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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び

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醜さの極み

 紀元前209年


 胡亥こがい趙高ちょうこうを郎中令に任命し、政治を任せた。郎中令は秦の官で、宮殿の門戸を掌握することができる。


 続けて詔を下した。始皇帝の寝廟における犧牲と山川百祀の礼を増やすため、群臣に始皇廟を尊崇する方法を議論させるというものである。


 群臣が皆頓首して言った。


「古は天子に七廟、諸侯に五廟、大夫に三廟があり、万世経っても軼毀(破毀)しないものでした。今、始皇には極廟があり、四海の内(天下)が皆貢職(貢物)を献上しております。既に犧牲を増やし、礼が完備しているため、これ以上加えることはできません。先王廟はあるいは西雍(咸陽西の地名。または雍西県)にあり、あるいは咸陽にあります。天子の儀によるならば、自ら酌(杯)を奉じて始皇廟を祀るべきです。また、襄公以下の廟を軼毀して七廟だけを置き、群臣が礼によって祠を進めることにより、始皇廟を帝(秦の皇帝)の祖廟として尊ぶべきです。陛下は今後も先帝と同じく『朕』と称するべきです」


 胡亥は彼らの言葉を聞いた後、趙高と謀って言った。


「私は若く、即位したばかりであるため、黔首(民)がまだ帰心していない。先帝は郡県を巡行して強盛を示し、海内を威服させた。今、晏然(安定。何もしない様子)としたまま巡行しなければ、軟弱を示すことになる。これでは天下を臣畜(家畜のように服従させること)できないだろう」


 こうして春、胡亥は東部の郡県を巡行し、李斯りしが同行した。


 碣石に至ってから海に沿って南下し、会稽に入り、そこで始皇帝が立てた石碑に文字を刻んだ。従っていた大臣の名も石碑の傍に残して先帝の成功盛徳を明らかにした。


 刻文の内容は以下のようなものである。


「皇帝(二世皇帝・胡亥)が言った『金石刻辞は全て始皇帝が為した。今、二世が皇帝の号を継承したものの金石刻辞は始皇帝と称していない(皇帝としか書いていない)。久遠の時(長い時が経ってから)、後嗣が為した物と変わりがなくなってしまい、始皇帝の成功盛徳を称すことができなくなる』丞相臣・斯(李斯)、臣・去疾(馮去疾)、御史大夫臣・徳が死を冒して言った。『詔書(二世皇帝の言葉)を全て石碑に刻み、明確にさせてください。死を冒して請います』二世皇帝が制して言った。『可』と」


 こうして始皇帝が立てた石碑と胡亥以降の石碑が後世になっても区別できるようにした。


 胡亥は遼東に至ってから帰路に就きました。


 四月、胡亥は咸陽に戻ると趙高に言った。


「人生が世間にあるのは、六驥(六頭の駿馬)を駆けさせて決隙(隙間)を越えるのと同じことである。私は既に天下に君臨した。耳目が好む事をことごとく享受し、心志が楽しむことを極め尽くして我が年寿(寿命)を終えたいと思うが如何だろうか?」


 彼の言葉を更に意訳すると「自分は己の京楽を思う存分味わいながら暮らしたいと思っているがどうかね」ということである。明らかに国の頂点に立つべき者の言葉ではない。趙高はこれにこう答えた。


「それは賢主ができることであり、昏乱の主が禁じることです。とはいえ、まだそうできない事情がいくつかございます。それを私に説明させてください」


 正確に言えば、自分にとってではあるが、そのようなことを言わず、彼は言った。


「沙丘の謀(扶蘇ふそを廃して胡亥を擁立した陰謀)は諸公子と大臣が皆、疑いを持っています。しかも諸公子は全て陛下の兄であり、大臣も先帝が置いた者ばかりです。今、陛下は即位したばかりで、彼等の属意(意向)は怏怏として(不満な様子)皆不服であるため、変事が起きる恐れがございます。私は戦戦栗栗(戦戦兢兢)としており、良い終わりを得られないのではないかと恐れています。陛下はどうしてそのような楽(享楽)を得られることでしょうか?」


