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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び

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根回し

色んな人物が色々と動いています。

 楚の懐王かいおうが秦打倒のために派遣する将を決めようとしていた時、楚軍にいた斉の高陵君・顕が言った。


宋義そうぎは武信君の軍が必ず敗れると断言し、果たして数日後に軍が敗れました。兵が戦う前に敗徵(敗戦の兆し)を見ることができるのは兵法を知っている者だけです」


「ほう」


 そこで懐王は諸将を集めた会議において、宋義を上将軍に置き、項羽こううを次将に、范増はんぞうを末将に任命して北の趙を救援するように命じることにした。


 項羽はその決定を聞いて、拳をわなわなと震わす。


(宋義如きの下に就かねばならないというのか……)


 懐王は自分を立てた項梁こうりょうの鉱石を忘れているのではないのか。


(確かに宋義如きに何ができるかとは思うが……)


 それでも項羽が下手に劇場を顕にするのはまずいと思い、范増は目配せする。それに気づいた項羽は我慢する。


 その他の別将も全て宋義に属すことになり、宋義は「卿子冠軍」と号した。または「慶子冠軍」と書かれることもある。


 また、この号について複数の説があり、「卿」は大夫の号、「子」は子男の爵、「冠軍」は首領という意味とする説と「卿子」は尊称で「公子」という意味に近く、「冠軍」は上将の意味という説、公の子を公子というので「卿子」は卿の子を指し、「冠軍」は諸軍の上を意味するという説がある。


 あらゆる将軍の上に宋義が座ることになったのだが、


(それよりもだ。どういうことだろうか?)


 范増としては気がかりなことがこの場で起きている。懐王は以前、諸将とこう約束したことがあった。


「先に関中に入った者を関中の王とする」


 関中とは、秦の地域のことで、西には隴関、東には函谷関、南には武関、北には臨晋関、西南には散関があり、秦地がその中にあったため関中という。


 その関中へ進軍する別働隊の将軍に沛公・劉邦りゅうほうが任命されたのである。これには宋義も驚いたようで、思わず懐王を見た。しかし一方で劉邦を押す声が楚の諸将から出ている。


(劉邦……貴族でもない男で、女と酒を愛するなどだらしのない男であると聞いていた。しかし、これほどの根回しをする用意周到さがあったというのか)


 范増は劉邦を見る。そして、驚いた。この場で誰よりも驚いているのが劉邦その本人だからである。また、彼の後ろの配下の者たちも動揺している。


(つまりは劉邦以外の者が動いているということだ)


 ならば誰だ。一体、誰が楚の諸将の間で動き、劉邦を支持するように動いたのか。


「別働隊を儲けるのであれば、項羽将軍こそが西進されるべきではありませんかな?」


 范増はなんとしても劉邦の西進を行わせるわけにはいかないと考え、そう声を上げた。その声に項羽は頷く。彼から見て諸将は秦を畏れて関に入る勇気の無い連中だと思っている。


(そんな連中の言葉に従い、劉邦のみを西進させるのではなく、私も西進したい)


 項羽を支持する楚の諸将もいた。また、


「私も項羽殿がよろしいと思います」


 劉邦本人もそう述べた。


「やはりあやつが楚の諸将を根回ししたわけではないのか」


 范増がそう呟くと、諸将の一人が宋義に近づき、宋義は彼の言葉を聞いて、懐王の傍に近づくと囁いた。


「項羽の為人は慓悍猾賊(「慓」は「僄」とも書き、速い。「悍」は勇。「猾」は狡猾。「賊」は残忍」)で、かつて襄城を攻めた際には襄城に残された者がなくなり、全て阬(生埋め)にされました。彼が通った場所で残滅(全滅)しなかった場所はございません。また、楚はしばしば進撃致しましたが、以前の陳勝ちんしょうも項梁も皆失敗しました。これからは長者(人格が優れた者)に換えて派遣し、義を擁して西に向かわせ、秦の父兄を諭すべきなのです。秦の父兄は自分の主に苦しんで久しく、本当に長者が現れて侵暴しなければ、関中を下すことができます。項羽は僄悍であるため、派遣してはなりません。沛公だけが元から寬大な長者なので派遣できるのです」


