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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び

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秦の滅亡

 趙高ちょうこうを始末した秦王・子嬰しえいは将兵を派遣して嶢関を塞がせた。


 既に接近していた劉邦りゅうほうは守りを固められている嶢関を攻撃しようとしたが、張良ちょうりょうが諫めた。


「秦兵はまだ強いため、軽視してはなりません。まず人を送って山上の旗幟を増やし、疑兵にしてください。それから酈食其れきいき陸賈りくかを送って秦将を説き、利によって勧誘しましょう」


 劉邦は納得して秦将を誘いをかけた。秦将は連和を望むと返答を送ってきた。


「よしこれで講和だ」


 すると張良が止めた。


「これは将が叛したいと思っているだけであり、恐らくは士卒は従ってはいません。懈怠(敵の油断)に乗じて撃つべきです」


「それは……」


 劉邦は一瞬言いよどんでから頷いた。


「わかった」


 劉邦は兵を率いて嶢関を迂回し、蕢山を越えて秦軍を撃ち、藍田南で秦軍を大破した。


「張良殿ってこういう人なんだね」


 陸賈は張良を横目にそう言った。確かに陸賈としては面白くはない。自分が説得して降らせたからである。一方、酈食其は文句を言わなかった。この辺は若さの差が出てる。


「ええ、そうです。だからこそあなたは私のようになってはいけませんよ」


 その言葉に陸賈は頬を膨らませる。


「子供扱いして~」


「子供じゃろうが」


 酈食其は酒を飲みながら笑った。


 その後、劉邦の軍は藍田に至り、藍田北でまた戦って秦軍に大勝した。


 そして、年が明けて、


 紀元前206年


 劉邦は霸上に至った。


「さて、陸賈。投稿を呼べかけてくれ」


「はい、承知、承知」


 劉邦は秦の都城に陸賈らを送り、投降を呼びかけた。


「もはやここまでということでしょうか」


 子嬰はせんに言った。


「ええ、左様でございますね」


 子嬰は虚空を眺めつぶやいた。


「滅びるというのはこういうことなのですね」


 旋は目を下に向けた。


「沛公に下るとしましょう」


「ご英断でございます」


 子嬰は素車(装飾がない白い車)に乗り、白馬に車を牽かせ、首に組(印綬。印の紐)をかけ、皇帝の璽、符、節を持って、軹道(地名)の横で劉邦に降った。


 素車と白馬は喪人の様相で、組(綬)を首にかけたのは自殺を欲しているという意味がある。


 子嬰が献上した璽は始皇帝から二世皇帝・胡亥こがいを経て子嬰に伝えられたもので、


「受天之命,皇帝壽(寿)昌」


 と刻まれていたとしている。また、天子には六璽(皇帝行璽、皇帝之璽、皇帝信璽、天子行璽、天子之璽、天子信璽)があったという説と、これら六璽以外に伝国の璽(子嬰が劉邦に献上した璽)が存在し、全部で七璽だったという説がある。


「兄貴に秦王が頭を下げてやがる」


 夏侯嬰かこうえいを始め、劉邦と共にここまで来た者たちは涙ぐんだ。


 その後、秦王をどうするのかについて樊噲はんかいを始め、諸将は秦王を殺すように求めた。


 しかし劉邦は、


懐王かいおうが私を派遣したのは、私が寬容に対処できると判断したからだ。そもそも人が既に降ったにも関わらず、殺してしまっては不祥となる」


 劉邦は子嬰を官吏に渡して監守させた。


 こうして秦は滅亡した。天下を統一してわずか十六年後の事である。


 漢代において、秦がなぜ滅んだのかという議論が行われた漢王朝も同じようにならないようにということである。その中で賈誼かぎが『過秦論』でこのように述べている。


「秦は区区とした(わずかな)地から万乗の権に発展し、八州(豫、兗、青、揚、荊、幽、冀、并州。秦の雍州を併せたら九州)を制圧し、同列の王を朝見させた。その後、百有余年を経て六合(天下の総称。天、地、東、西、南、北)を家とし、殽、函を宮にすることができた。ところが一夫が難を為しただけで七廟が破壊され、その身は人の手に殺されて天下の笑い者になった。それはなぜか。それは攻勢の時は仁義を施さなくても通用したが、天下を統一して国を守る時になっても仁義を施さなかったために滅亡したからである」


