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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
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鉄槌が飛ぶ

 始皇帝しこうていを暗殺しようとした者でもっとも有名と言って良いのは荊軻けいかであろう。彼が有名なのは彼の矜持と司馬遷しばせんの文才によるものである。また、彼の暗殺の失敗が不運が混じったことも理由の一つである。


 後世の人間は不運な人を好む人が多い。


 その他にも始皇帝を暗殺しようとした者がいた。その一人が荊軻の友人でもあった高漸離である。


 秦は燕を占領した後、太子・たんと荊軻の門客を追放したため、門客は皆逃亡した。その中の一人であった高漸離は姓名を変えて庸保(酒屋の店員)になり、宋子(地名)に隠れた。


 長い間、庸保として苦労してきたが、ある日、酒家の堂上で客が筑を演奏しているのを聞いた。高漸離はその周りを行ったり来たりして離れられようとせず、高漸離がしばしばこう評価した。


「彼の演奏には善いところもあるが善くないところもある」


 酒屋の従者が主人に伝えた。


「あの庸人は音楽を理解しており、秘かに是非を評価しております」


 そこで家の丈人(老人。主人)が高漸離を招いて筑を演奏させた。その結果、一堂の者が称賛して酒を進めていった。


 高漸離は久しく姓名を隠して人に拘束されていたが、このまま恐れを抱いて生き続けてもきりがないと考え、いったん退席して匣(箱)にしまっていた筑と善衣を取り出した。


 容貌を改めた高漸離が再び姿を現すと、堂上にいた人が皆驚き、席を下りて対等の礼で迎え入れた。こうして高漸離は上客となり、筑を演奏して歌を歌うと感動した客達は涙を流して帰っていった。そして、周囲にこのことを広めた結果、噂を聞いた宋子の人々が次々に高漸離を客として招いた。


 やがて始皇帝もそれを知るようになった。


 興味を持った始皇帝が高漸離を召すと、たまたま高漸離を知っている者がいた。その者が高漸離の素性が明かした。


 始皇帝は筑の才能を惜しんで命を助けたが、元々人間不信の塊のような彼は高漸離を矐(馬糞を燻した煙で目をつぶすこと)によって盲目にした。


(これが始皇帝のやり方か)


 音楽を愛する高漸離は友人であった荊軻がこの者に殺されたのだと改めて思った。


 彼が筑を演奏する度に、始皇帝は称賛して近くに置いた。


 そこで高漸離は鉛を筑の中に隠し、始皇帝に招かれた機会を利用して、筑を持ち上げて殴りつけた。しかし筑は外れてしまった。


 激怒した始皇帝は高漸離を誅殺し、六国の諸侯に仕えていた者を二度と近づけなくなったという。


 このように始皇帝の暗殺を企てた者たちは尽く殺されており、裏の社会に生きる者たちは、


「始皇帝を暗殺しようとした者は生きて帰ってこない」


 とささやきあった。









 そんな中、始皇帝暗殺を企んでいた者がいた。


 その者の容貌は婦女の如しと言われた。しかしながら彼の胸裡に宿りし、秦への憎悪という名の業火はぎらついていた。


 この男の名は張良ちょうりょう、字は子房しぼうという。


 韓の貴族であった人物であり、彼の祖父、父は韓の宰相を務めたことがあった。どちらも秦との戦いで戦死し、弟も死んだ。その際に弟の葬儀を行うことはできず、残された財産全てを使って長年、始皇帝を暗殺するための手段を探していた。


(秦を滅ぼす)


 全てはそれだけのためである。その容貌に似合わない情熱に心打たれた一人が淮陽の倉海君そうかいくんである。彼は海神、東夷の君長、賢者の名等の説があるが恐らく裏の社会で一勢力をまとめる存在であっただろう。


 彼は張良の志に惹かれたが、


(もっと若ければ……)


 老いた自分では力になれないと思った。そこで彼は張良にある力士を紹介した。その力士の名は後世には伝えられていない。だが、相当な大男であり、怪力の持ち主であったことだろう。


「あなたにはこれを使って、始皇帝を暗殺してもらいたい」


 張良が力士に差し出したのは重さ百二十斤の鉄椎であった。


「これを巡遊中の始皇帝の車に投げつけ、殺すのだ」


 怪力の持ち主にしかできない突飛な暗殺方法であった。


「あとはいつ始皇帝が巡遊に出るかだ」


 張良はそう呟いた。










 紀元前218年


 張良が待ち望んだ好機は早くも来た。


 始皇帝が巡遊を始めたのである。その巡遊において警護を行うことになったのは、章邯しょうかんであった。彼は秦の英雄の一人である王翦おうせんの元で副官を努め、功績を立ててきたため、大将の一人となっていた。


 その彼自ら警護を行うのだから通常よりも異様と言えた。


 その理由はなんだろうか?


