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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
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秦の政治体制

 丞相・王綰らが始皇帝に進言を行った。


「秦は諸侯を破ったばかりで、燕、斉、荊(楚)の地は遠く、治めるためには王を置かなければなりません。諸子を立てることを許可してください」


 始皇帝は群臣に命じて分封を議論させた。


 群臣の多くは分封に便があると考えたが、廷尉(法官)・李斯りしが反対した。


「周の文王と武王は多数の子弟や同姓を封じたが、後代の者は互いに疏遠になり、仇讎のように攻撃し合って諸侯が互いに誅伐するようになろうとも周の天子はそれを禁止できなかった。今、海内は陛下の神霊によって一統(統一)され、全て郡・県になった。諸子や功臣は公の賦税によって重く賞賜を与えれば容易に制御でき、天下に異意(謀反の野心)はなくなる。これこそ安寧の術というべきものである。諸侯を置くのは便がない(相応しくない)」


 その言葉を受けて、始皇帝は頷き、


「天下は共に休みない戦闘に苦しんできた。これは侯王の存在が原因である。今、宗廟のおかげでやっと天下を平定できたにも関わらず、再び国を立ててしまえば、兵乱を育てることになり、寧息を求めても得られるはずがない。廷尉の議が是である(李斯の意見が正しい)」


 こうして天下が三十六郡に分けられ、各郡に守、尉、監(監御史)が置かれた。郡守は郡の政治を行い、郡尉は郡守を補佐して軍事を担当し、監は郡内を監察する職務である。


 ここで三十六郡の名を上げることにする。以下のとおりである。


 三川、河東、南陽、南郡、九江、鄣郡、会稽、潁川、碭郡、泗水、薛郡、東郡、琅邪、斉郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、代郡、鉅鹿、邯鄲、上党、太原、雲中、九原、雁門、上郡、隴西、北地、漢中、巴郡、蜀郡、黔中、長沙の三十五郡と内史である。


 因みに周の制度では天子は方千里を治め、百県に分けた。一県には四郡があった。よって『左伝』では上大夫が県を受けとり、下大夫が郡を受け取るという形になっている。しかし秦が三十六郡を置いてからは、郡が県を監督することになった。


 今までの分封制によって建てられた諸侯の国は半独立状態であったが、郡県は中央政府に直属し、三十六郡の設置は封建制から中央集権制度への大きな変革となったのである。


 始皇帝は天下の兵器を首都・咸陽に集めた。


 因みに当時の兵器のほとんどは銅でできている。


 全国から集められた兵器は全て溶かされ、鍾と鐻(鐘を懸ける台)および金人(銅像)十二体が造られた。金人はそれぞれ重さ千石もあり、宮庭に置かれた。


 この当時、臨洮に十二人の大人(巨人)が現れたという。身長は五丈、足は六尺もあり、十二人とも夷狄の服を着ていた。兵器を溶かして造られた十二人の像は臨洮の大人を象徴していたため、「金狄」と呼ばれたという。


 銅人十二体はそれぞれ重さ三十四万斤(または二十四万斤)もあり、漢代には長楽宮の門前に置かれたが、後漢末になると董卓とうたくによって十体が破壊されて金銭とあった。二体は残されて清門裏に遷された。魏の明帝めいていが洛陽に運ぼうとしたが、重いため霸城で動かすのをやめた。


 東晋十六国時代になると石虎せきこ(後趙の武帝)が鄴に運んだ。しかし苻堅ふけん(前秦の宣昭帝)がまた長安に戻して溶解した。


 更に始皇帝は法制と度(長短)、衡(重量)、石(容量)、丈尺(長短)を統一した。


 これは一般に「度量衡の統一」と呼ばれる。度量衡の統一によって税制が全国共通になり、商工業の発展も促すことになった。


 また、車の軌(車輪の幅)を統一し(六歩にした)、書籍の文字も統一した。


 統一以前は馬車の規格が国によって異なっていたため、道幅もわだちも様々であった。これは各国間の交通の妨げになるため、車幅の統一は交通網の改善につながったのである。


 文字も各国が独自の漢字を使っており、地方によっては文字が違うため、統一した命令を下すことは難しかった。そのため秦は中央集権を強化するために、文字の統一を重要視したのである。


 秦の諸廟や章台(宮)、上林(苑)は渭水南にあった。


 始皇帝は諸侯を破るたびに滅ぼした国の宮室を模倣して咸陽城北の阪の上に宮殿を築き、それらの宮殿は、南に渭水を臨んだ。


 こうして雍門(雍門というのは漢代になってからの名称で、長安城西北の門のこと)から東の涇水と渭水が交わる場所まで、殿屋(宮室)、復道(閣道。上下二階建てになっている通路)、周閣(周囲を囲む楼閣)が連なった。


 それらの建物は諸侯から得た美人や鍾鼓で満たされた。


 また、木に綈繍(刺繍をした絹織物)を着せ、土に朱紫(赤や紫の顔料)を被せ、宮人は移る必要がないほどに決められた場所に配置されており、これらの宮殿は年を尽くして帰るのを忘れても、全てをまわることはできないほどの大きさであった。


 紀元前220年


 始皇帝は隴西、北地を巡遊し、雞頭山に至って還る途中、回中(回中宮)を通った。


 そして、信宮を渭水南に築いたが、完成してから極廟に改名した。極廟というのは天極(中宮天極星)を模した宮廟だったためである。


 極廟から驪山(酈山)に道を通し、甘泉宮(別名、雲陽宮。林光宮)前殿を築き、甬道(屋根がある通路)によって咸陽に繋げた。


 更に咸陽から天下に馳道(天子が車馬を駆けさせる道。大通り)を造って天下各地に及ばせ、東は燕・斉、南は呉・楚に至り、江湖や海に臨ませた。道幅は五十歩もあり、金属の椎(槌)で打ち固められた道の両側には青松が植えられた。


 凄まじい勢いで天下は整理されていったと言って良いだろう。しかし、その勢いの裏では多くの国民が駆り出され、労働を強いられている。


 乱世が終わったにも関わらず、国民の負担は益々大きなものとなっていたのである。


 



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