封禅の儀式
紀元前219年
始皇帝が東部の郡県を巡行し、鄒県の嶧山に登った。そこで石碑を立てて功業を讃頌した。その際に魯の儒生七十人を集めて泰山(岱宗)の下に至り、封禅について議論させた。
封禅というのは泰山で天を祀る「封」と、梁父(地名)で地を祀る「禅」からなり、優れた功徳を持つ帝王が行う儀式とされていた。
諸儒の中である者はこう言った。
「古の封禅は蒲草で車輪を覆いました。山の土石や草木を痛めることを嫌ったためです。また、地を掃いて祭を行い、席には葅稭(茅や藁で編んだ物)が使われました」
しかしながら諸儒はそれぞれ異なる意見を述べた。これが儒の嫌なところだ。始皇帝はそう思った。儒は小さなことをああでもないこうでもないと重箱の隅っこを突く割にははっきりとした答えを出さない。
不快になった始皇帝は儒生を退けて、車道を開いて太山(泰山)の陽(南)から頂上に登り、石碑を立てて徳を称賛した。その後、陰道(山北の道)から下りて梁父で禅(祭祀を行う地の草木を除いて平に整えること。以前は「墠」と言った)を行い、祭祀をしてその地に立っていた石に文章を刻んだ。これが禅の儀式である。
封禅の儀礼は雍城で太祝が上帝を祀る時と同じ儀礼が使われたが、詳しい内容は全て封藏されたため、記録は残されなかった。儒者が関われなかったというのも大きいだろう。
始皇帝が儀式を終えて、山を下りる時、暴風雨に襲われた。始皇帝を濡らすわけにはいかない同行者たちは慌てて、始皇帝を大樹の下に連れて行き、そこで休んだ。雨が止むと始皇帝はこの樹を五大夫に封じた。
そんな時、彼は不快なことを伝えられた。
儒者たちが、始皇帝が風雨に遭ったと聞いて譏(誹謗嘲笑)したというのである。封禅の儀式に関われなかったための憂さ晴らしだったに違いなかったが、始皇帝に執念深さを彼らは理解してなかったと言えるだろう。これが後に彼らへの弾圧のきっかけの一つとなる。
儀式を終えた始皇帝は東に向かって海上で遊行し、名山や大川、八神の礼祀(祭祀)を行った。
八神について説明する。一つめは「天主」で天斉淵(泉の名)の水を祀った。二つめは「地主」で太山(泰山)と梁父を祀り、三つめは「兵主」で蚩尤(軍神)を祀った。四つめは「陰主」で三山(蓬萊、方丈、瀛洲。もしくは海上の三神山ではなく「参山」)を祀り、五つめは「陽主」で之罘山を祀った。六つめは「月主」で之莱山を祀り、七つめは「日主」で成山を祀って、八つめは「四時主」で琅邪を祀った。
八神は斉国において太公(呂尚)以来祀られていたともいう。
始皇帝は南の琅邪(山)に登ってから大いに楽しみ、三か月間逗留した。琅邪台が造られ、ここでも石碑を立てて徳を称賛し、始皇帝が意(天意)を得たことを明らかにした。
そんな時、彼の元に方士たちがやって来た。
かつて燕人の宋毋忌、羨門子高といった徒が仙道や形解銷化の術(屍を残して成仙する術。形解は尸解ともいい、肉体を残して仙人になること。銷化もほぼ同じ意味)を得たと称したことがあった。
燕や斉の地では、迂怪(神怪)の士が争って二人の仙術を学び、互いに伝授するようになった。一種の流行的な感じである。
斉の威王、宣王や燕の昭王は彼等の言を信じ、人を海に送って蓬萊、方丈、瀛洲を探させた。
この三神山は勃海の中にあり、人の世とはあまり遠く離れていない。しかし三神山に近づこうとすると風が吹いて船をおい払った。
かつて三山に至った者がおり、諸仙人や不死の薬が存在したのを目撃したと言われている。
そのことを方士たちは始皇帝が巡遊した時に上書してそのことを伝えたのである。
その代表者の一人に斉人の徐福(徐市)という。彼は斎戒してから童男童女を率いて三神山を探す許可を求めた。
始皇帝がこれに同意したため、徐福は童男童女数千人を率いて海に入った。しかし船が海に出てから大風に遭って離散したため、引き還して、
「到達することはできませんでしたが、遥か遠くから眺め見ることはできました」
と報告した。
「そうか。存在している可能性は高いのだな」
「はい」
徐福はそう言って内心笑った。
その後、始皇帝は都への帰還の途中で彭城を通った。
