酖酒
紀元前193年
戚夫人母子を始末した呂雉が次に目を向けたのは、斉王・劉肥であった。
彼女は楚王・劉交と共に彼を長安へ呼びつけた。劉交を呼んだのは一種の目くらましである。
「行くの?」
「行かないわけにはいかない」
虞姫の問いかけに劉肥は答える。
「弟さん殺されたんでしょ母親と一緒に」
「今回は楚王もいらっしゃられる。何かしらの動きがあれば駟鈞を通すだろう」
その方がやりやすいはずである。
「それに……まだ死なないのだろ?」
「ええ、そうね」
劉肥の言葉に虞姫は頷く。
「でも、いいの私のことをそんなに信じて?」
真偽に関しては確定していないはずなのである。
「まあ例え、嘘だとしても男は女の嘘を許すものさ」
軽口を叩く劉肥に虞姫は、
「あんた、父親に似始めているわね」
と言うと劉肥は表情を変えて言った。
「それは無いと思うが」
「私、知ってるわよ」
その瞬間、場に沈黙が生まれた。
「な、何かしたか?」
少し声を震わせる劉肥に虞姫は鼻で笑う。
「なにかしらねぇ」
笑いながら彼女は劉肥の部屋を出て行った。それと入れ替わりに息子の劉章が入ってきた。
「準備ができましたよ。どうしましたか?」
「いや……章よ。男は口では女には勝てないものだな」
「はあ」
劉肥は僅かに苦笑すると長安に向かった。
漢の恵帝は劉肥が来たことに喜んだ。
「よく来てくれた兄上」
「陛下、私のことは肥とお呼びください」
(体調が優れないとお聞きしていたが……)
恵帝の顔色はすこぶる悪いものであった。
(私は兄であるというのに……)
それにも関わらず、守ってやれていない。そのことが悲しくあった。
その後、恵帝は斉王・劉肥のために酒宴を開くことにした。酒宴には呂雉もいる。
劉肥は劉邦の庶長子であるが、恵帝にとっては異母兄に当たるため、恵帝は家人の礼(兄弟の序列)に則って劉肥を上座に坐らせた。
この当時の朝廷では君臣の礼を用いても、宮中では兄弟の序列が優先されていた。その空気を作り出しているのは恵帝の兄弟愛によるものであると思われる。
恵帝は気弱さを持っている一方で、誰よりも兄弟というものを大切にしていた。確かに父・劉邦に似ていない人であると言える。
その息子の思いに反し、上座に坐っている劉肥を不快そうに見る呂雉は内心、激怒していた。
(あの子は何を考えているの)
彼女は息子のために息子の邪魔になるものを排除しようとしているのである。それにも関わらず、自分の地位を脅かす可能性がある劉肥に上座に座らせるなど、皇帝としての面子にも関わる。
そう考えて呂雉は近侍に命じて酖酒(毒酒)を二杯注がせ、自分の前に置かせた。そして、表情をにこやかにしながら劉肥に命じて立って寿を祝わせるために彼に下賜した。
このように下賜された場合、寿を祝う意味を込めて酒を飲み干すのが礼儀である。
そのため劉肥は立ち上がり、卮(杯)を持とうとした。この時点で彼は警戒していなかった。この場には他にも多くの者たちがいる。このような場所で仕掛けることは無いだろうと思っていた。
劉肥が立ち上がったと同時に恵帝も立ち上がった。
「兄上、私もやらせてくださいな」
そして、卮(杯)を取り、一緒に寿を祝おうとした。この恵帝の行動に呂雉は驚き、その瞬間に立ち上がると恵帝が持った卮を払い落とした。
「ごめんなさい。どうも酔っているようですわ」
口元を隠し、呂雉は笑う。内心では舌打ちしている。
(なんだ……)
劉肥は驚きのあまり呆然とする。ふと恵帝の表情を見た。僅かに安堵した表情を浮かべ、自分を見ると手元の酒を見て首を振った。
(そういうことか)
「皇太后様、どうやら私も酔ったようです」
劉肥はそう言って、酒を飲もうとせず、酔ったふりをして退席することにした。
退席した劉肥は自分の屋敷に戻った。そこに慌てて劉敬がやってきた。
「王、ご無事ですか」
「ああ、大丈夫だ」
「申し訳ございません。皇太后が酖酒であなた様を毒殺しようとしておりました」
(やはり……)
自分を殺そうとしたのだという怒りよりも、弟の恵帝に守られたのだと思った。
(不甲斐ない兄だ……)
守るべき弟に守られたそのことに不甲斐なさを感じ、彼は目を伏せた。
「仕方ない。駟鈞を通して仕掛けると思っていただけにここで来るとは思っていなかった」
(虞姫の言葉を信じすぎたのも悪かったな……)
「それよりも問題は長安から逃れることができるかということだが……」
この場には劉敬のほかに魏勃、斉の内史・士(士は名。姓氏不明「士」は一説では「出」)がいた。その彼が進言した。
「太后の子には陛下と公主様しかおられません。今、王は七十余城を有しているにも関わらず、公主の食は数城しかありません(公主が税収を得られる邑は数城しかありません)。王が一郡を太后に献上して公主の湯沐邑とされれば、太后は必ず喜び、王も必ず憂いがなくなりましょう」
「なるほどわかった。劉敬よ頼めるか?」
「承知しました。不明を注ぎます」
劉敬は呂雉の寵臣である審食其を通して、城陽郡を献上させることにした。
呂雉は喜んで受け入れ、斉王の邸宅(帝都にも諸侯の邸宅がある)で酒宴を楽しんでから、斉王の帰国を許可した。
「助かったか……」
帰国した劉肥の元に駟鈞が近づいてくる。
「長安でのことお聞きしました。こちらの警戒が緩かったのかもしれませんなあ。今後、警戒を強めて……」
「全くだ」
劉肥は彼を見下すように言った。
「お前の配下は使えないものだ」
そう言うと彼はさっさろ自分の部屋に戻っていった。
「餓鬼が……」
駟鈞が舌打ちする。
(もっと怒らせないとな)
劉肥は部屋に戻りながら駟鈞のことを思う。
「あと少しだからな……」