漢の相国
相国・酇侯・蕭何は病にかかり、床に伏せていた。
心配した恵帝は自ら蕭何の様子を視に行き、こう問うた。
「君が百歳となった後(死んでから)、誰が君に代わることができようか?」
蕭何は起き上がらずに答えた。
「臣下を知る上で、主に勝る者はおりません」
そう言われては答えるしかない。恵帝は、
「曹参はどうだ?」
曹参の名を上げた。すると蕭何は起き上がり、頓首して言った。
「帝は相応しい人を得ました。私は死んでも悔いがございません」
恵帝が去ると再び、横になる。
「沛県からここまでよく来たものだ……」
劉邦の仲間たちの行動に呆れながら過ごした沛県の日々を思い起こしながら、遠くまで来たものだと感じる。
「だが、悪くはなかった……」
七月、相国・蕭何は世を去った。
蕭何は必ず辺鄙で貧しい場所に田宅を構え、家を治める時も垣屋(高い壁や立派な建物)を造らなかった。
その理由について蕭何はこう言ったという。
「後世(子孫)が賢であるならば、私の倹朴を学ぶことだろう。賢でないとしても、このような田宅なら勢家(権勢をもつ家)に奪われることはない」
こういった配慮のために蕭何の家は長く続くことになる。
正式に曹参を相国に任命した。
曹参は蕭何が死んだと聞いた時、舍人(家人)にこう命じた。
「速やかに外出の準備をせよ。私は入朝して相になるだろう」
間もなくして、使者が曹参を呼びに来た。
曹参は貧しかった頃には蕭何と深い交わりがあったが、将相になってからは中がそこまで良くはなかった。しかし蕭何が死ぬ時に推挙した賢人は曹参しかいなかった。
互いに互いを嫌いつつも才覚は認め合っていたのである。
「曹参殿、行かれるのですね」
魏勃が長安に赴こうとする曹参を見送るためにやってきた。
彼の父は鼓琴の名手で、秦の皇帝(始皇帝の時なのか二世皇帝・胡亥の時かはよくわからない)に謁見して鼓琴を披露したことがあったという。
魏勃が若かったころ、斉に赴き、曹参に面会を求めた。しかしながら彼の生家は寒門(貧家)であったため縁故の繋がりがなかった。そう考えると彼の父の琴の名手とは一体なんなのだろうかと思うがもしかすれば、高漸離が父親だったりするのだろうか。
ともかく困った魏勃は一案を浮かび、早朝と深夜に毎日、曹参の館の門前に清掃した。これを見た曹参の家臣である舎人(属官)は事態が呑み込めず、そこにいた魏勃に問い質した。
魏勃の行動は会話するための状況を作るためのものである。
「貧乏である私は国相にお目通り願いたく、早朝と深夜に清掃致しました」
と答えた。これを聞いた曹参の舎人は、
「君の心意気が気に入った。主さまに会わせよう」
と述べて、曹参との面会させた。
曹参は若き魏勃を見て、共に語り合った結果、彼を聡明な人物と評価して、舎人として召し抱えた。
それから数年の歳月が流れ、魏勃は御者として、曹参に従った時にある事項を進言した。魏勃の献策を聴いた曹参は、
「素晴らしい若者だ」
と評価して、彼を斉王・劉肥に謁見させた。劉肥も彼を有能な人材と判断して、直ちに内史(検察官)に昇進させた。
そのため魏勃にとって曹参は恩人なのである。
「魏勃よ、斉王のことを頼む」
「承知しました」
こうして曹参は蕭何に代わって相となった。
彼は変わってから蕭何の頃から法律などを何も変えようとせず、蕭何が定めた規定を守り続けた。
また、曹参は郡国の官吏の中から質朴で文辞を得意としない者や重厚(敦厚)な長者を選んで招き、丞相史(丞相の属官)に任命した。言文(法律の文書)が刻深(苛酷。ここでは過度に細かいこと)で名声を求めている者は全て退けた。
その後、日夜とも醇酒(美酒)を飲むようになり、卿・大夫以下の官吏や賓客は曹参が政務を行う姿を見ることがなくなった。そのため皆、曹参に会いに来る度に忠告しようとしたが、彼はいつも彼らに醇酒を飲ませて忠告する機会を与えなかった。
酒を飲んでいる間に忠告したくても、曹参が更に酒を勧めて酔わせてから帰らせたため、結局、客は何も言えないのが常であった。
曹参は誰かが些細な過ちを犯しても、いつも庇って罪を隠した。そのため府中は常に平穏であったという
曹参の子・曹窋も中大夫として恵帝に仕えていた。
恵帝は相国である曹参が政治をしないため、怪しんで曹窋に問うた。
「私を若いと侮っているのだろうか?」
恵帝は曹窋を家に帰して身内の立場で曹参に問わせた。
すると曹参は怒って曹窋を二百回も笞打って言った。
「早く入宮して陛下に侍れ。天下の大事は汝のような者が口にすることではないのだ」
後に曹参が入朝した時、恵帝が曹参を譴責した。
「あの時の事は私が君を諫めさせたのである」
すると曹参は冠を脱いで謝罪した。
「陛下が御自身の聖武を推しはかる上で、先帝と較べてどちらが優れていると思っておられますか?」
「私がどうして先帝と較べることができようか」
曹参がまた問うた。
「陛下が私を観るに、蕭何と較べてどちらが賢だと思いましょうか?」
「君は及ばないようである」
「陛下の言は是です(その通りです)。先帝と蕭何が天下を定めて法令も明らかされました。今、陛下は垂拱(袖を垂らして手をこまねくこと。何もしないこと)し、私らはその職を守り、先帝と蕭何が定めた事を遵守して失わなければ、それで充分ではありませんか」
恵帝は納得した。いや納得したというよりは、呆れた方が強く。もう何も言わなかったというのが真相だと思われる。
曹参が相国になって前後三年が過ぎると、百姓がこう歌った。
「蕭何が法を作り、分かりやすく統一した。曹参が代わってからも、守って失うことがなかった。その清浄に乗り、民は寧一(安寧統一)とならん」
皇帝、官吏よりも曹参の能力の高さを理解していたのは、民衆だったのかもしれない。
当時は長い戦乱から解放されてやっと平和な時代に入ったばかりであった。曹参の政治は西漢前期の休息の時代のあり方を代表している。
この曹参の「何もせずに天下を治める」という考え方は、西漢前期に流行していた老荘思想(道家思想)の「無為自然」の考え方にも共通しており、前漢初期における老荘思想の流行もこれが関係していると思われる。