は王宮の宝や女に手を出さず、子嬰を生かして秦の民を慰撫し、法の整備を行っているという。
(一農民に過ぎない男が王として国をどう運営しようか本気で考え、実行している)
それは驚くべきことなのである。一農民であるにも関わらず、王を称してた陳勝は我欲を抑えられず、己のことしか考えなかったために失敗した。しかし、劉邦は違う。彼は我欲を抑えることができる。少なくともその振りができている。補佐の優秀さもあるだろうがそれだけでは無い。
(危険だ、劉邦は危険である)
関中に入った者を関中の王にする楚の懐王はそう約束したのだから劉邦が王として治めるための術を講じているのは問題ではない。それでも劉邦の行動は項羽にとっては危険である。
(項梁のためにも項羽を)
そう思っている范増は項羽を煽り、劉邦を討たせようとした。
十二月、項羽が関に入って戲の西まで進軍した。
劉邦は霸上に駐軍していたが、まだそのことを知らなかった。
「いやあ、思ったとおりの動きをしてくれるねぇ楚軍は」
楽しそうな駟鈞は次に劉邦の左司馬・曹無傷の元に出向いた。彼は項羽のことを伝えた。
「知っていますか。今、項羽がこちらに迫っていることを」
「何、あの項羽がか」
「ええ、そうです。しかも沛公に対して激高しています。沛公を殺すつもりなのでしょう」
曹無傷は驚き、冷や汗をかいた。
「そうなりますと我々も同じ道に行くことになりますねぇ」
「それは困る。それに沛公には恨みがある」
彼はそう言うと書簡をしたためた。彼は咸陽に入った時、略奪をもっとも率先してやっていた。しかし、劉邦は略奪したものを全て返すように命令を出したため、彼はしぶしぶ返した。
(全く、ろくでなしのくせに)
そう思った彼は密かに劉邦を憎んでいたのである。
「お前にこの書簡を渡す。項羽に渡せ」
「承知しました」
駟鈞は内心、笑いなが書簡を受け取ると項羽の元に届けた。
「沛公は関中で王になろうとしており、子嬰を宰相にして、珍宝をことごとく占有しています」
「沛公め」
項羽は激怒して、
「旦日(明朝)、士卒に充分な食事を採らせるように命ずる。沛公の軍を撃破するぞ」
と言った。
范増も頷き、
「沛公は山東にいた時は財貨に貪婪で美姫を好んだと聞くが、今、関に入ってからは財を取ることがなく、婦女を幸すこともないと聞いている。これは志が小さくないからだ。急いで撃つべきだ。時を失ってはならん」
(こちらに通じようとした者は凡愚であろうが、いい時に動いてくれた)
なんとしても劉邦を始末する。范増は強い意思を持って動こうとしていた。
そんな彼を冷めた目で見ていたのは陳平である。彼は軍議を終えると項伯に近づき言った。
「お伝えしたいことがあります」
「なんだ?」
「沛公の元に張子房がおります」
「張良殿がそれは誠か?」
項伯の驚き、陳平は頷いた。
「あなた様がたいへん親しくされていた方とお聞きしていましたので、お伝えしました」
「かたじけない。では、失礼する」
項伯は急いで馬を持って来るように配下に指示を出し始めた。それを見たあと、陳平は自分の陣に戻っていった。
「なんで俺じゃなかったんだ?」
雍歯がそう問いかけてきた。
「項伯殿が張良殿を連れてくるのであれば、それはそれで義理を果たしたことになり、張良殿が項羽のことを知っても劉邦に味方するのであっても情報を渡したという義理は果たせる。それだけのことです」
陳平の答えに雍歯は眉をひそめたが、その後は何も言わなかった。
項伯は夜の間に陣を抜けると馬を駆けに駆けさせ、沛公の軍営に至って、秘かに張良に会って事情を話した。そして、項伯は張良を一緒に逃げるよう誘った。
「沛公と共に死ぬ必要はない。張良殿、一緒に行きましょう」
しかし張良は首を振った。
「私は韓王のために沛公を送ってきたのです。今、沛公に危急があるのに逃亡してしまえば、それは不義となります。この事を伝えないわけにはいきません」
「しかし」
「項伯殿。沛公に対し不義を行う者をあなたは友と今後も呼んでくれますか?」
張良の言葉に項伯は目を細め、少し考えてため息をついた。
「狡い方だ」
「では、共に参ってくだされ」
二人は陣幕を出て、劉邦の元に向かった。
「張良殿。あなたが沛公の元にいるのは陳平に聞いたのだが、お知り合いなのですかな?」
「いいえ、存じ上げません。ただ、彼の才覚のみは知っております」
張良は項伯と共に劉邦の帷幕の前に至ると項伯に外に待っているように言って、中に入った。突然入ってきた張良に劉邦は驚いたが、それ以上に詳しく報告を聞き、もっと驚き飛び上がった。
「ど、どうするべきであろうか」
劉邦が声が震わす中、張良が逆に問うた。
「誰が沛公に関門を閉じることを進言なさったのでしょうか?」
張良はそのことについては聞かされておらず、聞いていれば反対していた。
「鯫生という男だ。彼が私に『関を塞いで諸侯を中に入れなければ秦地を全て治めることができる』と言ったから従ったのだ」
(鯫生……知らない名だ)
張良はそう思いながら言った。
「公の士卒が項羽に対抗できると思いますか?」
沛公は少し黙ってから首を振った。
「元々敵うはずがない。どうすればいい?」
(よし冷静だ)
ここで下手に対抗しようとすると危険である。
「今、外に項伯殿がいます。彼を呼んでもよろしいでしょうか?
