漢の文帝
最終回
長安から代に使者がやってきた。
「群臣による話し合いにより、代王が漢王朝の新たな皇帝となることを決定したことをご報告します。長安に向かって頂きたく参りました」
招きを受けた代王・劉恒は動揺した。此度の呂氏誅殺の件を聞いており、斉王が新たな皇帝となるのだと思っていたのである。
(信じられない)
本来即位するべき斉王が即位するところで自分を招くというのはやはりそう簡単に信じられない。もしかすれば自分を殺すために招くのかもしれない。そのため彼は左右の者に意見を聞いた。
郎中令・張武らが言った。
「漢の大臣は皆かつて高帝の時代に大将だった者達であり、兵(軍事)に精通していて謀詐も豊富な者ばかりです。彼らの意志は今の地位に留まることではなく、常に異心を抱いています。ただ高帝と呂太后の威を恐れていただけです。最近、既に諸呂を誅殺し、京師(首都。京都)を血で染めたばかりです。今回、大王を迎えるという名分を掲げておられますが、実に信用できません。大王は病と称して赴かず、状況の変化を観察されるべきです」
(なるほど、斉王よりも傀儡にできるという視点の方が確実か)
劉恒がそう考えていると中尉・宋昌が進み出て言った。
「群臣の議は全て非(誤り)です。秦が政権を失ってから、諸侯・豪桀(豪傑)が並立し、自分が天下を得られると思っていた者は万を数えました。しかしながら最後に天子の位を踏んだのは劉氏であり、天下は望(野望)を絶ったのです。これが一つ目の理由です。高帝は子弟を王に封じ、諸侯王の地は犬牙のように入り組んで互いに天下を制しています。これは磐石の宗というものであり宗室の力は盤石ですので、天下はその強に服しています。これが二つ目の理由です。漢が興ってから、秦の苛政を除き、法令を簡約にし、徳恵を施しましたので、人心は自ら安定しており、動揺させるのは困難であり、謀反したところで民衆が支持しません。これが三つ目の理由です。呂氏は呂太后の威厳によって諸呂を三王に立て、権力を独占して専横しましたが、太尉(周勃)が一つの符節を持って北軍に入り、一呼しただけで、士は皆左袒して劉氏のために働き諸呂に叛しました。こうして呂氏は滅ぼされたのです。これは天に授けられたのであり、人の力によるものではありません。今たとえ大臣が変事を欲したとしても、百姓を使うことができないにも関わらず、その党を専一(統一)できると思いますか。それに今は内に朱虚(劉章)や東牟(劉興居)といった親(宗族)がおり、外に対しては呉・楚・淮南・琅邪・斉・代の強大な諸侯を畏れています。しかも高帝の子は淮南王と大王しかおらず、大王は年長で賢聖仁孝が天下に聞こえています。だからこそ大臣は天下の心に順じて大王を迎え立てようと欲しているのです。大王が疑う必要はありません」
劉恒は自分で判断がつかないため、母・薄姫にも報告して方針を計った。
「そうですね、少し慎重であるべきだとは思いますが……」
薄姫も中々決断に躊躇した。そこで卜をすると「大横」の兆が出た。占(繇。卜辞)にはこうでた。
「大横庚庚,余為天王,夏啓以光。」
最初の「大横庚庚」の「庚庚」は「横になっている様子」または「更(代わる)」を意味する。「更」と解釈した場合は、諸侯の代王が天子になることを予言しているものになる
この「大横」を「横行」と解釈する説もあり、「横行」とは「前進して阻む者がいない」という意味になる。
「余為天王,夏啓以光」の部分は直訳で、「私が天王になり、夏啓が光を発する」となる。
太古の五帝は禅譲によって天下を賢人に継承させたが、夏王朝になって世襲が始まった。夏の啓は夏王朝の始祖・禹の子で、始めて世襲によって帝王になった人物である。啓は禹の後を継いで先人の大業に光を放つことができたという。