そこで斎戒禱祠(祭祀)し、泗水に沈んだといわれている周鼎を得ようとした。鼎を探すために千人を水中に潜らせたが、見つからなかった。
次に始皇帝は西南に向かって淮水を渡り、衡山、南郡に向かった。
長江を舟で進んで湘山に至り祭祀を行ったが、大風に遭って渡れなくなった。始皇帝が博士に問うた。
「湘君とは何の神だ?」
博士というのは儒学の官で、古今の事物に精通している。博士が答えた。
「聞くところによりますと、堯の女で舜の妻です。ここに葬られているそうです」
舜は蒼梧(地名)で死に、舜の二妃は長江と湘水の間で死んでその地に埋葬された。博士の答えを聞いた始皇帝は激怒し、刑徒三千人を派遣して湘山の樹木を全て伐り倒させた。
湘山の地が剥き出しになって赤くなったという。
始皇帝は南郡から武関を経由して咸陽に帰った。
彼は帰ってから不快な気持ちであったが、背の小さい男が彼を出迎えたのを見て、その機嫌が直った。
始皇帝を出迎えたのは優(芸人)・旃である。
彼は貴族で無いどころか低い身分の人物でありながら始皇帝の傍にいることができるという特別な特権を与えられていた。しかしそれを咎められることはなかった。なぜなら彼は言葉はいつも道理が通っており、心優しい性格であったため、憎まれることがなかったのである。
このような話がある。
ある雨の中、始皇帝が群臣たちと宴を開き、旃が舞を披露するため呼ばれた時のことである。
警備のため外にいる兵たちは雨に濡れ、外は寒いために凍えそうになっていた。それを見た旃は兵たちに言った。
「休憩を取ったらどうでしょうか?」
「命令ですので」
隊長にあたる者がそう答えた。
「わかりました。私が陛下に駆け寄ってみましょう。そこで皆さんにお願いがあります。私が声をかけた時、『はい』と返事してもらいたいのです」
そう言って彼が宴に戻るとそこでは万歳、万歳と群臣たちが言っていた。そのため始皇帝の機嫌が良い。すると旃は欄干に近づくと叫んだ。
「警備兵たちよ」
「はい」
「あなた方は背が高いがどのような役に立っているのだろうか。雨の中で警備することだろうか。私は背は低いが有り難きことに休みを頂いている」
突然叫びだした旃を見ていた群臣たちは外の背の高い兵と背の低い彼を比べて見て、ぷっと笑った。始皇帝も笑い、旃を呼んだ。
「お前の言いたいことはわかった」
そう言うと始皇帝は警備にあたる時は半分ずつ休憩するようにと命じた。
また、このような話がある。
狩猟を好む始皇帝がある日、いつも使っている狩猟場が飽きたと言い出した。そこで彼は、
「狩猟場を大々的に拡大し、東は函谷関、西は雍や陳倉まで広げて動物たちを大量に入れれば、狩りを行うのは楽しくなるだろう」
と言った。そのようなことをすれば民衆の畑を踏み潰すことになり、民衆の暮らしに害をもたらしてしまうと群臣は思ったが彼らは始皇帝を恐れて発言をしない。そんな時、旃が一人立ち上がり言った。
「素晴らしいお考えです。新しい狩猟場に多くの動物を放てば、東の賊たちが来ようとも鹿の角で追い払われることでしょう」
その言葉に始皇帝は笑って、
「汝の諧謔は面白い。我が国の将兵は勇猛であり、鹿の角など借りることはない。狩猟場の拡大はやめることにする。使う予定に金品は万が一に取っておくことにしよう」
と言った。
旃のこの二つの話はどちらも多くの苦しむ者を諧謔で救うという頓智のようなものである。しかし、それによってもたらされた恩徳が群臣たちに慕われ、始皇帝の信頼を得ることになったのである。
「旃よ」
そんな彼に巡遊から戻った始皇帝は言った。
「次の巡遊に妻子を連れて同行せよ」
「わかりました」
二人は笑った。しかし、その巡遊で危険が迫ろうとしていた。そして、それによって二人の関係に変化が起きることになるとはこの時の二人は考えもしなかった。
次回予告
裏の社会に生きる者たちは「始皇帝を暗殺しようとした者は生きて帰ってこない」とささやきあった。
そんな中、始皇帝暗殺を企んでいた者がいた。
恐ろしい轟音が鳴り響いた。
「失敗した」
悲しい音が聞こえる。
「章邯、お前の将軍位を剥奪する」
次回、「鉄槌が飛ぶ」 お楽しみに