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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び

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盲目

遅れました

 反秦の勢力が増している中、秦では二世皇帝・胡亥こがいを後ろ盾に権力を強めている趙高ちょうこうが自分の邪魔な存在を排除していた。


 趙高は大臣が入朝して趙高の悪事を上奏することを恐れ、胡亥にこう言った。


「天子が尊貴とされますのは、声だけを聞くことができ、群臣はその顔を見られないからです。そもそも陛下は春秋に富んでおられますので(まだ若いという意味)、まだ諸事にことごとく精通しているわけではありません。今、朝廷に座り、譴挙(譴責や抜擢)に相応しくない内容であれば、大臣たちに短所を見せてしまうことになります。これでは天下に神明を示すことができません。陛下は禁中(侍御の臣以外は自由に入れない宮内)で深拱し(手をこまねいて居住すること。政治に参加しないという意味)、私や侍中で法を習得した者に待事させ、事が起きた際には我々を使って正しく対処させるべきです。こうすれば大臣は敢えて疑事(是非がはっきりしない事)を上奏しなくなり、天下が陛下を聖主と称することでしょう」


 胡亥はこれを採用し、朝廷に座って大臣に会うことがなくなった。常に禁中に住んで趙高と侍中に政治を行わせため、全ての政務が趙高によって決定されるようになった。


「趙高め」


 丞相・李斯りしは東で反秦勢力が強まっていることを受けて、諫言を行おうとした。そのことを知った趙高は李斯に会いに行ってこう言った。


「関東で多数の群盗が起きているにも関わらず、陛下はますます繇(徭役)を動員して阿房宮の建造を急がせ、また、狗馬といった無用の物を集めております。私も諫言したいと考えているのですが、位が賎しいためできません。しかしあなたは高い地位におられます。あなたはなぜ諫めないのですか?」


「その通りだ。私も諫言したいと思って久しくなる。しかし陛下は朝廷に座ることがなく、常に深宮に居られるため、私が言ったことが伝えられない。謁見したくてもその閒(暇。機会)がないのだ」


 趙高は頷き、


「あなたが本当に諫言できるのであれば、私はあなたのために陛下が閒(暇)になるのを待って、あなたに伝えましょう」


 と言った。李斯はこれを信じた。


 趙高は胡亥が宴を楽しんで婦女を前にするのを待って、人を送って李斯にこう伝えた。


「陛下はちょうど閒(暇)になりました。奏事できます」


 李斯はこれを信じて宮門で謁見を求めた。このようなことが続けて三回起きると、胡亥は激怒した。


「私は常に多くの閒日(暇な日)を過ごしているにも関わらず、丞相は来ないではないか。しかし燕私(私宴)を始めると丞相はいつも事を請いに来る。丞相は私が若いから見くびっているのか」


 その様にほくそ笑んだ趙高は言った。


「沙丘の謀に丞相も参与しました。今、陛下は既に帝に立たれましたが、丞相の貴(地位)は変わっていません。その意思は地が別れて王になることを望んでいるのでしょう。しかももし陛下が私に問わなかったら私も敢えて言うつもりはございませんでしたが、丞相の長男・李由りゆうは三川守(郡守)であり、楚盗・陳勝ちんしょう等は丞相の傍県(近県)の子です」


 李斯は汝南上蔡の人で、陳勝は潁川陽城の人である。汝南と潁川は近くにある。


「故に楚盗が公然と横行して三川城を通っても、守るだけで攻撃しませんでした。私は文書の往来があったと聞いておりますが、真相を確認できていないため、報告しておりませんでした。それに、丞相は外(朝廷)にいて権勢が陛下より重くなっています」


 胡亥はこれを信じて李斯を裁こうとした。しかし情報が正確ではないため、まず人を送って三川守と群盗が通じているかどうかを調査させた。


 この動きを聞いた李斯は趙高が裏切ったとここで悟り、上書して趙高の欠点を訴えた。


「趙高は利害(賞罰)を専断しており、その様子は陛下と違いがございません。昔、斉の田常でんじょうは斉の簡公かんこうの相となって恩威を盗み取り、下は百姓を得て上は群臣を得ました。その結果、簡公を弑して国を乗っ取ったのです。これは天下が明らかに知っていることです。今、趙高には邪佚の志、危反の行、私家の富があり、斉における田氏と同じことです。しかも貪欲無厭で利を求めて際限がなく、権勢は陛下に次ぐ地位に列しています。その欲は無窮で、陛下の威信を奪っており、志は韓玘が韓安の相になった時と同じようなものです。陛下がよく考えなければ、必ず変事を起こすことになるであろうと恐れております」


 ここで出てくる韓玘は紀元前349年の『史記・韓世家』『六国年表』『古本竹書紀年』の「韓姫がその君・悼公を殺した」という記述があり、その韓姫が韓玘であるとされている。


 そして、韓安というのは韓の最後の王のことである。しかしながら年代に隔たりがあるため「韓玘が韓安の相になった」という李斯の発言を誤りとしている。


 これに別の説を述べているのは『資治通鑑』の注釈を行った胡三省こさんしょうである。つまり恐らく韓王・安の時代に韓玘という者が重用されて亡国を導いたのであり、史書にはその名が見えないが、李斯は同時代の人なので知っていたはずのものである。また、胡亥にとっても近い過去であるため李斯は戒めとして相応しい故事だと考えて引用したとしている。


 李斯の上書を見た胡亥は更に怒った。


「何を言うのか。趙高はもともと宦人に過ぎなかったが、安泰になっても肆志(好きに振る舞うこと)せず、危難に遭っても心を変えず、行動を清めて善を修め、自分の力で今の地位に至った男である。忠によって抜擢され、信によって位を守っているのであるから、私は彼を賢人だと認めているのだ。それにも関わらず、李斯が疑うのはなぜか。そもそも、私が彼に頼らなければ、誰に任せれば良いのか。彼の為人は精廉強力で、下は人情を知り、上は私に適合できる。疑う理由などないではないか」


 この人は見たいものしか見ず、趙高を信じきっているため、李斯に殺されることを恐れて秘かに趙高に伝えた。趙高は内心、笑いながら、


「丞相が憂患としているのは私だけです。私が死に追いやれば、丞相は田常が行ったことを実行しようとするでしょう」


 と言った。




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