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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び

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32/126

豊城

大変遅れました

 沛公・劉邦りゅうほう項梁こうりょうから兵を借りた後も中々豊を攻略できていなかった。


「落ちない……」


 劉邦は豊城を睨みつけながら呟く。


「あれほど雍歯ようしが兵術に長けているとはな」


 蕭何しょうかがそう言うが劉邦は無言で豊城を見続ける。豊城へ何度目かわからない突撃が行われている。


「わあ、樊噲はんかいが城壁から落ちたぞぉ」


 そんな声が劉肥りゅうひの耳に届いた。


「おお、ついにあいつもくたばったか」


 けらけらと笑いながら兵を切り捨てていく紀信きしんが樊噲の元へ走っていく。


「なんで、あの人。嬉しそうなんだ?」


 劉肥が首を傾げていると、


「ああ、あれでも心配しているのさ。言動は気にしないでやってくれ」


 彼の後ろから声をかけられた。振り向くと二人の男が立っている。周苛しゅうかとその従弟の周昌しゅうしょうである。二人は元・泗水郡の卒史で、劉邦とは昔から付き合いがある。


「あいつはいつも逆のことばかり言うやつでな」


「あやつの言動とまともに付き合えるのは苛と沛公ぐらいだ」


 二人の言葉を聞いて劉肥が感心していると城壁から落ちたという樊噲の姿が見えた。しかし、彼の左腕は落下したためかあらぬ方向に腕が曲がっていた。


「早く治療しねぇと」


 周りがそう言うが樊噲は首を振ると言った。


「はっこんなもの、大したことねぇぜ」


 そう言うと彼はふんと左腕に力を入れ始めた。凄まじい音が左腕から鳴り響くが彼の筋肉が流動し、少しずつ曲がっていたのが治っていき、最後にカン高い音が鳴ると左腕は元に戻った。筋肉だけで戻したのである。


 それを見た者は驚き、彼から離れた。


(ああ言う人がいてもこの城は落ちない)


 劉肥は不思議そうに豊城を見た。





 翌日、劉邦は再び、豊城を攻めた。北門を樊噲、南門を盧綰ろわん、西門を曹参そうしん、東門を周勃しゅうぼつが攻める。苛烈な劉邦軍の猛攻に対し、豊城は耐え続けた。


 盾を持ちながら曹参は前に進んでいた。しかしながらそうこうしながらも彼は以前よりも戦場を見ることができていた。


(今日も難しそうだ)


 そう思いながら彼は前に進む。


『下がれ』


 はて、何か声が聞こえた。


『下がれ』


 戦場のど真ん中にも関わらず、曹参は盾を下ろし、振り向く。しかしながら兵が前に進もうとしているだけで、声をかけた主らしきものは誰もいない。


 そんな曹参に気づいたのか何人かが盾を掲げながら曹参の周りに集まっていく。


「どうなさいましたか?」


 そう言われ、曹参は豊城を見る。必死の形相でこちらと戦う豊城の人々の姿があった。


(戦でこれほどしっかりと相手の顔を見たことはなかったな)


 そう思いながら曹参は言った。


「格部隊長に通達せよ」


「はっ」


 曹参が命令を下そうとしたため、周りの者たちが彼の言葉を待った。そして、曹参は命令を下した。


「全部隊。後退せよ」


「こ、後退ですか?」


「そうだ」


 困惑する者たちに対し、曹参は厳命を下した。


「繰り返すぞ。全部隊後退せよ」


「承知しました」


 こうして曹参の率いる軍が後退を始めた。


(あとは、この意図を理解してくれる者がいるかどうか……)









「どういうことだ?」


 戦場の様子を眺めていた蕭何は曹参が後退し始めたため、困惑する。


「沛公」


「わかっている」


 劉邦は後退していく曹参を眺める。


「曹参の判断は間違っていない。そう思う」


 彼はそう言うと東門に変化が起きたのを見た。


「周勃が……」


 曹参の突然の後退を知って、北門と南門を攻めている樊噲と盧綰は困惑し、曹参を罵った。


「あいつ。臆病風に吹かれたのか」


「全く、どういうつもりか」


 一方、二人とは違う反応を見せたのは周勃である。彼は曹参の後退をしると、


「全部隊よ。ありとあらゆる手段を持って、前進し、門を突破せよ。進め。進め」


 静かに指示を出した。それにより、一層、東門への攻撃は苛烈さを増した。


 そして、門の一つがついに開いた。しかし、開いた門は西門であった。


「東門が突破されそうです」


 報告を受けた雍歯は驚き、焦った。


(このままでは陥落して俺は処刑されてしまう)


「西門から逃れるぞ」


 西門から曹参の軍は後退している。そこからしか逃げる道は無いのである。


 雍歯は仲間を連れて、西門から脱出した。


「雍歯が逃げるぞ」


 その声を聞き、曹参の兵たちは雍歯に向かっていく。劉肥も向かった。しかしそこで法螺貝と戦鼓の音が聞こえた。


「えっ、確かこの音って」


 道を開けよという意味が含められた音であった。困惑する兵たちであったが、曹参は兵の運用は劉邦の旗下の中では軍令がもっとも厳しいとされており、それによって彼らは指示に従い、雍歯の道を開けて、難なく脱出させていった。