 懐王はこれに同意を示し、項羽の西進を許可せず、沛公・劉邦に西方の地を攻略して入関するように命じた。


 これにより、劉邦は陳勝と項梁の散卒を集めて秦討伐に向かうことになった。








「しかし、楚の諸将がなぜ、沛公を支持したのか」


 蕭何しょうかが首を傾げる。


「兄貴は凄い男だって皆、気づいたんじゃねぇか?」


「お前は単純で良いな」


 樊噲はんかいの言葉に夏侯嬰かこうえいはため息をつく。


「沛公には凄い味方がいるのさ」


 陸賈りくかがそう言った。


「味方って誰だ?」


 劉邦が尋ねると陸賈は、


「それは沛公がよく知っている方じゃないの。僕は会ったことは無いしさ」


 彼はそう言って微笑んだ。


「一体、誰が沛公を支持するように根回しをしたのか……」


 范増がそう呟くといつの間にか後ろにいた陳平ちんぺいが言った。


「恐らく張子房ちょうしぼうでございましょう」


張良ちょうりょうだと……)


 あの男は懐王が擁立した後に韓王・せいと共に韓の地を奪還すべく離れた男であったはずである。容貌の美しさには驚いたが、大した進言もせずにさっさと韓の再興のために動いており、特に気にしてはいなかった。


「しかし、なぜ張良が沛公のために動く?」


 そう、それがわからない。彼は韓の貴族であり、農民の劉邦とは関わりは本来無いはず……


「范増殿は知らなかったのですね。張良は楚に与する前は沛公の元におられました」


「そうであったのか……」


 そう范増が項梁の元に訪ねた時、張良は劉邦の元を離れていたため、彼はそのことを知らなかったのである。


(そうか、そもそも一農民の劉邦が諸将の一人として既に活動している時点で気づくべきだったのだ)


 その時から劉邦の評判を高める根回しを張良はしていたのである。


「沛公と張良、やがては危険な存在となるやもしれんな」


 范増は目を細め、警戒心を強めた。そんな彼の姿を静かに陳平は見ていた。




「そうか……張良殿が動いてくれていたのか」


 あの人はどれほど私のために動いてくれるのだろうか。まさか遠く離れてもなお、自分を助けてくれる。


(この恩にどう報えば良いのか)


「ただ、気をつけた方が良いかもしれないよ」


 陸賈がそう切り出した。


「どういう意味だ?」


「僕が張良という人が根回しをしていることを知ったのは楚の諸将の宴に参加した時なんだけど……」


 彼は楚の諸将の間で沛公の評判を高めるためにそのように動いていた。


「その宴に……ほら、あの僕みたいな美男子だけど、何考えているかわからない人」


「陳平という方のことか?」


 曹参そうしんがそう指摘すると陸賈は頷く。


「そうそう、その陳平という人。その人さ宴に参加していたんだ。そして、先の会議で項羽を支持した諸将は皆、陳平が宴を通して接触していた人たちだったよ」


 陸賈は改めて劉邦を見て言った。


「張良という人の根回しを覆そうとした人がいる。その人は先の会議で范増の後ろにいたよ。恐らく、張良殿が沛公のために根回ししたことはその人を通じて知らされているはずさ」


 それによって范増は劉邦に対して、警戒心を持ち始めるはずである。


「だから、気をつけた方が良いよ」


「そうだな……なあ、ちょっと疑問なんだんだが」


 劉邦は陸賈の話を聞いて少し引っかかりを覚えた。


「なんで最初からそいつは范増殿に相談しないんだ?」


 よくよく考えてみればそうである。張良の根回しに気づいた時点で范増に相談すれば、范増の力が覆すこともできなくはなかったはずなのである。


「確かにその通りだね……」


 陸賈は目を細める。


(まさか……手加減した。まさか、そんなねぇ)


「わからないけど、張良という人が作った好機、無駄にはしないようにしないとね」


「ああ、その通りだ。張良殿の思い、答えてやるさ」


 劉邦はにっと笑った。










「では、これを……」


 ある暗い部屋で、陳平は男に書簡を渡した。


「ええ、わかっています。言われた通りに……では、あの方によろしくとお伝えください」


 男が去ると陳平はふっと息を吐き言った。


「さて、誰が勝つのだろうか。まあ、誰でも構いませんがね」


 陳平は目を細める。


「この動乱が迅速に収まるのであれば……」


 





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