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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び

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先んずれば人を制す

予約しておくの忘れていました。

 項梁こうりょうは天下が揺れ動いているのを呉の地で感じていた。


(ついに来たか)


 秦はいずれ揺らぐ。そう信じて、耐えに耐えてきたために陳勝ちんしょうの決起による混乱は非常に嬉しかった。


「さあ、よ。私たちの大業を果たす時が近づいている。わかるな」


「はい、叔父上」


 項羽こううは頷いた。


「それでは私は会稽守(郡守)・殷通いんとうに呼ばれている。あとは手はず通りにな」


「叔父上、殷通の話というのはおおよそ検討がついていますが、間違っても彼に従うということはありませんよね」


「当たり前だ。我らは楚の大貴族。あのようなものに頭を下げるなどあってはならん」


 項梁の言葉に項羽は強く頷く。


「では、行ってくるぞ」


「はい」


 殷通が項梁に招いたのは、陳勝の決起に同調するためである。そのために呉で大きな繇役や喪があると、常に項梁が主持するなど、彼には名声があったためである。


 項梁はその際、秘かに兵法を用いて賓客や子弟に指示を出し、その能力を確認しており、有能な人間を多く知っている。


 殷通は言った。


「江西が全て反している。今は天が秦を亡ぼす時である。先んずれば人を制し、遅れれば人に制されるという。私も兵を発し、あなたと桓楚かんそを将にしたいと思う」


 桓楚はこの当時、豪傑として有名であったが、秦に追われて沢中に逃亡していた。すると項梁は言った。


「桓楚は逃亡しており、居場所を知っている人はおりませんが、せき(項羽)だけが知っています」


「あなたの甥であったな。噂はかねがね聞いている」


 項羽は身長が八尺余(または「八尺二寸」)もあり、怪力の持ち主でとても大きい、鼎を持ち上げることができた。そのため才器(才能度量)は常人を越えているとされ、呉中の子弟は皆、彼を敬畏しているという。


「では、一度、席を外します」


 項梁は一度退出すると屋敷の外にいた項羽に合図を送った。項羽は頷き、剣を持った。


 再び項梁だけで部屋に入って殷通と一緒に座った。


「籍を召すことをお許しください。彼に命を与えて桓楚を招かせたいと思います」


「良かろう」


 項梁は項羽を招き入れた。そして、すぐに目で合図して、


「今だ」


 と言った。すると項羽は凄まじい跳躍を見せ、剣を抜いてそのまま殷通を頭から真っ二つに叩き切った。


 項梁は半分になった殷通の頭を持ち、印綬を佩した。


 この出来事に殷通の門下たちは驚愕して大混乱に陥った。敵を討とうと項梁へ向かっていった者たちは項羽によって撃殺されていった。その凄まじさに人々は全て色を失って地に伏せ、誰も立ち向かおうとしなくなった。


 項梁はその間に以前から関係が深い豪吏(優秀な官吏)を集め、これから為そうとしている大事について説諭した。


「今や。天下は乱れに乱れている。今こそ秦への恨みを果たす時である。この私に従いたい者は立ち上がれ」


 その後、呉中の兵を挙げて蜂起し、人を送って下県(会稽郡下の県。郡治所がある呉県以外の県)の兵を集め、精兵八千人を得た。


 項梁は集まった呉中の豪傑を校尉、候、司馬に任命していった。


 ある者が項梁に用いられなかったため、自ら項梁に会いに行って訴えた。すると項梁は言った。


「以前、ある人の喪をあなたに主事させたがうまく処理できなかった。だからあなたを任用しないのだ」


 人々は項梁の判断に感服したという。


 こうして項梁が会稽守に、項羽が裨将になり、下県を巡撫した。この時、項梁に嬉しいことが起きた。


「よく帰ってきた」


 項伯こうはくが戻ってきたのである。


「長らくご無沙汰していました」


「無事であれば良い」


 項梁は嬉しそうに彼の無事を喜んだ。


「今までどうしていた?」


張良ちょうりょう殿の元にいました。その間に兄上の決起を知り、参りました」


「ほう」


 項伯の言葉に彼は目を細めた。


「それで張良殿はどうしている?」


「張良殿はまだ行動に移していません」


「連れてこようとはしなかったのか?」


 項梁としては名声のある張良を配下としたい。


「兄上、張良殿は天下の鬼才というべき方です。自ら礼儀を尽くして招くべき方なのです」


 そうは言ったが、項伯としては張良が兄に仕えるのは難しいと考えていた。


「張良という方はそれほどの方でしょうか。韓人であると聞いており、我らの格が違いますし」


 そう言ったのは項羽である。


 格が違うというのは貴族としての格が違うということである。実のところ張良が韓人であるということは知られていたが、彼の祖父、父が宰相であったというほどの韓の大貴族であったことは知られていなかった。


 姓を変えて行動しているという負い目が張良があまり主張しなかった理由であろう。そのため後世においても彼の先祖に関してはあやふやになることになった。


 項羽の言葉を聞いて、項伯は兄を見て、


(まだこの状況なのですか)


 と目で伝えた。


 項羽という人は少年の頃に書を学んたが身につかず、剣を学んでも身につかなかった。


 項梁は真面目に学ぼうとしていないと思い、激怒したが項羽はこう返した。


「書は名姓(姓名)を記せるだけで良く。剣は一人を敵にするだけで、学ぶに足りません。私は万人を敵とする術を学びたいのです」


 項梁は項羽の考えを普通ではないと思い、兵法を教えることにした。項羽は大喜びで学んだが、彼は兵法の大意を知るとまた学ばなくなった。


 この態度に傲慢さを感じる項伯はもっと厳しく指導するべきと項梁に言ったが、項梁は項羽の性格を考慮して、じっくりと修正するという考えを示した。


(項羽は時間をかけるべきだ)


 しかし、項伯は項羽は成熟な才覚の持ち主であるため、熱いうちに鉄を叩くという風にすべきと考えた。


(こういうところが張良殿と合わないだろう)


 項羽には傲慢であると同時に先ほどの言葉に見えた貴族意識が強い。張良を見れば、必ず見下しから入るだろう。


(それは張良殿の性格的に項羽へ不満を持つ)


 項伯は張良のことを友人だと思っている。その友人を下手に推薦して彼の心が傷つくような状況を作るべきではないと考える人である。一言で言えば、彼は優しい人であった。


(人の志というものは人の数だけある)


 そのことを項羽に理解させたいと思っているが、


「それに張良という人は始皇帝しこうていの暗殺を図って所詮は失敗した人ではありませんか」


 項羽は結果だけを見て、他者の深みまで見通す目を持っていない。


(このような認識では張良殿と会わすべきではない)


 さて、兄の方とは言うと、


(張良は……用いづらい男のような気がする)


 項梁はそう考えていた。


 彼は慎重な男で、張良の暗殺未遂事件の状況を見て、無鉄砲な男という印象を持っていた。


 そのため難しいと感じていた。


「兄上、張良殿もまた秦打倒の志を持っている方です。自ずと旗を掲げて共に戦うこともあるでしょう。いずれ会うことが叶いましょう」


「そうだな。取り敢えずはお前の無事を喜ぶべきであろう」


「そうですとも叔父上」


 二人は喜んだ。それを見てふと、項伯はいずれこの二人が張良を怒らすことになるのではないかと思った。


 正確に言えば、項羽が後に張良を怒らすことになる。





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