 その理由の一つにこの巡遊に珍しい人が同行している。せんである。始皇帝の友人というべき彼は今回、彼は始皇帝に妻子を連れて同行するように言われていた。


 旃の妻は始皇帝が紹介した女性である。その間に生まれたのは息子が一人、娘が一人である。息子の方は既に秦の役人を努めていたが、病にかかっていたため咸陽に留まった。娘の方はまだ幼少であった。しかしながら玉のような可愛い子であるためか旃は深く娘を愛した。


 始皇帝は旃と妻子に副車(属車。後ろに従う車)に乗るように言った。それはならないと旃は言ったが始皇帝は聞かず、彼らを乗させた。











「ついに来た」


 始皇帝が巡遊を行うという。その知らせに張良は志を果たす時であると思い、力士らと共に巡遊の経路を予想することにした。何せ、始皇帝の巡遊の経路は極秘とされている。知ることは容易ではない。


「始皇帝は陽武県の博浪沙を通る」


 しかしながら張良はそう断言した。


(なぜ、断言できるのだろうか?)


 力士たちはそう思わないでもなかったが、


(身分の低い我らにこのような働きを与えてくださった方だ)


 という思いがそのような疑問を無くさせた。


「ここで実行する。良いな」


「応」


 彼らは博浪沙に潜み、始皇帝一行が来るのを待った。しかし中々来ない。じれ始めると影が見えた。


(来た)


 始皇帝一行である。


「あそこに見える黒い車がそうだ」


 張良は力士に黒い車を指さした。


「その前の豪華な車ではないのですか?」


 その前に豪華な飾りが付けられた車がある。


「始皇帝は用心深い。彼が暗殺を恐れて、わざとあのような車ではない車に乗っているのだ」


「なるほど」


 張良の言葉に力士は頷いた。更に幸運なことが起こった。始皇帝一行が停止したのである。


「これで狙い安くなりました」


「ああ、準備はできているか?」


「はい」


 力士はそう言うと張良は彼から離れる。それを見てから力士は鉄槌を振り回し、勢いを増しさせて黒い車に向かって放った。











「ここら辺で休憩しよう」


 始皇帝は殺風景な博浪沙に至ったところでそう言った。


「わかりました。章邯将軍に移動を止めるよう指示を出すように」


 近くに控えている趙高ちょうこうが兵に伝えると兵を伝って、章邯に伝わり、移動を止めた。


「なぜ、このようなところで?」


 疑問に思った旃は車の窓にあたる場所を開け、たまたま近くにいた章邯に言った。


「なぜ止めたのですか?」


「陛下が休憩をしたいと申されたのです」


 そう答えた章邯を見て、胸騒ぎを覚えた旃は、


「このような場所でなくとも休憩はできましょう。ここではなく別の場所で休憩をするべきです」


 私がそう言っていたと旃は始皇帝に伝えるように言った。


「わかりました。兵に伝えさせましょう」


「いいえ、章邯将軍。自らお伺いし、傍で警護なさるべきです」


 止まらない胸騒ぎが彼にそう言わせた。


(この人が今まで陛下を守ってきた)


 数々の暗殺の手から守ってきたのはこの人である。そう思っている章邯は彼の言葉に頷き、始皇帝の馬車に向かうことにした。


 そして、離れた時、旃は窓を閉じた。その瞬間、鉄槌が彼の乗る副車に激突した。


 恐ろしい轟音が鳴り響いた。


「旃殿のところに鉄槌が」


 始皇帝の元に向かっていた章邯は驚き、少し呆然としたが、気を取り直して叫んだ。


「敵襲、敵襲。兵たちよ、警戒せよ」


(旃殿は無事であろうか?)


