大風歌
劉邦は上郡、北地、隴西の車騎と巴蜀の材官(地方の予備兵。または歩兵)および京師中尉(京城を警護する官。後に執金吾に改名される)の士卒三万人を動員し、関中を守るために霸上に駐軍させた。
英布は挙兵したばかりの時、自分の将にこう言っていた。
「劉邦は老いているために戦を嫌っており、自ら来るはずがない。諸将を派遣するだろう。しかし諸将の中では韓信と彭越だけを畏れていた。今はどちらも死んでいるのだから、残った者を畏れる必要はない」
英布は薛公が言った通り、東の呉を攻撃した。諸将に対して有利な地形を確保し、撃破していって自分の国を作ってしまおうということである。天下全域を取ろうという野心にまで至っていないのがこの人である。
荊王・劉賈は英布と堂々と戦った。元々守りの方が上手く、攻めの戦が苦手な人であり、猛将というべき英布と戦えば、当然、敗北して逃走することとなり、富陵で死んだ。
英布は劉賈の兵を強制的に支配下に入れ、淮水を渡って楚を撃った。
楚王・劉交は兵を三つに分けて徐と僮の間で迎撃した。兵を分けたのは連携しながら英布の隙をねらうためである。
ある者が劉交に言った。
「英布は用兵を善くするため、民は以前から畏れています。兵法にはこうあります。『兵が故郷で戦う時は、自分の家が近いため戦意を失い、離散しやすくなる』と、今、兵を三つに分けましたが、彼が我々の一軍を破れば、残りの二軍も全て逃走するでしょう。どうして互いに援けることができましょうか」
しかしながら劉交は諫言を聞かなかった。果たして、英布が楚の一軍を破ってみせると他の二軍も敗走離散した。劉交は薛に走った。
英布は兵を率いて西に向かった。
劉邦の元に次々と敗戦の報告がなされる中、彼は天下の死罪以下の罪人を赦して全て従軍させた。更に諸侯の兵を集結させ、自ら指揮をとって英布討伐のため出発した。
その際に彼は陸賈を呼んだ。
「敗戦の報告が届く中、面白い報告が届いた」
劉邦は陸賈に書簡を見せた。南越が英布の一軍を大破したというものと、その後、英布の領域に入ったり、出て行ったりと繰り返しているというものであった。
「攻め込まれて大破したというのはわかるがその後の行動がよくわからん。どういうことだ?」
「私が南越王に話しを伺った際、地元の者たちを臆病だと言っていました」
陸賈は南越王・趙佗から聞いた話しを始めた。
なんでも南越の人々の性質は臆病などいう。攻め込まれるとすぐに逃げの一択で、逃走を図るらしくそのため攻め込んだ方が唖然とするそうだ。
だが、そこで油断をすると一気にどこぞから集団で現れ、襲いかかる。そして、首を、腕を、足を切り下ろし、杭に突き刺して晒すこともあるそうだ。それが彼らの戦い方だという。
一見、残酷で狡猾にも見えなくはないが、趙佗はこの行為を臆病だからやると言っていた。
つまり彼らは臆病で、確実に勝てる時しか挑まない。そして、行動に移した時には徹底的にやる。それが意味するのは、これ以上やれば、もっとやるという意思表示で内心ではもう来ないでと思いながらの行動なのである。
臆病であるため徹底的な報復をやることで禍根を絶つ。それが彼らのやり方なのだという。
「臆病なので、あまり外に出ようとはしません。しかし、今回は漢の臣下という立場がある。そのため英布には協力しないという意思表示で、しかしながら戦いたくはない、ということじゃないかな?」
「なるほどな。まあ英布に協力しないというだけでも良いか」
劉邦はそう言って、趙佗へお礼の書簡を届けるように指示を出すと軍を英布に向けた。
年が明け、紀元前195年
劉邦率いる漢軍に各地の軍を集まってきた。斉王・劉肥も曹参を副将として参加した。
「父上、肥でございます」
「おお、来てくれたか」
迎え入れた劉邦の姿を見て、劉肥は目を細めた。
(病がちだと聞いたが、十分とお年を召された……)
人は老いる。そのことを理解しつつもあの父の老いた姿に劉肥は複雑な感情を抱く。
「英布と闘う地は蘄県西の會甀(または「會缶」。地名)であると思われます」
劉肥がそう言うと劉邦も頷く。
「そうだな。お前の活躍も期待している」
「はい」
劉肥は父の元を離れ、自分の陣営に戻った。
「陛下はどうでしたか?」
「お体の調子は思ったよりも良さそうだ。だが、お年を召されているのだと大いに感じたよ」
「そうですか。できる限り無理をさせないようにしないといけませんな」
「そうだな」
漢軍と英布軍は予想通り、會甀で遭遇した。
英布軍には精鋭がそろっていたため、劉邦は庸城で守りを固めることにした。劉邦は英布軍の陣を眺めた。その陣の形は項羽の陣に似ていた。
(項羽を気取っているのか?)
