宋義
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紀元前207年
関中へ向かうことになった劉邦は碭を通って陽城(または「成陽」)と杠里に至り、秦の営塁を攻撃した。そこで秦の二軍を破り、続けて秦の東郡尉を成武で破った。
その後、栗に至り、剛武侯に遇った。楚から援軍として来たというため、劉邦は彼を歓迎した。その夜、剛武侯は劉邦の軍に夜襲をかけたため、逆に劉邦は剛武侯を返り討ちにし、彼の軍・。四千余人を奪って吸収した。
「やれやれ、油断もへったくれもないな」
劉邦は縄に繋がられえいる剛武侯を見た。
「それでてめぇを送り込んだ雇い主はどいつだ?」
「言わぬ」
「そうかい、その男気に免じて」
劉邦は剣で彼の首を飛ばした。
「死なせてやるよ」
剣を治めると彼は蕭何を見た。
「誰だと思う?」
「項羽とかはどうだ?」
「あれがこんなことをするとはな思わんな。それよりも范増のじいさんあたりじゃないか?」
劉邦はその後、魏将・皇欣、武満の軍と連合して秦軍を攻め、破った。
その頃、斉の将・田都が田栄の指示に背き、楚を助けて趙を救いに行き、趙を救援するために向かっていた楚の宋義が軍に安陽で合流した。
彼は田都を歓迎し、四十六日に渡って行軍を止めた。
「どういうつもりか」
項羽は憤りを顕にした。趙を助けるために来たというのに、ここで立ち止まってどうするつもりなのか。
彼は宋義の元に向かうと言った。
「秦軍が趙王を鉅鹿で包囲しており、趙王が危急を告げていると聞いた。急いで兵を率いて河を渡り、楚が外から撃ち、趙が内応なさるべきだ。そうすれば必ずや秦軍を破ることができましょう」
しかしながら宋義は鼻で笑い、
「それは違う。牛を刺す蝱を撃つ時、蟣蝨を殺してはならないものである」
蝱は秦、蟣蝨は章邯を喩えで、大物を倒す際、小物に対して全力を尽くす必要はないという意味である。
「今、秦は趙を攻めており、戦に勝利したとしても兵は疲労する。そこで我々はその疲弊に乗じれば良い。もし秦が勝利できなければ、我々は兵を率いて戦鼓を敲き、西に向かえばいい。こうすれば必ず秦を占領できる。故に、まずは秦と趙を戦わせるべきなのだ。甲冑を身に着けて武器を持って戦うことにおいては、私は汝に及ばない。しかし坐して策を練ることにおいては、汝は私に及ばない」
偉そうなその言葉に項羽は睨みつけつつも、自制心が働き退いた。しかし、一方の宋義は項羽の態度に不満を持った。そして、軍中にこう命じた。
「虎のように猛(勇猛)であり、羊のように狠(凶悪。羊は草を食べ始めると食べ尽くすまで止まらないため、「狠」とされた)であり、狼のように貪(貪婪)であり、剛情なうえ指示を聞かない者は全て斬る」
明らかに項羽のことを念頭においた言葉であると言える。宋義ははっきり言えば、大人げないと言えなくはない。しかしながら項羽の性質に関しては的を射ている。
宋義は子の宋襄を斉の宰相にするため、斉に派遣することにした。自ら無塩まで送って盛大な酒宴を開くというものであった。
しかしながら当時、大寒波に襲われており、大雨も降り、士卒は飢え凍えていた。
「この惨状を作ったのは宋義だ」
もはや我慢の限界とばかりに項羽は早朝、自らの配下、范増の前で述べた。
「諸君、力を合わせて秦を攻めようとしている時にも関わらず、宋儀は久しく留まって進もうとしない。今年は飢饉のため民が貧しく、士卒は半菽(野菜の半分に豆を混ぜた食事)を食べ、軍中には食糧がない。それにも関わらず、宋義は飲酒高会(盛大な酒宴)を開いている。兵を率いて河を渡ろうとせず、趙で食糧を得てから力を合わせて秦を攻めようともしない。『疲弊に乗じる』と申しているが、強大な秦が新造(新興)の趙を攻めれば、趙を攻略するのは明らかである。趙が占領されて秦がますます強くなれば、どうして疲弊に乗じることができようか。そもそも国兵(楚の兵)は破れたばかりであり、楚王は安心して座ってもいられない。故に境内の兵力を全て集めて将軍に専属させているのである。国家の安危はこの一挙にかかってる。それにも関わらず、今や宋義は士卒を慈しまず、私事(自分の子を斉の宰相にすること)に力を入れている。彼は社稷の臣とは言えないとは思わないか」
「そうだ、その通りだ」
楚の諸将は項羽を支持した。その支持の姿を見て項羽は頷いた。
「では、皆の者。宋義への弾劾条を作成するため、一筆頂きたい」
范増がそういうのを横目で項羽はさっとその場を離れた。それに気づいたのは陳平ただひとりであったが、彼は何も言わなかった。
項羽は宋義の元に出向いた。またかとばかりに項羽を見た宋義であったが、その瞬間、彼の首が飛んだ。
唖然とする周囲に対し、彼は宋義の首を掲げ、すぐ軍中に命令を出した。
「宋義は斉と謀り、楚に背こうとした。楚王が秘かに私に命じて誅させたのである」
諸将は皆、項羽に畏服していたため、異議を唱える者はいなかった。
「初めに楚を立てられましたのは、将軍の家です。今、将軍が乱を誅しました」
こうして項羽が假上将軍に立てられた。「假」というのは懐王の正式な命がないための仮という意味である。
「あまり良いことではない」
范増はそう呟いた。項羽の行動があまりにも強引過ぎるためである。一方、陳平は項羽の行為に関して、支持していた。
「宋義のままでは迅速な対応ができない」
范増と陳平には手段の用い方で違いがある。
続けて項羽は人を送って宋義の子・宋襄を追わせ、斉に入って殺害させた。因みにこの時、宋襄の子・宋儀の孫である宋昌は逃れることができた。彼は後に劉邦の元に逃れ、漢の文帝を補佐する人物となる。
宋襄を殺した項羽は桓楚を派遣して懐王に報告し、正式な任命を請うた。
「経緯はよく理解した。しかし、宋義を斬るという行為はどうなのか」
今回、宋義の起用が間違いであったことは理解できた。しかしながら自分の上官を殺害し、全軍の指揮権を寄越せとはどういうつもりなのか。
懐王が憤りを示していると叔孫通が宥めた。彼は二世皇帝・胡亥の世が続かないと思い、懐王の元に逃れていたのである。
「今は秦打倒が先決です。許すべきです」
下手にここで項羽を処罰しようとすれば、楚自体が真っ二つに別れかねない。
「その通りである」
懐王は項羽を上将軍にし、当陽君・英布や蒲将軍も皆、項羽に属させた。
「いくぞ、趙を救援する」
項羽の号令に楚軍は答え、進軍を開始した。項羽の名を不朽のものとし、伝説の戦が始まろうとしていた。