 ふとそのことが脳裏に過ぎったが、


(陛下の御身が優先される)


 そう思い、彼は始皇帝の元に急いだ。


「何事か」


 李斯りしが叫んだ。


「敵襲でございます。すぐに準備を」


「それは大変、大変ですぞ。陛下、陛下ぁ」


 趙高が始皇帝の車の中に入り、李斯は護衛の兵たちに指示を出す。趙高に伴われ、始皇帝は顔を見せる。


「何事か。状況を知らせよ」


「はっ、何者かによって鉄槌が投げられ、副車の方に当たったのでございます。恐らく賊によるものかと」


「副車……旃は如何した?」


 始皇帝は怒気を交えて言った。


「今、兵が確認を……」


「報告します」


 そこに兵が駆け込んできた。


「鉄槌を振り回す大男を始め、十数名の賊が襲撃してきました」


「皆殺しにせよ」


 始皇帝の冷えた声に章邯は拝礼をもって答えた。













(当たった)


 張良は鉄槌が始皇帝の乗っている車に当たったのを確認した。


(逃げる)


 彼はすぐに逃げる準備はできている。彼はこの計画を行う上で重要なのは逃げることであると考えていた。


(始皇帝を暗殺された秦兵は全力で追いかけてくるだろう)


 そう考えていたため、逃走経路についてもしっかりと考えていた。彼は始皇帝の暗殺が失敗するなど無いと考えていた。


 そんな時、同じく力士たちも逃走を図ると思っていたが、動きが鈍い。


(どういうことだ)


 張良がそう思った時、彼らは一斉に始皇帝一行に向かっていった。


「どういうことだ。なぜ、あっちに向かうのか」


 唖然とする張良は、脳裏に始皇帝の暗殺が失敗したと過ぎったが、


(それならば、皆、逃走を図るはず)


 なぜ、向かっていくのか。しかも自分の指示を無視して……しかし、ここは逃げるべきだ。逃げなければならない。彼は逃げることにした。そこでふとある男が脳裏を過ぎった。


「そういうことか」


 彼は苦々しい思いをしながら呟いた。











 力士たちが始皇帝一行に襲いかかった。数名が秦兵を斬り殺し、始皇帝が乗っていた黒い車に乗り込み、始皇帝の死体を()()()()()()()()()()()()()()()


 その時、車から手が伸び、男の喉を指で穴を開け、剣を奪うとそのまま近くの男を斬り殺した。


「旃殿。ご無事でございましたか」


 秦兵たちが頭から血を流している旃を見てそう言った。その言葉に彼は答えず、鉄槌を振り回し暴れる力士を見た。そして、力士に駆けていった。


 近づいてくる旃に向かって力士は鉄槌をぶつけようと振り下ろす。それを旃が素早く横に交わし、跳躍して鉄槌の上に器用に乗ると鉄槌から伸びる鎖の上を走り、力士に近づく。


「おのれ」


 力士は鎖を波打ちさせて、彼を振り落とそうとするが旃の体幹の良さは絶大であり、振り落とされない。


 旃はそのまま鎖の上を走って行き、剣を突き出した。力士はそれをなんとか避けるが、後ろから章邯が現れ、背を槍で打ち倒すと彼を捕らえた。


「貴様が首謀者か?」


「そうだ」


 力士の言葉にすぐさま、


「嘘ですね」


 旃がそう言った。


「あなたは誰かを庇っています」


 彼の言葉に章邯は力士を更に強く押さえつける。


「首謀者の名を吐け」


 しかし、力士は無言である。


「もうよろしい。彼は既に自分の下を噛み切りました」


 章邯は悔しさをもって、力士から離れて、旃を見る。旃の頭から血が流れている。


「旃殿、お怪我が」


 言い終わらぬうちに旃はすたすたと自分の乗っていた車に戻ると既に息絶えていた妻と幼い娘の姿があった。彼はその愛娘を静かに抱き寄せた。


 














