表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
17/126

陳勝・呉広の乱

 最近、リメイクされるアニメ作品が多いですね。リメイクは色々反感を買いやすいものですが、個人的には新しいファンが増えると思えば、リメイクは良いと考える方なのですが、最近そういったリメイク作品を見ていって、ちょっとその考えが揺らぎかねないものをいくつか見ることがありました。


 そのためリメイクはちょっとと思うことが多かったのですが、今日新しくリメイクされる作品を一つ見て、「ああこういう風で良いんだよな」と思えるのがあったので、今後もそういったリメイクされて少し変更点などがあっても面白ければ良いと改めて思いました。


 以上、私事でした。今回はやっとあの反乱の話です。

 秦によって万里の長城、始皇帝陵、阿房宮等の建築のために多数の民衆を徴集してきた。


 これにより家族は離散し、田畑は荒れ、政府に対する怨嗟の声が堪えなくなっていった。また、秦の苛酷な法も民衆を苦しめていた。


 始皇帝しこうていが生きている間はそういった不満も抑え込まれていたが、胡亥こがいはそれを抑え込むことができなかった。


「酒を飲み、女を抱く。ありとあらゆる金品に囲まれ好き勝手に生きる。これこそ皇帝の生活と言えるものだ」


 と言う胡亥である。その父・始皇帝は民への負担をかけていたが、その一方で同時にこれほど働き続けた皇帝もいなかった。その姿を見ていたはずの胡亥がこれでは民の爆発も無理はなかった。


 こうして中国史史上、初めての大規模な農民反乱である陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱が起きた。


 この反乱の主導者である陳勝は陽城の人で字を渉といい、呉広は陽夏の人で字を叔と言った。


 陳勝は若い頃、人に雇われて農耕をしていた。


 ある日、耕作の手を止めてあぜの上で休み、久しく失意と苦悩を抱き、一緒に雇われている者達にこう言った。


「もしも富貴になろうとも私たちは互いに忘れないようにしよう」


 それを聞いた雇われている者達は笑ってこう応えた。


「汝は雇われて耕している身である。どうして富貴になれようか」


 彼らに陳勝は嘆息すると、


「ああ、燕や雀のような小さな鳥には、鴻鵠(大鳥)の志が理解できないようだ」


 と言った。


 七月、秦が閭左(本編参照)の人々を徴集して漁陽の守りに就かせることにした。


 閭左とは閭里の左に住む人々のことである。秦代は富者が右に住み、貧弱の者が左に住むという形を取っていた。


 秦の役戍は多くが富者を使ったが、徴集し尽くしてしまったため、貧弱の者(閭左)を動員することになったのである。九百人が大沢郷に駐屯することになった。


 その際、陳勝と呉広も兵役に駆り出されて屯長に任命された。


 一行が任地に向かう途中、ちょうど大雨が降って道が通れなくなった。このままでは期日に間に合わず、期日に間に合わなかった場合、秦の法では全員斬首にされる。


 そこで陳勝と呉広が謀った。


「今の状況では、逃亡しても死ぬだけだ。大計を挙げても死ぬ。等しく死ぬというのであれば、国を図って死のうではないか」


 呉広の言葉に陳勝が頷き、


「天下は秦のために苦しんで久しい。私は二世が少子で即位するはずではなかったと聞いている。立つべきだったのは公子・扶蘇ふそだったのだ。しかし扶蘇はしばしば諫言したため、始皇帝が外で兵を指揮するように命じた。最近、ある人が言うには罪もないにも関わらず、胡亥によって殺されたそうだ。百姓は多くがその賢才を聞いていたが、まだその死を知らない。項燕こうえんは楚の将軍として度々功を立て、士卒を愛していたため楚の多くの人々に憐れまれている。ある人は項燕が死んだと言い、ある人は逃亡したと言っている。今、我が衆を率いて偽って公子・扶蘇と項燕を自称し、天下の唱(倡。筆頭)となれば、多くの者が呼応するだろう」