 儒教色の強い内容であるが、この『過秦論』は細かく秦が滅んだ理由について述べていることから貴重である。


 劉邦は西に進んで秦都・咸陽に入った。


 諸将が皆争って金帛財物が保管されてる府庫に走り、財物を分け始めた。そんな中、蕭何しょうかだけは秦の丞相府に入って図籍を集め、全て保管した。そのおかげで劉邦は天下の阨塞(山川要塞)や戸口の数、強弱(財力や物資等)の分布をことごとく把握できることになる。


 劉邦も秦の宮室や帷帳、狗(犬)馬、重宝および千人を数える婦女(宮女)を見て、秦の宮殿に留まろうとし、遊び始めた。化けの皮がはがれたと言ってもいいだろう。


 すると樊噲と張良がやってきて、樊噲が諫めた。


「沛公は天下を有しようと思っておられるのか。それとも富家の翁になろうとしているのか。これら奢麗の物は全て秦に滅亡を招いたものですよ。沛公は何に使おうというのか。急いで霸上に帰りましょう。宮中に留まってはなりませんぞ」


 この言葉を受けて劉邦は意外そうに彼を見つめた。


 いつも頭の悪いやつだと思っている彼からの意外な言葉に劉邦は、


(こいつにこのような言葉が言えるとは)


 と思った。そのため張良の方を見た。彼は首を振って言った。


「秦が無道であったために沛公はここに至ることができたのです。天下のために害を除く時は、喪に服して民を悼む時と同じ態度でなければなりません。今、秦に入ったばかりにも関わらず、歓楽に浸って満足してしまっては、『暴君・けつを助けて残虐を行う』ということになってしまいます。それに、忠言とは耳に痛くても行動すれば利があるものなのです。毒薬(強い薬という意味)とは口に苦くても病に対しては利があるものです。沛公が樊噲の言を聞くことを願います」


 樊噲の言葉に既に心動かされていたこともあり、劉邦は同意して、軍を還して霸上に駐留することにした。


『資治通鑑』の胡三省こさんしょうの注において、この時の樊噲をこう評している。


「樊噲は狗屠(犬の屠殺業者)から身を起こした男であったが、このようば見識があった。樊噲の功は秦宮に留まろうとした沛公を諫めた事が最上であり、鴻門の会で項羽を譴責したのは次である」


 十一月、劉邦は関中諸県の父老、豪傑を全て招いて言った。


「父老が秦の苛法(苛酷な法律)に苦しんで久しくなる。政府を誹謗した者は族滅され、偶語(耦語。議論すること。ここでは諸子の学説について討論すること)した者は弃市(棄市。市中で処刑を行うこと)に処された。私は諸侯との間で先に関に入った者が王になるという約束をしている。よって私が関中の王となるだろう。そこで私は父老と約束しよう。法は三章のみとする。人を殺した者は死に、人を傷つけたり盗みをはたらいた者は軽重によって罪を定める。それ以外は全ての秦法を廃止する(秦が定めた誹謗や偶語に対する刑および連座の制度等がなくなるという意味で全部というわけではない)。諸吏民は皆、今まで通り安堵し、この地から離れる必要はない。私がここに来たのは、父老(「父兄」)のために害を除くことが目的であり、侵暴を行うためではないのだ。恐れる必要はない。私が軍を霸上に還すのは、諸侯の到着を待って約束を定めるためである」


 劉邦は陸賈を派遣して秦吏と一緒に県、郷、邑をまわらせ、告諭を行わせた。虐げられていた儒者が回った方がいいだろうということで彼が採用された。


 劉邦の言葉を聞いた秦民は大喜びし、争って牛羊や酒を持って軍士に献上した。しかし劉邦は全て拒否して、


「倉の粟(食糧)が多いため、欠乏している物はない。民の物資を費やすつもりはない」


 と言った。


 民衆はますます喜び、劉邦が秦王になることを強く望んだ。


 劉邦は着々と王になった後のことを考え行動していた。しかし、彼の最大の苦難が近づこうとしていた。



第一部完


次回、第二部 「楚漢戦争」

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