阬殺
項羽が動いてくれません。どうすれば良いのでしょうか?
項羽は河北を平定してから諸侯の兵を率いて西の関中に向い、新安に至った。
諸侯の兵の中にはかつて繇使(徭役)や屯戍(守備兵)として秦中(関中)に行ったことがある者も多くおり、その時、秦中の兵は多くが無礼な態度で諸侯の吏卒を遇した。
章邯が秦軍を率いて諸侯に降ってから、諸侯の多くの兵は勝ちに乗じて秦兵を奴虜(奴隷や捕虜)のように扱い、秦の兵をしばしば辱しめるようになった。更には食料なども渡そうとしなかった。
なぜ渡さないのかと秦の兵たちが抗議をすると諸侯の兵は食料が少ないためとした。
怨みを積もらせた秦の兵たちは陰で話し合うようになった。
「章将軍らは我々を騙して諸侯に降った。今から関に入って秦を破ることができたら大善であるが、もしできなかったら諸侯は我々を虜(捕虜)として東に連れて行くだろう。秦は我々の父母や妻子を全て誅殺するだろう。どうすれば良いものか」
秦の吏卒が相談していた内容は諸将の耳に入った。入ったというよりはそのように仕向けた者がいるのかもしれない。ともかく諸将から項羽に告げられた。
項羽は英布と蒲将軍を招き、
「秦の吏卒はまだ大勢おり、その心は服していない。関に至ってから命令を聞かなくなれば、事が危うくなるだろう。彼等を撃殺するべきだ。章邯、司馬欣、董翳だけを残して秦に入ろうではないか」
楚軍は夜の間に秦兵を襲撃し、二十余万人を新安城南に阬(生埋め)した。
これは項羽の独断で決められ、范増には相談されなかった。
「全く困った男だ……」
范増としては秦の兵卒の扱いには確かに頭を悩ましていたが、それにしても項羽の判断は早急すぎるように思えた。
「相談してもらいたかったがのう」
「亜父は反対ですか?」
「いや……」
項羽の言葉に言いよどんだ後、ふと范増は項羽の陣幕に置かれた木簡を見つけた。
「これは……」
范増はそれを手に取るとそこには秦兵たちへ食料を平等に分け与えるようにするという旨とそれにおける方法の提示がされていた。細かい計算に基づくものであり、説得力があった。また、次善の提案として諸侯の兵を一旦、解散させることも書かれていた。
「この木簡はいつのものだ?」
「昨日、提出されたものだ。話にならん」
項羽の吐き捨てるように言った。
「食料を平等に分け与えろと申しているが、食料の余裕が無いのは亜父もご存知でしょう」
范増はその言葉を聞いて、頷いた。
「それにその木簡を提出したやつは以前、食料を横流しをしている者がいる|と申しておきながら未だに捕まえることさえできていない無能です。そんなやつの提案など取り上げる必要があるでしょうか?」
項羽はこういうところがあり、他者の失敗を結構の割合で責める。しかしその割には身内には甘い。
(困ったものだ)
范増はそう思いながら。木簡の提出者の名の欄に書かれていた陳平の名を見た。
「お主の木簡であると聞いたため、持ってきた」
范増は陳平の元に木簡を持ってきた。
「わざわざ持ってきて下さり感謝致します」
陳平は感謝の言葉を述べつつもその声には冷えたものがあった。
「将軍はこれを見ておいでであったが、採用はされなかった。採用されておれば多くの者が死なずに済んだかもしれんが……実際問題、食料の問題はあったのは事実だ。汝のを採用してもぎりぎりであったことは確かであっただろう」
「取り上げるか。取り上げないかは将軍次第であり、私はただ策を述べるのみですので、お気になさらず」
「そうか……では、私はこれで」
范増が去ると陳平はさっと自分の陣幕に戻った。そして、机の前に座った。わなわなと手に持っている木簡を震わせ、彼は木簡を引きちぎり、机に叩きつけた。
無表情で叩きつけられている木簡をしばし見て、陳平は右の拳を木簡に向かって振り下ろした。何度も振り下ろし、拳の皮は剥がれ血が流れていく。
「おいおい、何しているだあんた」
その様子に驚いて陣幕に入ってきたのは雍歯である。
なぜ、彼がこんなところにいるのかを説明しなければならない。
雍歯は豊城から脱出して魏に逃れた。しかし、魏は章邯によって破れたため、彼もまた逃走した。そして流れに流れて項梁の一兵士として紛れた。そんな時、彼は突然捕まった。捕まえたのは韓王・成と共に韓の地へ向かおうとしていた張良である。
『あなたが雍歯殿ですね』
『そうだとしたらなんだって言うんだ』
恐怖を抑えながら雍歯はそう言った。
『怖がらないで下さい』
張良はにっこりと笑いながら囁いた。
『私は沛公からあなたを裏切らせた人物について知りたいのです』
裏の社会で生きていたことのある張良の凄みに雍歯は唾を飲んだ。