「一つ良いか。なぜその者がいるのか?」
当然の疑問である。項伯は項羽の叔父なのである。
「項伯殿はかつて人を殺しましたが、私が助けて匿いました。今、事が大きく動いている中、幸いにも彼が私に知らせに来てくれたのです」
「ほう」
劉邦は頷いた。そのため張良は項伯を中に入れた。そして、入ってきた項伯をじっと見つめた。入ってみていきなりじっと見つめられたため、項伯は驚く中、劉邦はただただ彼を見つめた。
(張良殿と友人、その友人のために単身、ここまで来たのか)
彼は項伯の行動に感動した。
(友人のために危険を惜しまず来るとは、なんという男だ)
劉邦は張良の方を見て言った。
「あなたと較べてどちらが年少でどちらが年長だろうか?」
「彼が私より年長です」
「おお、そうであったか」
劉邦はとびっきりの笑顔を見せ、劉邦は巵(杯)を持って項伯を座るように促すと、彼の寿を祝い、更には婚姻の約束まで持ち出した。
そこに至るまで凄まじいほどの速さで話についていけない項伯は唖然としていた。劉邦は言った。
「私は入関してからわずかな物(秋毫)も身の回りに近づけようとはしなかった。吏民の籍を記録し、府庫を封鎖して将軍(項羽)を待っていたのです。将を送って関を守らせましたのは、他の盗賊が出入りしたり非常事態が起きた時の備えとするためでした。日夜、将軍の到着を望んでおり、どうして背くことがあるでしょうか。あなたから私が徳に裏切るつもりはないことを詳しく説明していただけないでしょうか?」
「承知しました。しかしながら旦日(明朝)の早い時間に沛公自ら謝りに来る必要があります」
「わかりました。従います。ではお願いいたします」
劉邦は頭を下げた。
(これほど丁寧な人であったのか)
項伯は驚き、感心した。
「では、私はこれで」
項伯は夜の間に楚の軍中に戻っていった。
「さて、張良殿。大変なことになったが……」
「ええ、私も参ります」
「すまない」
劉邦は頭を下げると陣幕を出て周囲を見回し言った。
「樊噲、紀信、灌嬰来い」
三人は呼ばれて慌てて駆けつけた。そして、灌嬰は直立不動で敬礼をすると言った。
「どのような御用でありますか?」
灌嬰はそう聞いた。彼は元は梁の睢陽の絹商人であったという特殊な経歴を持っており、碭で仕えた男である。劉邦の配下の中でもっとも騎兵運用に長けている。
「ちょっくら項羽に詫びを入れることになった。護衛として従え」
「あ、兄貴、侘びなんて入れることはありませんぜ」
樊噲がそう言うと張良が口を開いた。
「沛公は兵たちやここにいる秦の民たちを危難に巻き込まれないようにするために頭を下げに行くのです。戦うことは簡単ですが、多くの者の命を守ることを沛公は優先されているのです。そのために自ら苦難に飛び込もうとしているのです。この男気がわからないのでしょうか?」
「沛公の寛容なお心、自分深く感動しております。この灌嬰、己の命をかけましても沛公のお命をお守りいたします」
「俺も気楽に守るぜぇ」
灌嬰は敬礼の体制から涙を流しながらそう言い、紀信も頷く。
「沛公の思い、しかと知りました。俺も命をかけて守りますぜ」
「おう、頼むぜ」
劉邦は樊噲の肩を叩く。すると蕭何がなんの騒ぎだと目の下に隈を作りながらやって来た。
「おお、よく来てくれた蕭何殿」
「なんだ、騒々しい」
劉邦は蕭何の両肩に手を置くと言った。
「項羽に詫びを入れることになった。ちょっくら手土産になるもん。見繕ってくれ」
「はあ?」
蕭何が目を点にしていると劉邦は次に曹参、周勃を呼んだ。
「なんでしょうか沛公?」
「おお、ちょっくら項羽に侘びを入れることなった。その間に話をややこしくなった鯫生というやつ見つけ次第、殺せ。あと俺がいなくなった後、混乱が起きるようだったら、鎮圧しろいいな」
「承知」
劉邦はさっさと歩き出す。
「謝罪のコツってなんだと思う張良殿?」
「存じ上げません」
張良がそういうと劉邦は笑いながら言った。
「速ささ」
劉邦は用意された馬に乗ると一気にかけていった。
蕭何「ええ、事務処理を手伝ってください」
張良「すいません、沛公が私を離してくれなくて手伝えません」
陸賈「ごめん、経理とかわかんないからパス」
曹参「軍の管理があるので、パスで」
酈食其「わし酒飲むので忙しいからパス」
蕭何「くそおぉ」
隈ができている原因。




