呂雉
紀元前180年
十月、東平侯・呂通(呂粛王・呂台の子)を燕王に立てて、呂通の弟・呂荘を東平侯に封じた。
三月、呂雉が祓(御祓いの儀式)を行った。
呂雉は還る途中で軹道を通った。すると蒼犬(蒼は深い青、または灰色)のような物が現れた。その蒼犬は彼女の脛にぶつかってから突然、姿を消した。
不思議に思った彼女はこの出来事を卜うと、
「趙王・如意が祟りを為している」
と出た。その後、彼女は腋に病を患った。
呂雉は前から外孫の魯王・張偃(張敖と魯元公主の子)が年少孤弱であることを憐れんでいた。
そこで四月、張敖の姫妾が産んだ二子のうち、張侈を新都侯に、張寿を楽昌侯に封じた。二人に魯王・張偃を助けさせるためである。
中大謁者・張澤を建陵侯に封じ、諸呂の封王を進言した功績を賞した。
新都侯・張侈、楽昌侯・張寿、建陵侯・張澤とも呂氏の権勢を固めるための封侯である。
更に呂榮(または「呂瑩」)を祝茲侯に封じた。呂榮は呂雉の兄弟の子である。
宦者の令丞を全て関内侯(列侯の下の爵位。実際の封地がなくて租税だけを得る爵)に封じ、食邑五百戸と定めた。
令は官署の長、丞は補佐である。
七月、呂雉の病がひどくなり始めた。
そこで、趙王・呂禄を上将軍にして北軍を指揮させ、呂王・呂産に南軍を指揮させた。実際は前から支配していたが、ここで正式に決定を下したのである。
呂雉は二人を呼び、戒めるように言った。
「高帝は天下を定めてから大臣と約束して『劉氏ではない者が王になった時は、天下が共に撃つ』と言いました。今、呂氏が王になっていることに大臣は不満を持っています。私はもうすぐ崩じ、帝はまだ年少であるため、大臣が変を為す恐れがあります。必ず兵権を掌握して皇宮を守りなさい。決して送喪(葬送)のために人に制されるというようなことになってはなりませんよ」
(言いたいことは言った……あとはこいつ次第ね……)
やりたいことはやり抜いた。後悔は無い。そう思いながら彼女は目を閉じた。
呂雉が未央宮で死んだ。
遺詔によって諸侯王にそれぞれ千金を与え、全ての将相・列侯から郎吏に及ぶ官員にも秩にあわせて金を下賜した。また、天下に大赦し、呂王・呂産を相国に、呂禄の娘を帝后(皇后)にした。
「皇太后が死んだ……」
薄姫はこの報告にほっと安堵する。
「これでなんとかなる」
彼女が生き続けている間、生きた気がしなかった。
「でも、寂しくもある……」
彼女がいたからこそ、自分は必死に生き抜こうとしたのだと思ったのである。
「それに……」
まだ、呂雉の元にいた頃のことを思い出した。
『ねぇもし男だったら、あなたはどういう人生を歩んだと思う?』
ある日、呂雉はそんなことを聞いてきた。
(前は群雄の一人になれるとか思ってたなあ)
薄姫は魏の元にいたことを思い出しながら、言った。
『それはわかりません。あまり考えたことも、奥方様はどうですか?」
『私だったらねぇ』
呂雉は目を細めながら言う。
『あの人と一緒にどこまでも付いて行ったかな。戦場でもどこでも、ずっと……それで一緒に悩んで、一緒に笑って、一緒に泣いて……どこまでも一緒に……』
その時の彼女の表情はどこか寂しそうで、どこか楽しそうに見えた。
『なんで、こんな話したのかしらね』
彼女は微笑みながら自分を見た。
『あなたなら…‥きっとわかってくれるって思ったかしらね…‥』
「わかりますよ、奥方様……その気持ちはわかります……」
薄姫は呂雉の良さを思い返しながら、目をつぶり、彼女の死を悼んだ。
「皇太后がついに死んだか」
陳平は報告を聞き、ついに好機が来たと感じた。これで後は呂氏を始末し、後継者決めをどうにかするだけである。
「旦那様、お客様です」
そこに配下から客人が来たことを知らされた。陸賈では無さそうである。もし陸賈であれば、配下たちは苦い顔をする。以前、この屋敷に勝手に入ってきた時、配下が止めるのを拳で殴りつけて気絶させながら進んだというため、よほどの奇人だと思われている。
「ここへ」
「承知しました」
呼ぶように言いつけてから配下が連れてきた男を見て、陳平は驚いた。
帝太傅・審食其であったためである。
「これはこれは、意外な客人ですな」
陳平は取り敢えず、彼を座らせる。
「皇太后様の言葉を伝えに来た」
「ほう、何でしょうか?」
「高帝の最後の言葉をお伝えする。『民だけは敵に回すな』というものです」
劉邦の最後の言葉をなぜ、呂雉が伝えてきたのかがわからない。困惑する陳平は言った。
「なぜ、皇太后はそれを?」
「皇太后はこう言っておられた。それを次の皇帝に伝えて欲しいと」
ますますわからなくなる。一体、何が言いたいのだろうか。何を伝えたいのだろうか。
「おっしゃっている意味がわかりませんなあ」
「私もだ……」
審食其は肩をすくませる。
「ただ、皇太后は聡明な方だったからなあ」
彼は苦笑する。
「そして、こうも言っておられたぞ。皇帝にするなら代王にしたらどうかと」
陳平は眉をひそめる。
「まあ、あなたがどう思うかはあなた次第だ」
審食其はからからと笑いながら去っていった。それを眺めながら、陳平はつぶやいた。
「今になって、皇太后という人がわからなくなった」
それでもやることは変わらない。それでいいと陳平は思った。