「それではどうすればいい?」


「陛下は厳法と刻刑(苛酷な刑罰)を用い、罪がある者には連座させ、大臣や宗室を誅滅なさるべきです。その後、遺民を集めて抜擢し、貧者を富ませ、賎者を貴くさせます。先帝の故臣(旧臣)を全て除き、陛下が親信する者に置き換えれば、陰徳(秘かに抱く恩徳)は陛下に帰し、害を除いて姦謀を塞ぐことができ、群臣においては潤沢厚徳(厚い恩徳)を蒙らない者はいなくなり、陛下は枕を高くし、志をほしいままにして享楽を得ることができます。これ以上の計はございません」


「わかった。やろう」


 胡亥は納得してすぐに法律を改めて、ますます苛酷で厳しい法律にし、大臣や諸公子で罪を犯した者は全て趙高の鞠治(審問処罰)を受けた。


 こうして公子十二人が咸陽市で僇死し(殺戮され)、十公主が杜(県)で矺死(体を裂く死刑)に処せられた。財物は全て県官に入り、連座して捕まった者も数え切れないほどいた。


 この時、公子・将閭の兄弟三人が内宮に捕えられていたが、刑が定まらず最後まで判決が残されていた。


 胡亥は使者を送って将閭にこう伝えた。


「公子は不臣であり、罪は死に値する。吏(官吏)が法を執行するであろう」


 将閭は憤りながら言った。


「闕廷(宮廷)の礼において、私は賓賛(典礼儀式を掌る官)に従わなかったことはなく、廊廟の位において、私は節を失ったことがなく、命を受けて応対する際であっても私は辞を失ったことがない(失言したことがない)。それにも関わらず、なぜ不臣であると申されるのでしょうか。罪を聞いてから死なせて下さい」


 使者は、


「私が相談に乗ることはできません。書(詔書)を奉じて事を行うだけです」


 と答えるのみであった。


 将閭は空を仰ぎ、


「天よ、天よ。天よ」


 と言ってからかっと目を見開き叫んだ。


「私は無罪である」


 そのまま兄弟三人は涙を流し、剣を抜いて自殺した。


 この事件は宗室を震撼させた。


 この事件で恐怖した公子・高が出奔しようとしたが、家族が逮捕されるのを恐れたためこう上書した。


「先帝が無恙(変わりがない。存命)の時、私は宮門に入れば、食を賜り、出たら輿に乗り、御府(内府)の衣も臣が賜り、中厩の宝馬も私が賜りました。私は先帝の死に従うべきであったにも関わらず、それができず、人の子として不孝であり、人の臣として不忠でした。不孝不忠の者は世に立つ名がありません。私は従死を請い、驪山の足(麓)に埋葬されることを願います。陛下の哀憐があれば幸いというものです」


 上書を読んだ胡亥は大喜びした。己の兄が死なせてくださいと言っていることに対してこの反応である。人とはこれほど醜くなれるのだということがよくわかる。


 彼は上書を趙高に見せて言った。


「これは急(困窮して道がなくなること)というものではないだろうか?」


 兄の悲しみの上書に触れてもこの猜疑心である。


「人臣は死を憂いて暇がありません。どうして謀をする余裕があるでしょうか。決して、道に窮して謀ったのではありません。死を憂いて余裕がない状態であるため、元々死にたいだけなのです」


 胡亥は公子・高の上書に同意し、銭十万を下賜して厚葬させた。


 次に胡亥は阿房宮の完成を急がせるなど民衆への負担を強いらせていく。もはや民衆の我慢が限界に達しようとしていた時、一人の男が秦の宮殿に向かって歩き出した。


 始皇帝の友人であったせんである。




 


 


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