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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び

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周章

 陳勝ちんしょうの勢力は勢いのままに各地への侵攻を行っていたが、周章しゅうしょうを派遣してから、彼は政治が混乱している秦を軽視して備えを設けようとしなかった。敢えて言えば、彼は自分の勢力を率いて周章の後方を担い、乾坤一擲の大勝負を仕掛ける方が打倒秦の旗を掲げる意味でも有効であったはずである。


 博士・孔鮒(孔子の八世孫。始皇帝が焚書を行った際、書籍を隠した)が陳勝を諫めた。


「私が聞いた兵法にはこうあります。『敵が我々を攻めないことに頼るのではなく、我々が攻められない状態であることに頼るべきで、敵に攻められないようにするべきである』今、王は敵に頼って自らの状況に頼ろうとしておりません。もし失敗して振るわなくなれば、後悔しても遅いでしょう」


 歴代の孔子の子孫では珍しくこの人は兵法書を読んで、戦略眼が多少ある人である。しかし彼の言葉に対して陳勝は、


「私の軍は先生が心配する必要はない」


 と言って聞き入れなかった。


 凄まじい勢いを保った状態で、周章は兵を集めながら函谷関に至った。


(かつて五カ国合従軍が攻めても落なかった場所だ)


 あの頃は楚には春申君しゅんしんくんがいた。項燕こうえんがいた。


(あれほどの方々でも秦には勝てず、私のようなものが生き残っている)


 かつての英雄たちはいない。しかし、その英雄たちが落とせなかった場所を今、まさに自分が落とそうとしている。


「かかれぇ」


 周章が叫ぶと軍は一斉に函谷関へ突撃を仕掛け、なんと短時間でこれを突破してみせた。


(誰もが成し得なかったことを……この私が……)


 感動する周章はその勢いのまま進撃を続け、車千乗、兵卒十数万を率いて戲(川の名。または邑名)に駐軍した。


「反乱軍が函谷関を突破しました」


 この報告は流石の胡亥こがいも聞き捨てならず、驚き、慌てて群臣たちにどうするべきかを問うた。


「なぜ、このようなことを早く教えなかったのか」


 胡亥はそう怒鳴ったが、群臣たちからすれば、


(何度も言ったが信じなかったではないか)


 早く対策を取ることは十分可能だったのである。それを怠ったのは胡亥である。そんな冷ややかな目を向けていく群臣たちの中ですっと立ち上がって進言した者がいた。


 少府に左遷されていた章邯しょうかんである。彼は言った。


「盗は既に来たのです。しかも衆強(人が多くて勢力が大きい)ですので、今から近県の兵を動員しても間に合わないでしょう。そこで驪山にいる徒(刑徒)たちの多くを釈放することを請います。彼らに兵(武器)を授けて撃たせるのです」


「おお、それは良い考えだ」


 胡亥が喜ぶ中、章邯は続けて言った。


「私は以前、将軍の位におりました。もし陛下にこれはという者がいなければ、どうかこの私にその軍をお与えになり、賊を駆逐せよと命じて下さいませ」


 章邯の言葉に胡亥は頷き、


「わかった。お前を秦の大将軍に任命する。賊を駆逐して参れ」


「仰せのままに」


 胡亥は章邯の意見に従って、天下に大赦を行い、章邯を送って驪山の徒や人奴(奴婢)が産んだ子を解放させた。


 章邯はこれらの人々を悉く動員した。


 副将には司馬欣しばきん董翳とうえいがつけられ、章邯は軍を率いて周章の軍に向かった。


(ああ、私は戦場に戻ってきた)


 懐かしい匂いがすると思いながら章邯は馬を駆ける。


(この風を受ける感触は私に戦場に戻ってきたことを実感させてくれる)


 この戦場こそがこの章邯の生きる場所である。


「そのためにも勝利しなければならない」


 周章の軍を見据え、そう呟いた章邯は目を見開き、


「突撃ぃ」


 突撃を命じた。章邯率いる秦軍と周章率いる楚軍がぶつかった。どちらも勢いのある軍であり、壮絶な激突となった。


「被害が大きくなってしまいます。策を儲けるべきではないでしょうか」


 司馬欣がそう進言したが、章邯は同意しなかった。


「回りくどい戦をしようとすれば、我が軍は混乱する」


 軍事訓練を受けた軍ではない。手足のように動かそうとすればそれだけで軍全体に混乱をもたらせ、勢いを削がすことになる。


 はっきり言ってこの戦は気力の勝負と言えた。


(周章……)


 反乱軍を率いている大将は周章というらしいことを知った章邯は目を細めた。


(かつて楚軍にいた男だ。そうかお前もこの乱世によって再び軍を率いることになったか)


