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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
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 胡亥こがいは、


「先帝は咸陽の朝廷が小さかったために阿房宮を建造した。しかしながら室堂が完成する前に先帝は崩じられ、阿房宮の建造を中止して酈山(始皇帝陵)を築くことになった。酈山の事がほぼ完了した以上、再び始めるべきだ。なぜなら阿房宮の造営をあきらめてしまえば、先帝が始めた事業が過ちだったと表明することになってしまう」


 と言って、再び阿房宮の建築が始めた。


 胡亥は始皇帝の計策に倣って対外では四夷を慰撫しつつ材士(強壮な者)五万人を徴集して咸陽に屯衛させた。射術を教えて狗(犬)・馬や禽獣を捕まえさせた。


 このように多数の材士や狗馬を養ったため、食糧の消費が増えた。これによる食糧不足が予想された。そこで郡県に命じて食糧を調達させ、菽粟(豆や穀物)、芻稾(干草。飼料)を輸送させて、輸送する人夫には自分で食糧を調達するように命じた。


 至るところの食料を集めろと言いながら、自分たちの分を現地調達しろというのはどういうことなのか。また、咸陽の三百里内ではこれらの穀物・食糧を食べることが禁止された。


 このようなことをやりながら更に刑法も苛酷にし、更に阿房宮の建築である。民衆の負担はあまりにも大きくなり始めていた。


 そんな時、胡亥は朝廷でこのようなことを言い出した。


「私は一天万乗の君である。しかしながら、その実がない。故に私は、万乗の君たるにふさわしい様々なものを整え、我が尊号に相応しくしたいと考えている。私は決めた。都の咸陽の城壁全面に漆を塗り、我が威を示すのだ。これによって我が尊号を数多の民衆の目に映るようにするのだ。皆、どうであろうか?」


 ここの宮殿全体を漆で塗るというあまりにも突拍子もなく、どこからそのような資金や人員を出すのかといういった疑問が群臣たちの間で浮かんだが、そのことを誰も指摘しようとはしない。


 指摘してしまえば、処罰されることは確実であるからだ。


「仰せのままに」


 群臣たちはそう答えた。


 その時、ぱちぱちと手を叩く音が聞こえた。


「素晴らしいお考えでございます」


「何者か無礼であろうぞ」


 李斯りしがそう指摘した瞬間、彼は驚いた。そして、顔を青ざめ始める。その様子に趙高ちょうこうは違和感を感じて彼の視線の先にいる者を見る。同時に彼もまた驚き、青ざめる。


 群臣たちも同じように驚き、唖然とする。その様子に胡亥もまた、玉座の上から見て、驚きのあまり玉座から落ちそうになった。


「せ、先帝陛下……」


 趙高は口を震わせながらそう呟いた。そう今、ここにいる者たちの前に始皇帝しこうていが現れたのである。


 始皇帝はまっすぐ朝廷を歩いていく。そして、青ざめている趙高を見て、


「随分、偉くなったではないか。趙高」


 と言い放った。趙高は身体を震わせ、身を縮める。


 始皇帝はその様子に見ながら手を自らの顔に少し翳して、離すとそこには始皇帝の姿であったものはなく、別のものの顔が現れた。


「と、今のあなたを見たら先帝陛下はおっしゃることでしょう」


 目を細め、せんは鈴のような声でそう言った。


 群臣にざわめきが生まれる。数年前から屋敷に引きこもっていた男が突然、現れたのである。


「二世皇帝陛下。優・旃が陛下に拝謁致します」


「うむ、顔を上げよ」


「感謝します」


 未だ目をぱちくりしている胡亥がそういうと頭を下げていた旃が顔を上げた。


「先ほど、宮殿を漆に塗られるとお聞きしました」


「うむ、そうだ」


 旃は少し笑うと言った。


「素晴らしいお考えと言えましょう。私も以前からそう為さるべきであると思っていたところなのでございます」


「おお、そうであったか」


 群臣たちの間で旃への失望が生まれる。何をしに来たのかと思えば、自分の保身のために媚を売りに来ただけかと思ったのである。


「漆を宮殿、城壁全てに塗るとなりますと多くの人民は大変な思いをすることになりますが、いやあ実に壮大なる陛下のご威光を示すためであるのならば、そのようなことは無価値と言えます」


「そうだとも民は国に奉仕するのが義務なのだからな」


 父が目にかけていたという男が自分の意見に賛同してくれていることに嬉しくなっった胡亥は頷く。


「誠に壮大なことでございます……しかしまあ漆と言えば、とても滑りやすくなるものでございます」


「そうだな」


「とても滑りやすくなるため、賊が来ようとも城壁さえ登ることはできないでしょう」


「そのとおりだ」


 ここで旃は目を細めると言った。


「そうなりますと心配なことが一つできます」


「それはなんだ?」


 胡亥は旃の話に大いに興味を抱いている。胡亥の場合はここに持って行くまでが大変である。


「漆を塗る作業は、陛下のご威光をもってすれば決して難しいことではございません。しかしながら塗った漆は陰干しして乾かさなければなりません。雨が降ったりしますとせっかく漆を塗ったとしても台無しになってしまいましょう」