 周勃は雍歯が脱出したと知ると攻撃を緩め、城内に降伏勧告を行い、豊城は降伏した。









 戦の後、軍議おいて怒声が響いた。曹参の独断の後退、及び雍歯の脱出を許すということへの責任追及である。


 その間、劉邦はむすっとした表情で無言を貫く。


 怒声に晒された曹参は言った。


「我々は長きに渡り、豊城の者たちと戦ってきた。しかしながらここ豊城は要害と言えるような城ではないにも関わらず、今まで陥落させることができないままでいた。それはなぜか。皆はそれを考えたことがあるか」


 その言葉に一瞬、静粛が生まれる。曹参が劉邦を見ると劉邦は続けろと目で合図した。


「我々を裏切った豊と雍歯は確かに許せない相手であった。しかしそのことは相手もわかっており、我らに負ければ、皆殺しにされると思い、一致団結して我々と対峙した。いわゆる彼らは窮鼠となりて我らという猫を噛んでいたのである、そのために今までの苦戦があった。それにも関わらず私たちは何十にも包囲を行い、いたずらに突撃を行い、双方共に損害を与えていった。窮鼠としていたのは我々の行動によるものなのだ。故に私は後退し、逃げ道を作ったのだ」


 城を攻める上でただ包囲するよりも逃げ道を作る方が城は落ちる。兵術を学んでこなかった曹参がほぼ独学でこれにたどり着いたのである。


「その言い分はわかった。しかし、なぜ雍歯を捕らえなかったのか?」


 そう諸将の一人が言うと周りも同意した。


「雍歯を捕らえることは容易ではありました。しかしながらあそこで捕らえ、処刑などすれば豊城は自分たちもそうなると考え、ますます抵抗を強めることになったでしょう。それでは血で血を洗う事態にしかならず、無益となったことでしょう」


 曹参は自らの決断に一切の迷いはなかった。


「わかった」


 劉邦は立ち上がると曹参に近づき、彼の肩を叩いた。


「お前の言には利がある。曹参には罪は無い」


 彼がそう言ったため諸将はこれ以上の責任追及をやめた。


「よし、宴だ。勝利したことを記念して宴をやるぞ」


 そう言って、彼は宴の準備をするよう指示を出した。












「勝った……」


 劉肥は宴の様子を眺めながら安堵した。


「苛烈に攻めるだけが城を落とすというわけではないのか」


 戦に数回しか出ていないがそのことを学んだつもりで岩の上に腰掛けながらそう呟いた。


「しかし、あの人は許したものだ」


 曹参の行動は独断である。しかし、劉邦は一切咎めなかった。


「不思議だ」


 これも一種の嘘なのだろうか。そんなことを考えていると、


「そうだよね。沛公って不思議な人だよね」


 ふと声が隣からしたため、隣を見るとそこには一人の青年がいた。その青年を一言で言うならば明るいという言葉がふさわしく。所作には優雅さも含まれていた。串に刺した魚を食べる様にも優雅さがある。


「あなたは?」


 劉肥が尋ねると青年は首を傾げて、


「僕は陸賈りくかだよ?」


 と言った。


(なんでこの人、知らないのって感じで見てくるんだろう?)


 劉肥は首を傾げたいのはこっちの方だと思った。


「ねぇ沛公に付いて行こうと思っているけどいいかな?」


「私の一存では決められないですね」


「じゃあ沛公が許可すれば良いかな?」


 再び首を傾げる陸賈に、劉肥は頷く。


「ええ、構わないと思いますけ……」


「じゃあ、許可取ってくるね」


 そう言うと陸賈は岩から降りると宴の中にいる劉邦の元に行った。


「沛公。沛公。今後、僕。あなた様に仕えようと思うけどいいかな?」


「あっ、お前誰だ?」


「陸賈だよ?」


 酔眼を向けていた劉邦は首を傾げる。


「陸賈だよ?」


「ああ、陸賈……陸賈か」


「そうだよ」


 酔っている劉邦に陸賈は頷く。


(いや……陸賈って誰だ?」


 酔っているが冷静にそう思い始めた瞬間、陸賈は言った。


「沛公は沛県の民の支持によって立たれ、天下に志という旗を掲げようとされております。沛公の仁愛は山より高く、海よりも深いとお聞きしております。多くの民はあなた様の仁愛をそこらかしこで噂しております。故に今やあなた様の名声は天下に轟かしているのです。まさしくその徳のありようは『詩経』におけます……」


 陸賈は怒涛の口上を行い、『詩経』の一節を読み上げ、劉邦を褒めちぎった。


 先ほどまで誰なのかという思いがあった劉邦であったが、持ち上げられ、悪い気はしなかった。しかし、内容までは理解できていない。


「ああ、つまり……なんだ?」


「はい、私は沛公にお役に立てるということです」


「ならば良いさ。今後もよろしく」


「はい」


 陸賈は拝礼するとそのまま劉肥の元に戻った。


「許可もらったよ」


「そうでしたか……」


 驚く劉肥に陸賈は微笑みを浮かべた。


 この陸賈という男は後に漢の礎を築く上で重要な働きを担って一人である。



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