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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第一部 動乱再び
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崩御

 紀元前211年


 熒惑が心に留まった。


 熒惑は火星のことで、戦を象徴する。心は二十八宿の心宿で皇帝を表す。そのためこれは皇帝の崩御や動乱の予兆と考えられていた。


 更にこのようなことが起きた。東郡に隕石が落ちたのである。


 黔首(民)の誰かがその石に、


「始皇帝が死せば、地が分かれる」


 と刻んだ。


 それを聞いた秦の始皇帝しこうていは御史を派遣して犯人を捜したが、誰も認めなかった。激怒した始皇帝は隕石が落ちた付近の居人が全て捕えられ、誅殺した。石は焼き捨てられた。


 このようなことから不快になった始皇帝は博士に『仙真人詩』を作らせた。天下を遊行した時、至る所で楽人にそれを謌弦(演唱)するように命じた。


 秋、関東から使者が来た。夜に華陰の平舒(地名)を通った時、ある者が璧を持って道を遮り、使者にこう言った。


「私のためにこの璧を滈池君(滈池の水神)に届けてください」


 璧を持った者はそう言って渡すと使者に言った。


「今年、祖龍が死にましょう」


「祖」は「始」を表し、「龍」は人君の象徴であるため「祖龍」は始皇帝を指すことになる。使者が理由を問いたが、その者は突然、姿を消した。使者は璧を持って始皇帝に報告した。


 始皇帝は久しく黙って考え、


「山鬼が知ることができるのは一歳(一年)の事に過ぎない」


 と言い、退いて、


「祖龍とは人の先(首領)のことであろう」


 と言った。


 御府に璧を調べさせるとかつて始皇帝が長江を渡った時に沈めた璧であった。そこで始皇帝が卜を行ったところ、游徒(遷移)が吉という卦が出た。


 始皇帝はこれにより、出游することにした。


 紀元前210年


 始皇帝が出遊した。左丞相・李斯りしが従い、右丞相・馮去疾ふうきょしつが咸陽を守る。始皇帝には二十余人の子がおり、少子・胡亥こがいが最も愛されていたため、胡亥が随行を請うと始皇帝はこれを許した。


 始皇帝たちが雲夢に至り、九疑山で舜を望祀(山川を望んで行う祭祀)した。九疑山は舜が埋葬された場所と言われている。


 その後、長江を船で下って藉柯(地名)を観察してから江渚(長江の中洲)を渡り、丹陽を経由して銭唐に至って、浙江に臨んだ。しかし、江水が大きく波打っていたため、西に百二十里移動して川幅が狭くなっていた餘杭という場所を渡った。


 それから会稽山に登って禹を祭り、南海を望んだ。会稽山には禹の墓穴と廟がある。始皇帝はそこに石碑を立てて徳を称賛した。


 帰路、呉を経由した。その道中を眺めていたのは項梁こうりょう項羽こううであった。


 二人は頭を下げて、始皇帝が通るのを待っていたが、項羽は始皇帝の列を見ながら言った。


「いずれ取って代わってやる」


「これ、妄言を吐くではない」


 項梁は慌てて彼を口を塞ぎ、頭を下げさせる。その間も項羽は始皇帝を呪った。彼はこの時、二十代であるが、若者のような明るさが無く、陰湿で粘着質である。


 始皇帝の動向に戻す。その後、始皇帝は江乗(県名)で長江を渡り、海に沿って北上して琅邪に至った


 かつて方士・徐福じょふくらは海に入って神薬を求めていたが、数年経っても得られず、出費がかさんだ。


 彼らは譴責を恐れたため偽ってこう言った。


「蓬莱の薬を得ることはできます。しかしいつも大鮫魚(サメというよりワニという表現が近いと思われる)に苦しめられているため、蓬莱に到着できないのです。射術を善くする者を同行させ、見つけたら連弩で射させてください」


 この頃、始皇帝は海神と戦う夢を見ていた。その姿は人のようであったため、夢を占う博士に言うと、


「水神を見ることはできません。大魚や蛟龍がその候(兆候)となります。今、陛下の禱祠(祈祷や祭祀)は周到で恭謹ではございますが、このような悪神が現れました。悪神を除くべきです。そうすれば善神も訪れることができましょう」


 そこで始皇帝は海に入る者に巨魚を捕まえる道具を持たせ、自ら連弩を準備して大魚を射る機会を待った。しかし琅邪から北に移動して榮成山(成山)に至っても見つけることはできず、徐福は逃げ出した。


 始皇帝が之罘(地名)に至った時、巨魚を見つけ、始皇帝は一魚を射殺した。その後、黄河に沿って西に進み、平原津に入った時、病を患った。


 以前から始皇帝は死という言葉を嫌っていた。そのため、群臣は死に関する事を口にできず、後継者について何も話し合うことができておらず、この時まで後継者は正式に決められていなかった。


 しかしながら病がますますひどくなり、死期を悟った始皇帝は中車府令行符璽事(「中車府令」は官名。「行符璽事」は符節印璽の管理を兼任するという意味)・趙高ちょうこうに命じて扶蘇ふそ宛の書信を書かせた。


「喪に参加せよ。咸陽で霊柩に会ってから葬儀せよ」


 これは上郡に派遣した扶蘇に喪を主宰させるという内容で、後継者に認めたことになる。


 璽書は封をして趙高がいる場所(「行符璽事所」。符璽の管理を行う場所)で保管された。しかし、趙高は結局、使者を扶蘇の元には送らなかった。


 それを知らないまま始皇帝は意識が朦朧とし始めた。


「私は死ぬのか。この私が……」


 身体を起こすこともままならず、手を上に向かって伸ばすだけである。


「我が国の永遠を……永遠なる時を……せん……よ、共に……」


 始皇帝の腕が力無く降りた。


 悲しい缻の音が響く屋敷で、缻を叩いていた旃はふと上を見上げ、


せい……様……」


 と呟いた。


 










 七月丙寅(二十日)、始皇帝は沙丘宮の平台で死んだ。享年は五十歳である。彼は歴史上、初めて中華統一を成し遂げた皇帝であった。同時に彼は国家を一つの組織機関であり、君主はそれを動かす歯車に過ぎないと考えた人でもあった。


 そして、始皇帝という歯車の動きを潤滑にするため法家思想を元にした法体制をもって、国家運営を行った。しかし、始皇帝という歯車はあまりにも大きく、その歯車が外れてしまったことにより、秦という国家組織は機能を失っていくことになる。


 始皇帝は永遠の国を作ろうとした。しかし、彼の死によってその永遠の国は幻となった。そして、時代は新たな動乱の嵐が吹き荒れようとしていた。




 

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