よって「余為天王,夏啓以光」は「代王が天王になって高帝の業を継げば、夏啓と同じように光を放つことができる」と解釈できることになる。
劉恒が問うた。
「私は元々王である。また何の王になるというのか?」
卜人はこう答えた。
「天王というのは天子を指すのです」
この卜い結果を聞いて、薄姫はあの予言を思い出す。
(これはもはや息子が皇帝になるということに……)
だが、ここで焦るべきではない。薄姫は弟の薄昭を劉恒の指示として長安に派遣して絳侯・周勃を訪ねさせた。
「慎重しすぎる。こちらを疑っているようだ」
周勃は陳平にそう言う。
「慎重になるのも問題はない。こちらは親身に理由を述べるしかない」
周勃らは薄昭に代王を迎え入れて擁立したいという意思を詳しく説明した。
薄昭は還って、
「信用できます。疑うことはありません」
と報告した。
劉恒は笑って宋昌に、
「あなたの言った通りになったようだ」
と言った。
劉恒は上京する前に使者を送って一度辞退した。それから二度目の使者が来てから、宋昌に参乗(馬車に同乗する者)を命じ、張武ら六人を伝車に乗せて長安に向かった。伝車を使ったのは漢朝で変事があったら駆けて還るためである。
劉恒は高陵(高帝陵)に至って休止し、宋昌を先に長安に駆けさせて様子を伺った。
宋昌が渭橋に来た時、丞相以下群臣が出迎えに来た。宋昌が戻って報告し、劉恒が渭橋まで駆けた。
群臣が劉恒を拝謁して臣と称した。代王は車から下りて答拝した。
太尉・周勃が進み出た。
「単独で話をさせてください」
すると宋昌が言った。
「話の内容が公の事であるのならば、公の場で話してください。話すことが私事であるのならば、王者には私情はありません」
周勃は跪いて劉恒に天子の璽と符を献上した。
しかし劉恒は辞退して、
「代邸に至ってから議論しよう」
と言った。
劉恒は長安に入って代邸に住んだ。群臣も従って代邸に集まった。
丞相・陳平らが再拝して言った。
「丞相・陳平、太尉周勃、大将軍・陳武または「柴武」)、御史大夫・張蒼、宗正・劉郢。朱虚侯・劉章、東牟侯・劉興居、典客・劉揭が再拝して大王に進言いたします。子弘(後少帝・劉弘)等は皆、孝恵帝の子ではなく、宗廟に奉じるべきではありません。我らは謹んで陰安侯、列侯頃王后および琅邪王(劉沢)、宗室、大臣、列侯、吏二千石に討議を求め、大王が高帝の長子(年長の子)であるため、高帝の嗣(後継者)となるべきだと決めました。大王が天子の位に即くことを願います」
陰安侯は劉邦の兄・劉伯の妻で、羹頡侯・劉信の母である。
列侯頃王后は劉邦の兄・劉仲の妻である。劉仲は代王であったが、郃陽侯に落とされた。しかし劉仲の子・劉濞が呉王になったため、頃王に追尊された。「頃王后」の前に「列侯」とあるのは劉仲が生前は郃陽侯だったことを指す。
劉恒が言った。
「高帝の宗廟を奉じるのは重大な事である。私は不佞(不才)であるため、宗廟を奉じるのは相応しくない。楚王(劉邦の弟・劉交。皇族の中で最も高い地位にいる)に相応しい者を考えていただきたい。私には荷が重すぎる」
しかし群臣は皆伏せて頑なに請うた。
劉恒は西を向いて三回辞退し、更に南を向いて二回辞退した。
劉恒が代邸に入った時、朝廷の群臣も従った。劉恒は賓主(賓客と主人)の礼によって西を向いて座っている。主人は東側(下座)に坐り、賓客が西側(上座)に坐るのが賓主の礼であるため、東側に坐った劉恒は西向きになる。
この状態で群臣が即位を勧めたため、劉恒は西を向いて三回辞退したのである。しかし群臣は納得せず、彼を南向きに坐らせた。北側に坐って南を向くのは天子、南側に坐って北を向くのは臣下の席である。
劉恒は天子の席に座らされたが、それでも二回断った。
陳平らがそろって言った。