『言わなかったらどうする?』
『私は沛公に大変、信頼されておりますので……あなたの身柄を……ね』
『わかった。俺を沛公から裏切らせたのは陳平って言うやつだ。言っとくがな。俺は決して沛公を裏切ったことを後悔なんざしてねぇからな』
雍歯は喚くが張良は特に気にすることはなく、少し考え込み、
『その陳平という人はまだ魏王の元に?』
と言った。
『いや、俺が魏にいた時にはいなくなっていたぜ』
『そうですか……少し調べるとしますか』
『おい、この縄解けよなあ。おい』
縄に縛られたまま数日後、張良は雍歯の元に来た。
『陳平殿は今、楚軍の中にいるそうです。接触してこの書簡を渡しては頂けないでしょうか。その後に私の元へ戻ってください』
『なんで、俺が』
『身柄を渡してもいいんですよ?』
にっこりと笑う張良に雍歯は舌打ちし、書簡を持って陳平の元を訪れた。
『沛公に与する者の振り分けを……一定数のみを……ふむ、なるほど……そうではあるが……』
陳平は雍歯から書簡を受け取ると彼をちらりと見て、頷いた。張良の書簡の内容を了承したのである。
こうして彼は張良と陳平の密かな橋渡しを行うことになったのである。その後、張良が劉邦と合流したため、雍歯は陳平の元に来ていた。
「おい、あんた何やってるんだ。拳からとんでもない量の血が出てるぞ」
雍歯の言葉に陳平は言った。
「今日、この地で失われた命の量に比べれば、微々たるものです」
陳平は無表情であるが、その目に憤怒が見えた。それに雍歯は驚き、後ずさった。
その様子を見て、陳平は僅かに冷静さを取り戻す。
(何をそんなに怒っているのだ私は……)
秦軍が皆殺しにすることで食料問題は解決し、軍内での混乱がこれ以上起きるのを防いだということでは項羽の判断を間違ってはいない。
(項羽が一番、天下に安寧をもたらす力を持っているのだ。その項羽に対してこれ以上、怒りの感情を持つことは安寧に導く上では障害になる)
陳平は迅速にこの天下の動乱を沈めたい。天下の動乱を沈めるために力がいる。そして、その力を天下で有しているのは項羽だ。
(だが、二十余万人を阬殺するような男が天下の安寧など築けるものか……)
だとすれば次に安寧を築くことができる者と言えば……
「一つ聞きたいことがあります」
「なんだ?」
「これは張良殿が仕組んだことですか?」
「いや、違うと思うぞ。少なくとも俺はそんな指示を受けちゃいねぇ。それに俺がそんな器用な立ち回りできると思うか?」
雍歯の言葉に陳平は考え込む。
「あなた以外の者の可能性は?」
「可能性はあるが、張良の旦那は自分の配下を動かす時は俺にも伝えてきたり、接触させてきたりしていた。まあ、俺に接触しないように指示を出しているなら別だがな?」
「なるほど……」
(ならば誰だ?)
食料を横流し、秦軍と諸侯の兵の間を煽った者がいる。陳平はそう考えていた。
「あ~危なかったぜ」
そう呟いたのは駟鈞である。
彼は趙軍の元になんやかんやで居つていたが、章邯との戦いで項羽に同行するための軍に参加していた。そこで数人の手下を作り、食料の横流しを行っていた。
「食料の横流しはいい金になったもんだから結構、頻繁にやっていたが、あの陳平というやつにバレそうになったのは甘かったものだ」
駟鈞はからからと笑った。
「しかし、上手くいったなあ。逃れるために秦軍の連中と諸侯の兵の連中を煽ったかいがあったものだ」
彼は陳平の捜索から逃れるために秦軍の名簿を改ざんし、秦軍と諸侯の間を煽り、秦軍との諍いを起こさせてその隙に逃れようとしていた。
「まさかこんな皆殺しをするなんて思ってもいなかったが、いやあ楽しいもんを見れた」
駟鈞が笑っていると手下の一人が言った。
「そういやあ聞きやしたか。あの盗跖が死んだって噂」
「本当かよ。はは、あの盗跖が」
(あの爺さんかな)
ふとあの時会った旃の姿を思い浮かべた。
(おっかねぇ爺さんだ)
彼は苦笑する。
「しかしまあ、本当に楽しくなってきたなあ。おい」
噂によれば、秦は劉邦という男に攻め込まれて滅んだというではないか。
「本当に、ああ本当に楽しくなってきた」
更に世界は混乱するだろう。その混乱に自分は関わることができるかもしれない。
「もっと楽しくしなければなあ」
駟鈞は呟いた。そして手下たちを見て、
「さて、おめぇら関中に行くぜ」
「なぜ、ですか?」
「決まってんだろう。もっと楽しくするためさ」
駟鈞は笑った。
劉邦VS項羽 張良VS范増 陳平VS駟鈞 呂雉VS薄姫
それぞれのライバル関係。薄姫の場合は呂雉の疑いの目をどう回避するかという勝負という点が変わっている。