 奇しくもこの乱世が訪れなければ対峙することはなかったはずであった二人である。


(お前も楚の英雄と戦場を駆け巡ったのだろう。私も英雄と戦場を駆け巡った。あれほど楽しいことはなかった。お前もそうだろう。わかるぞ)


 どちらも英雄の傍で戦い、戦場で生きた男である。


「もう二度と戦場を駆け巡ることはないと思っていた。しかし、再びこうして戦場を駆け巡る機会に恵まれたのだ。私たちは共に戦場に戻ってきた。さあ、周章。存分にやろうぞ」


 章邯は楽しかった。彼の人生を見回してもこの時ほどの喜びはなかっただろう。


 どちらも一歩も譲らずに来たが、崩れたのは周章の方であった。周章の付いて来た兵たちは今まで苦戦というものを知らなかった。そのためここで初めて苦戦をしてしまったことで、耐え切れず崩れた。


 戦場での経験が必ずしも軍を強くするわけではないのかもしれない。章邯の軍の兵たちは初陣であったからこそ、油断するほどの余裕がなく、周章の軍の兵には油断があった。


 周章の軍は破れて敗走し、函谷関を出た。


「この勢いのまま追いかけるぞ」


 章邯は勢いを殺さないため、追撃を決定し、周章の軍を追いかけた。














 張耳ちょうじ陳余ちんよが邯鄲に入った時、周章が破れたことを知った。


 また、陳勝のために各地を攻略した諸将であっても多くの者が帰還してから讒毀(讒言誹謗)によって罪を得て誅殺されているという噂も耳にした。


「これは早めた方が良いかもしれない」


「そうだな。陳勝の道連れになるわけにはいかない」


 二人は武信君・武臣ぶしんを説得して自ら王を称させた。


 八月、武信君が自立して趙王を称した。陳余を大将軍に、張耳を右丞相に、邵騷(「召騷」「劭騷」)を左丞相に任命した。そして、武臣は人を送って自立したことを陳勝に報告した。


「おのれ、武臣め」


 陳勝は激怒して武臣の家を族滅し、兵を発して趙を撃とうとした。


 しかし柱国・蔡賜(房君)が諫めた。


「秦がまだ亡んでいないにも関わらず、武信君らの家を誅してしまえば、もう一つの秦を生むのと同じです。これを利用して武信君を祝賀し、急いで兵を西に向けて秦を撃たせるべきです」


 陳勝は納得してこの計に従うことにした。


 まず武臣らの家属を宮中に移して軟禁し、張耳の子・張敖ちょうごうを成都君に封じた。それから使者を送って趙を祝賀し、併せて兵を発して西の関(函谷関)に入るように促した。


 張耳と陳余はこれを受けて武臣に言った。


「王が趙で王を称したのは、楚の本意ではありません。計があるから敢えて王を祝賀しているのです。もし楚が秦を滅ぼせば、必ずや兵を趙に向けることでしょう。王は西に兵を進めるべきではありません。北は燕・代の地を攻略し、南は河内を収めて自分の勢力を拡げるべきです。そうすれば趙の南は大河(黄河)を守りとし、北は燕・代を有すことになりますので、楚がたとえ秦に勝ったとしても、趙を制することはできません。また、もし秦に勝てなければ、必ずや趙を重んじます。趙は秦と楚の敝(疲労)に乗じて天下で志を得ることができるのです」


 武臣はこの計に納得して兵を西に出さず、韓広に燕を、李良に常山を、張黶に上党を攻略させることにした。


 陳勝はこの時点で武臣の勢力を使うのではなく、自らの兵を率いて周章の援護に向かうべきであった。しかし、それを難しくさせたのは、その兵力を各地に分散させてしまっていたことだろう。その結果、自ら動くための大軍を持てず、武臣らの独立を許すことになった。


 一方、張耳と陳余の言はどうだろうか。陳勝にあれほど西進して秦を打倒すべきと勧め、王を称してしまえば我欲の証明になってしまうと言ったくせに武臣には王になることを勧め、秦打倒ではなく、自らの勢力を保つための方策を授けている。


 自ら王を称していないから良いと考えているのであれば、それは甘いと言うしかない。


 陳勝らは秦打倒を掲げながら、その実がなく、先駆けでありながら志を果たす好機を失ったのはこのような点にあると言えよう。


 まだ、全力で秦打倒のために敗れたにしても周章の方が遥かに行動に美しさがある。その彼を誰も救おうとしなかった。彼らが志を果たせなかったのも無理はない。



次回は主人公の挙兵。


劉邦「やっと出番」


作者「因みにこの作品の主人公は劉邦と項羽。準主人公は張良、陳平、呂雉、薄姫って感じです(増える可能性もある)」



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