劉邦は不快になりながら英布の軍を見る。
(おめぇ如きが項羽を真似てるんじゃねぇよ)
項羽との戦いの日々を汚されたように感じた。あの戦いは苦しいこともあったが、劉邦からすれば青春の日々に近い。
数日後、劉邦が遠くから英布に問うた。
「何を苦にして反したのか?」
英布は、
「帝になりたいだけだ」
と答えた。それを聞いた劉邦は激怒した。そしてそのまま英布を罵倒すると英布も激怒して、軍を動かした。
こうして両軍の会戦は始まった。
劉邦は自ら指揮を取り、英布の軍と闘う。元々戦巧者というべき劉邦は守りの戦は得意である。それも猛将といっても項羽に劣る英布の相手は軽々と行えている。
「しかしながら父上、病がちだ。無理をさせられない」
ひとしきり耐えたあと、劉肥は曹参にそう言って、反撃を開始した。曹参の指揮は衰えておらず、斉軍は強かった。そのため、英布軍は敗北した。
英布は撤退して淮河を渡ってから、何度か留まって戦ったが、漢軍には勝てず、敗走を続けた。ついに英布は百余人と共に江南に逃走することとなった。
しかしながらこの戦いにより、ただでさえ調子が悪かった劉邦も一気に体調を崩し始めていた。
「英布はもうこれ以上の抵抗はできないだろう」
劉邦は別将に追撃を命じることにし、帰還することにした。その途中で、故郷の沛に駐留することにした。沛宮で酒宴を開く。故人(故知)、父老、諸母(年上の女性)、子弟を全て招いて同席させ、往時を語って笑い楽しんだ。
更に劉邦は沛の児童百二十人を動員して歌を歌わせ、酒がまわり始めると、劉邦も自ら筑を打って歌を歌った。
「大風が吹きて、雲巻き上がる。我が威は天下に拡がりて、故郷に錦を飾らん。猛士を得ること、難しく、ああ、四方を守ることができようか」
後に言う「大風歌」である。
王者としての絶頂と己が死んだ後の世を思う儚さがある歌である。
劉邦はこの歌を百二十人の児童に教えた。お前たちが次代の支えなってもらいたいという思いも含まれているようである。彼らに唱和させ、自ら舞を披露しながら、激昂して胸を詰まらせ、数行の涙を流した。
その姿に劉肥を始め、劉邦に同行する諸将も声を詰まらせる。
劉邦は沛の父兄に言った。
「游子(家を離れた子)は故郷を想っているものだ。私は関中に都を置いたが、万歳(崩御)の後、私の魂魄はやはり喜んで沛を想うことだろう。私は沛公として挙兵し、暴逆を誅してついに天下を有した。よって沛を私の湯沐邑とし、その民の賦役を免じ、世世(代々)賦役の義務を与えないことにしよう」
湯沐邑というのは諸侯の私邑を指す。本来、湯沐邑の税収は所有する諸侯に入るが、沛は劉邦の湯沐邑になったため、郡県にも諸侯にも税を納める必要がなくなったことになる。
その後も劉邦は沛の人々と十余日に渡って宴を楽しんでから去った。沛の父兄が頑なに劉邦を留めようとしたが、
「私に随行する者は多い。父兄が養うことはできない」
と言って出発した。
沛の人々は県を空にして劉邦を送り、邑の西で牛酒を献上した。やれやれと劉邦は再び留まって帷帳を張り、三日間酒宴を開いた。
その際、沛の父兄がそろって頓首して言った。
「沛は幸いにも賦役を免除されました。しかしながら豊はまだです。陛下の哀憐を請います」
劉邦は不快そうに言った。
「豊は私が生まれ育った所だから忘れるはずがない。恩恵を与えないのはただ雍歯がかつて私に反して魏に附いたからである」
昔受けたことをずっと忘れないのが劉邦である。こうやって思えば、雍歯は張良と陳平の護衛を命をかけて行っていたことがなければ劉邦は執拗に彼を追いかけて始末していただろう。人のための行動は自分を救うものである。
それでも沛の父兄が頑なに請願したため、豊も沛と同等にされた。
漢軍の攻撃に晒されている英布軍は洮水の南と北で撃ち破られ、いずれも敗北を喫した。
追い詰められた英布は呉芮と婚姻関係にあったため、長沙成王・呉臣(呉芮の子)が人を送って英布を誘った。偽って共に越に逃げるように勧めた。英布はこれを信じて誘いに従った。
しかし番陽の人が布茲郷(番陽付近の地名)の民の田舍(農村の家)で英布を殺した。呉臣の指図によるものである。
その同じ頃、周勃が代郡、雁門および雲中の地を全て平定し、陳豨を当城(代郡)で斬った。
二つの報告を長安に戻って聞いた劉邦が詔を発した。
「呉は古に建てられた国であるが、かつては荊王(楚王・劉賈)にその地を兼併させた。今、楚王は死んで後がいない。私は再び呉王を立てたいと思う。相応しい者を議論せよ」
長沙王・呉臣らが言った。
「沛侯・濞(劉濞。高帝の兄・劉仲の子)は重厚です。呉王にお立てください」
それにより、荊国を呉国に改めて沛侯・劉濞を呉王にして、三郡五十三城を治めさせることにした。劉邦は劉濞を召して言った。
「汝の容貌には反相(謀反の相)がある」
そして、彼は劉濞の背を撫でてこう続けた。
「漢は五十年後に東南で乱が起きるようだ。それは汝ではないか。しかし天下は同姓の一家となった。汝は決して反してはならない」
劉濞は頓首して、
「そのような事はできません」
と答えた。だが、後に劉濞は景帝の時代に呉楚七国の乱を起こすことになる。しかしながら『資治通鑑』はこの話しを採用していない。理由は恐らく劉盈の四人の賢者の話しと同じであろうと思われる。