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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第三部 漢の礎
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恵帝

 紀元前191年


 恵帝けいていは張氏を皇后に立てた。


 張皇后は恵帝の姉・魯元公主(元趙王・張敖の妻)の娘である。呂雉りょちの意思によるものは言うまでもない。彼女は外戚・呂氏の地位を固めるために血縁関係が近い張氏を恵帝に嫁がせたのである。


 恵帝は正式な朝見以外でも母・呂雉に謁見しており、頻繁に長楽宮を往復した(本来、皇帝は未央宮にいるものである)。その都度、警蹕(皇帝が通るために道を清めて通行を禁止し、皇帝を警護すること)が必要なため、民を煩わせることになっていた。


 そこで恵帝は武庫の南に複道を築くことにした。武庫は長楽宮と未央宮の間に位置するところにある。


 これに奉常・叔孫通しゅくそんとうが諫めた。


「そこは毎月、先帝の衣冠を出游させる道でした。子孫がどうして宗廟の道の上を歩くことが許されるのでしょうか」


 これは「遊衣冠」という漢代の儀式である。当時は毎月初一日に劉邦りゅうほうの陵寝(陵墓)から衣冠を出して高祖廟まで運ぶことになっていた。恵帝はこの「遊衣冠」で通る道の上に複道を造ってしまったのである。


 恵帝は恐れて、


「すぐに壊せ」


 と命じた。しかし叔孫通はこう言った。


「人主には過挙(誤った行動)がないものでございます。複道は既に完成しており、百姓も皆知っております。陛下は原廟(正廟以外の廟)を渭北に造り、そこで毎月衣冠を出遊させる儀式を行ってください。宗廟を拡大することにもなりますので、大孝の本にすることができます」


 恵帝は彼の意見を受けて、有司(官員)に詔を発して原廟を建てさせることにした。


 この出来事に対して『資治通鑑』の司馬光しばこうが批判した。


「過ちとは人ならば、避けられないものである。しかしながら聖賢の者だけは過ちを知って改められるものだ。古の聖王は、自分に過ちがあることに気がつかないことを憂い、誹謗の木(批判を書くための標札)を設けて敢諫の鼓(諫言する時に敲く太鼓)を置いたのである。古の聖王で百姓に過ちを聞かれるのを畏れた者がいただろうか。だから仲虺ちゅうき(商王朝の名臣)は湯王とうおうを称賛して、「過ちを改めて惜しまないものだ」と言い、傅設ふえつ高宗こうそうを戒めて、「過ちを人に知られることを恥じ、そのままにしてはならないものだ」と言った。これらのことを鑑みるに、人君となる者は過ちがないことを賢とするのではなく、過ちを改めることを美とするのである」


 これは「過ちてこれを改めざる、是を過ちという」という『論語』の言葉を意識したもので、彼は最後にこう述べている。


「今回、叔孫通は恵帝を諫めて『人主は過挙がない』と申したが、これでは人君に過失を粉飾して非(罪)を犯させることになるため、大きな間違いである」


 叔孫通の言葉を彼は詭弁と評価したのである。
















 代の王宮でじっと玉座に座り、臣下たちの報告を聞いているのは代王・劉恒りゅうこうである。


 彼は正直言って、大人しい人である。臣下たちとしては可もなく不可もなくという人で、発言も少ない彼の器量を未だに把握しきれていなかった。


 来たばかりはもう少し発言することもあったのだが、劉如意りゅうにょいが死んでからは言葉が少なくなった。そして、それから一つ変わったことは食事の際に肉を食さないということであった。


 彼の唯一の兄・劉如意への敬意であったとも言えるだろう。


 そんな彼が朝廷を終えて、部屋に戻った。使用人が立ち去ると彼は服を着替えた。そして、扉を開き、辺りに人がいないことを確認すると部屋を出た。


 最近、彼は一人で部屋から出て、宮中を散策することが日課になっていた。兄を失うという悲しみを紛らわせる行動に近かった。


 流石に外に出ようとは思わないが、宮中を誰にも見つからずに歩くというものも中々の緊張感で楽しさを覚えている。そのため彼は常に周りを警戒しながら、歩いていく。


 しかしながらこの楽しみも途中で中断することが多い。


「王、どこにおられますか」


 目付役の宋昌そうしょうの存在である。彼は宋義そうぎの孫である。


「このようなところにおられましたか。さあ部屋に戻りますぞ」


「やだ」


 劉恒は従おうとしないが、宋昌はそれでも彼を連れて行く。


「王、あなたは高貴なお方、一人で行動することは許されません」


 小言が続く中、劉恒は目を細める。


 彼にとっては高貴と呼ばれても違和感を感じる。確かに自分は劉邦の子である。しかしながら特に愛されたことも特別扱いされたわけでもない。別に望んでいるわけではない。それでも彼は兄弟たちへの思いがある。


「高貴だからこそ、命が狙われる……」


 その呟きが宋昌に聞こえた。


「それだけ責任があるということです」


「兄が死んでも悲しめない責任なんていらない……」


 劉恒という人は後々を見てわかるが兄弟への親愛の情が強すぎるところがある。


「かつて、この地より少し南の方に晋という国がありました」


 宋昌は静かに話し始めた。


「その晋を大国にまでお仕上げた名君に文公ぶんこうという方がおられました。文公は父から憎まれ、他国に逃れることになりましたが、兄と弟が亡くなり、最後には即位することができました。この方が即位できたのは天命でした。あなたも天命をお持ちなのかもしれません」


「私が皇帝になるということか?」


「そうです」


 劉恒は鼻で笑った。


「そんなことはありえない」


「ありえないということがありえません」


 宋昌の言葉を聞いて不思議そうに彼の顔を見る。


「その方が考えていて楽しいではありませんか。あなた様はもし皇帝になったらどのような皇帝になりたいですか?」


 その言葉を聞いて、劉恒は少し恥ずかしそうにいった。


「もし、皇帝になったら……皆が少しでも笑顔にできたらいいなって思うよ」


 劉恒の言葉に宋昌は微笑む。


「ならば、それに近づけるようにならねばなりませんね。さあ部屋に戻りますよ」


 引きずられながら、劉恒は思う。


(皇帝か……)


 すっと手を伸ばし、すっと引っ込めた。届きそうで怖かったのである。
















 ある夜の頃、斉の宮中のある部屋で、男の前に書簡が届けられる。そこには斉王・劉肥りゅうひの殺害を指示された内容が書かれていた。


「さあ、殺すか」


 男は……駟鈞しきんは微笑む。


 一方、劉肥の元にも報告がもたらされる。


「そうか、皇太后が駟鈞に……」


 劉肥は配下に下がるように言うと、剣を鞘から抜き、剣身を眺める。


「父上……肥は……」


 彼は剣を鞘に収めた。










 黄色い服の男、黄石こうせきが呟く。


「歴史を作るのは天か人か……」





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