「我らが伏して計るに、大王が高帝の宗廟を奉じることこそ最も宜称(相応であること。ふさわしいこと)であり、天下の諸侯万民においてもそれを宜(相応)と考えております。我らは宗廟社稷のために計っており、疎かにするつもりはありません。大王が幸いにも我らの意見を聴くことを願います。私は謹しんで天子の璽符を再拝献上いたします」
劉恒はついに言った。
「宗室・将相・王・列侯の中で私よりもふさわしい者がいないというのならば、私は敢えて辞退しない」
こうして劉恒がついに同意して天子の位に即いた。これを漢の文帝という。
群臣が礼に則って新帝の前に並んだ。
東牟侯・劉興居が言った。
「呂氏誅滅においては、私は無功でした。除宮(清宮。殿中を清めること)は私にやらせてください」
現在、斉王のことが警戒されているためここで慎みを表す行動を行うというわけである。
劉興居は太僕・夏侯嬰と一緒に入宮し、後少帝の前まで来て、
「あなたは劉氏の子ではないから立つべきではない」
と言った。
劉興居は振り返って左右の執戟の者(皇帝の衛士)の方を向き、武器を捨てて去るように命じた。しかし数人は武器を棄てようとしなかった。宦者令・張釋(大謁者・建陵侯)が説得してやっと武器を棄てた。
夏侯嬰が乗輿車を招いて少帝を宮殿から連れて行った。
乗輿車は天子が乗る車で、六頭の馬が牽き、豪勢な装飾がされているものだが、既に文帝が即位していることから、この車は天子が普段移動するときに使う「小輿」のことであると思われる。
少帝が問うた。
「私をどこに連れて行くつもりか?」
夏侯嬰は、
「宮殿を出て住んでもらう」
とだけ答えて少府に住ませた。
その後、劉興居と夏侯嬰が天子の法駕(天子の車と儀仗の形式)を準備し、新帝を迎えるために代邸に行った。
劉興居と夏侯嬰が報告した。
「宮殿をきれいにしました」
文帝はその夜、未央宮に入った。
しかし謁者十人が戟を持って端門(未央宮前殿の正南門)を守っており、
「天子がおられます。あなたは何をするために入るのですか」
と言って制止した。
文帝が太尉・周勃に状況を話し、周勃に説得させた。やっと謁者十人は武器を棄てて去った。
文帝が宮中に入った。
既に日は落ち、夜となっていた。
「夜のうちに即位か。まあ私らしいな」
文帝は苦笑すると、宋昌を衛将軍に任命して南北軍を鎮撫させた。
張武を郎中令に任命し、殿中の事務を管理させた。
その後、有司(官吏)が人を分けて梁王・劉太、淮陽王・劉彊、恒山王・劉朝と少帝・劉弘をそれぞれの邸で殺したことが報告された。
「難しいものだな」
それでも血の量は少ないと思うしかない。
文帝は未央宮前殿に戻って座り、夜の間に詔書を下した。
「丞相、太尉、御史大夫に制詔する。最近、諸呂が政治を行って専権し、大逆を謀って劉氏の宗廟を危うくしようとしたが、将相・列侯・宗室・大臣に頼って誅滅することができ、全てその辜(罪)に伏させた。私は即位したばかりなので、天下に大赦し、民に爵位一級を、女子には百戸ごとに牛酒を下賜することにしよう。五日間の大宴を許可する」
当時、庶民が多く集まって勝手に宴を開くことは禁止されていた。謀反を疑われるためである。そのため五日間とはいえ、宴を開くことは大赦と言うべきものである。
皇帝となって最初に放った民への思いやりを表したものであった。
長年に渡る戦乱の傷を癒す時代の到来を告げる詔であったと言える。
漢の礎が為され、漢王朝の時代がここから始まるのである。
「多くの人たちが築いたものを活かしていかねばな」
文帝は夜空に輝く多くの星々を眺めながら、そう呟いた。
次回作は取り敢えず、光武帝の話である『銅馬が征く』(仮)と前漢物語として『蛇足伝』で書こうかなと思っています。
どちらも早ければ明日、少なくとも近日中に書いていこうと思っています。