「失敗した」


 始皇帝が死んでいないことを張良が知ったのは少し後のことである。


「くそ」


 悔しさと同時に悲しかった。自分の志に共感してくれた同志たちを死なせせしまった。その時、彼の後ろから影が伸びた。


「おやおや荒れておられますね」


 影から声が聞こえた。


盗跖とうせき……」


 張良の後ろに現れたのは盗賊・盗跖(七代目)であった。


「お前が教えた車には始皇帝は乗っていなかった」


「可能性が高かったのですが乗りませんでしたか」


 悪気もなく盗跖はそう返した。


「お前はあの時、あそこにいたな?」


「ええ、いましたよ。結果を見るためにね」


 張良は怒気を交えて言った。


「あそこでお前は力士たちに私の声を真似て、突撃するように命じたな」


「ええ、なるほどそれで怒っているのですね」


「当たり前だ。あの者たちは私の志に共感してくれた同志であった。そんな彼らを貸してくれた倉海君に申し訳が立たない」


 同志たちを死に追いやってしまったことに張良は計画が失敗したことよりも悲しかった。特に最初に共感し、力士たちを紹介してくれた倉海君への感謝が彼にそう言わせた。


「あなたに良いと思ってやったことだというのに、心外ですね」


「何が私を思うだ」


「よくよくお考え下さい。秦からそう簡単に逃げれると思いますか。彼らの犠牲という時間稼ぎがあったからこそ、あなたはこうして生き延びている」


 彼からすると張良の策は甘い。そもそも全員が逃げ切ろうという策略が甘いのである。もっとも生き残るべき者が生き残れば良いのである。


「失敗の原因は私たちから情報を得ておきながらあのような者たちと手を組んだことです。今度は私どもとしっかりと始皇帝を暗殺しようではありませんか」


 盗跖は手を差し出した。その手を張良がつかもうとして、弾いた。


「貴様のようなやつとは、手を組むことは無い。立ち去れ」


「おやおや」


 弾かれた手を盗跖は拭く。


「私が出す機会というものは一回切りですよ。では、後悔の無いように生き残れたらの話ですけどね」


 そう言って彼は消えた。


(さて逃れなければ)


 張良はすぐに逃げる準備を始めた盗跖のことである。自分の居場所を秦に話すとも限らない。


 彼は逃げに逃げた。しかし、彼の凄まじいのは事件の首謀者は張良であると言いふらして回ったことである。


 あまりにも危険な行為であるが、それでも彼は逃げ切った。なぜなら裏の社会で生きた者たちは始皇帝の暗殺を図って生き残っているという彼を称賛し、


「見事である」


 として、彼のために命をかけて守り通すなど男を見せる者が多かったのである。その中の一人であったのが倉海君である。彼は張良に大層な敬意を示す続けた。


「私はあなたから借り受けた方々を助けなかったのですよ」


 あまりにも待遇が良いため張良がそう言うと倉海君は、


「あなたには罪が無い」


 と言って張良を守り通した。その人としての矜持に張良は心打たれた。


(こういう人が報われる世の中を作りたいものだ)


 彼の今までの志は秦憎しというものであった。そこから他者のためという感情が芽吹いた。


「ここ淮陽よりも下邳の方が良いでしょう」


「わかりました下邳に行きましょう」


 張良はその下邳で運命と出会うことになるのだが、それは少し先のことである。













 咸陽に戻った始皇帝は襲撃を受けた後から機嫌が悪かった。何せ首謀者であるという張良を捕らえることが未だにできてなかったからである。


「不甲斐無い」


 そう言う他なかった。しかしながらそれよりも苛立たせたのは旃がいないことである。彼は博浪沙での事件で妻と娘を失ってから始皇帝が話しかけても答えず、どこか目も虚ろであった。そんな旃に不幸が続く。咸陽に戻ると病に倒れている息子の死が伝えられたのである。


 それからというもの。旃は屋敷に引きこもるようになり、参朝しなくなった。


 始皇帝は彼を参朝させるため、自ら屋敷までやって来たが、近づくと悲しい音が聞こえる。


「この音は缻の音か……」


 旃の娘が好んだ音であると前々から聞かされていた。


「もう戻らぬか」


 悲しみの底からもう彼は帰ってこない。そう考えた始皇帝は会うのをやめて宮中に戻った。それ以降、始皇帝は旃と会うことはなかった。


 唯一の友人というべき存在であった彼を失ったと感じる始皇帝はその悲しみが怒りに変わった。あの事件がなければ、旃はああはならなかったのである。そもそも賊の襲撃を知らなかった警備の兵に落ち度がある。


 そう考えた始皇帝は章邯を呼びつけ言った。


「章邯、お前の将軍位を剥奪する」


 始皇帝の理不尽な怒りにさらされ、将軍位を失った章邯は大いに嘆いたが、このことが後々に彼にとって幸運であったことは、皮肉としか言いようがないだろう。






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