 と言った。呉広は納得してまず卜を行った。


 卜者は呉広の意図を知ってこう言った。


「足下の事は全て成り、功を立てられることでしょう。しかしながら足下は鬼に対して卜すべきです(鬼神の力を借りるべきです)」


 陳勝と呉広は喜んで鬼神を念じ、こう言った。


「これは我々にまず衆を威圧するように教えているのである」


 二人は帛布に「陳勝王」と丹書(赤い文字を書くこと)し、他者が置いた網にかかった魚の腹に入れた。


 戍卒が魚を買って調理すると、魚腹の中から書が出てきた。この出来事は怪事とされ、噂し合った。


 更に陳勝は秘かに呉広を駐屯地付近の叢祠(草むらの中にある祠)に送った。夜になると呉広は篝火を焚き、狐の鳴き声をまねてこう言った。


「大楚が興り、陳勝が王となる」


 戍卒は夜にこれを聞き、恐怖した。


 日が明けると戍卒中に噂が拡がり、皆で陳勝を指さして見るようになった。


 元々呉広は士卒の多くが呉広を慕っていた。


 ある日、将尉(尉は秦官。卒を率いる県尉)が酒を飲んで酔った。


 それを見て呉広はわざと何回も逃亡したいと発言して県尉の怒りを誘った。県尉に自分を辱めさせて大衆を激怒させるのが目的である。


 果たして県尉は呉広を笞で打った。


 この時、県尉の剣が抜いた。


 その瞬間、呉広は立ち上がって剣を奪うと県尉を殺した。陳勝も呉広を援けて二人の尉を殺し、陳勝が徒属を集めて言った。


「我々は雨に遭ったため、皆、既に期日を失してしまった。期日を失したら斬られる。たとえ斬られなかったとしても、戍になったら十分の六七が必ず死ぬだろう。そもそも、壮士は死なないのならそれまでだが、死ぬとしたが大名を挙げるべきだる。王・諸・将・相に種はない」


 徒属はそろって、


「恭しく命を受けます」


 と言いました。


 二人は民の望みに応えるために公子・扶蘇と項燕を称した。


 衆人が袒右(右肩を出すこと)して他の衆と異なることを示し、陳勝と呉広の勢力は大楚と号した。


 壇を築いて盟を誓い、尉の首を使って祭祀を行い、陳勝が自ら将軍に立ち、呉広が都尉になって大沢郷を攻めて攻略し、大沢郷の兵を集めて蘄県を攻めた。蘄も陥落させた。


 続けて陳勝と呉広は符離(地名)の人・葛嬰に兵を指揮させて蘄以東の攻略を命じた。葛嬰は銍、酇、苦、柘、譙を攻めて全て下していった。


 陳勝・呉広は行軍しながら兵を集めて陳に至った。この時には彼らの勢力は車六七百乗、騎千余、卒数万人に膨れ上がっていた。


 陳勝が陳を攻撃した時、陳の守尉が不在であった。つまりは陳での軍事を担う者がいなかったということである。守丞だけが譙門(高楼がある門)で戦ったが、陳城は攻略され守丞は命を落とした。


 こうして陳勝が入城して陳を拠点にした。


 この時の彼らの勢いについて漢の賈誼かぎの『過秦論(秦の過失を論じる文書)』で述べられている。


「陳勝は瓦甕で窓を作り、縄で戸を縛って閉めるような貧しい家に生まれた甿隸の人(身分が賎しい人。農夫)に過ぎず、遷徙(流浪)の徒であった。その才能は中人(普通の人)に及ばず、仲尼(孔子)や墨翟(墨子)の賢があったわけでも陶朱や猗頓(どちらも富豪)の富があったわけでもなかった。しかしながら行伍(士卒の行列)の間で足を運び、什伯(十百。わずかな人数)の中で立ち上がると罷散(疲弊散乱)した卒を率い、数百の衆を指揮して、身を転じて秦を攻めた。木を伐って兵器とし、竿を掲げて旗を作ると天下が雲集するように響応し、食糧を持って景従(影のように従うこと)した。こうして山東の豪俊が共に決起し、秦を亡ぼすようになったのである」


 陳勝には決して才能の欠片もなかったと辛辣なことを書かれているが、彼が秦に開けた風穴がなければ、数多の英傑の登場はなかった事を思えば、陳勝の歴史的な価値は貴重なものである。


 この大反乱に呼応し、数多の英傑たちが歴史に産声をあげ始めるのである。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