「確かに……」


「そこで漆が乾くまで、咸陽全体ががすっぽり入る部屋を作らないとだめです。しかし、この部屋を作るのが難しいような気がします」


 胡亥は咸陽全体をすっぽりと入る部屋を想像して、笑うと言った。


「実に壮大なことだ。私と言えどもそのようなものは作ることができないにはわかっている。漆を塗ることはやめることにしよう」


 群臣たちはそれを聞いてほっとする。そして、同時に旃がやめさせるために来たのではないかと思った。彼はあの始皇帝に意見を述べて無茶なことをやめさせ、多くの人民の負担を減らした人である。


「残念でございます。最後に陛下の威光を見たいと思っていたのですが……」


「最後とは?」


「実は此度、参りましたのは引退することを請うために来たのです。もう年でございますので」


「そうであったか」


 胡亥はちらりと趙高を見る。趙高は頷いた。できれば、旃にはいて欲しくない。


「良かろう。許可する」


「感謝します」


 旃は拝礼してから朝廷を後にした。











『旃よ。私の真似をすることはできるか?』


 せいは旃にそう問いかけた。


『それができないのです』


『ほう、なぜだ?』


『それがわかりません。尉繚うつりょう殿や王翦おうせん将軍もできませんし』


『そうであったか。なぜだろうな』


(そのような会話をかつて政様としていたが……)


 今は政の真似をすることができる。


(なぜでしょうね……)


 旃は宮殿の方を振り返る。


「このまま政様の秦は滅ぶのでしょうか……」


 胡亥との会話で改めてその予感は強くなる。


「政様……」


 天下を盗るまでの時間、その長い時間を思い、涙が流れる。


「政様……あなたは今の私に何を望みますか?」


 その呟きに答えるものはなかった。その時、後ろから数人の男たちが現れた。その手には剣が握られている。


「死ね」


 男たちは一斉に襲いかかった。しかし、旃はそれを避けると男の一人の手を握り締めそのままそれをひねって剣を奪いそのまま剣で他二人の首を飛ばす。そこまでの動作はまさに流れるようであり、五十代の男の動きではなかった。


「嘘だろ。なぜ、あんたそんなに動けるんだ」


「鍛え方が違う」


 旃は冷めた声で最後の男も殺した。そして懐を探るとそこから「盗」と書かれた石が出てきた。


盗跖とうせきか……」


 そう呟いてからその石を空家らしい壁に向かって投げつけた。


「出てこい」


「いやあ旦那。俺はあんたを殺そうなんて考えていないぜ」


 すると空家から出てきたのは不気味な風貌をした男であった。


「私は駟鈞しきんと申します」


 かすれた声を出す彼に旃は剣を向ける。


「待ってくだされ、私は確かに盗跖一派に属してはいます。しかし、今の七代目には恨みがあるんでさ。俺の父親が七代目に殺されましてね。まあ父親と言ってもあっちは知りませんでしたが……」


「それを信じろと?」


「信じるかどうかは別でございます。しかしながら盗跖の雇い主と動向を知りたくはありませんかな?」


 駟鈞の言葉に旃は剣を向けるのをやめた。


「ありがとうございます。雇い主は趙高でさ」


 これは旃の予想通りではある。


「今、趙高は俺らを使って秦の群臣たちの動向を探らせていましてね。粛清を行ったのも探った中で自分の危害を与えかねない者を胡亥を誘導して始末させました。そして、趙高の次の狙いは子嬰しえいです」


(子嬰……政様の若くして亡くなられた子の息子であったものだな)


「子嬰様と言えば、胡亥とはあまり仲が悪いとは聞いていない」


「胡亥はそうですが、趙高は違う。明らかに子嬰には自分への敵意があると思っているのさ」


(趙高は随分と変わったものだな……)


 以前は始皇帝に虐められることを喜んでいただけの男であったというのに、良くも悪くも権力は人を変えるということだろうか。


「わかった。信じてやろう。その代わり盗跖一派から抜けろ」


「それは……」


 駟鈞は言いよどんだ。盗跖一派から抜けるのは難しい。裏切り者として追いかけることが多いためである。


「盗跖一派と私、どちらを恐るか……今、選べ」


「わかりやした。盗跖一派から逃げることにしますぜ」


「それでいい」


 駟鈞はさっと頭を下げるとどこかへと去っていった。そして、旃は子嬰の元に向かった。


(政様は子嬰を守れと言っておられるのだろうか?)


 そう思いながら子嬰の前に現れた旃は彼に、


「あなた様にはこれから呆けてもらいます」


「は?」


 いきなりやって来た何を言いに来たのだろうかと思った子嬰であったが、


(この方の目は本気だ)


 ふざけて言っているようではないようだ。


「わかりました。しかし、理由をお聞かせください」


「化け狸の目を欺くためです」


 旃の言葉に子嬰は理解した。


(私は趙高に疑われているのか)


 子嬰は頷き、彼の言葉に早速従って、呆けるようになった。ただの呆け方ではなく旃の指導によるものである。それによって彼は趙高から敵意無しと見られなくなり始める。


「これで取り敢えずは子嬰は守れる。しかし……秦は……」


 旃がそう呟くように秦の崩壊の音が天下になり始めていた。



 

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