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鴻鵠の志  作者: 大田牛二
第三部 漢の礎
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疑心

すみません。遅れました。

 劉邦りゅうほうは病に伏せるようになり、人に会うことを嫌って禁中で臥せるようになっていた。


 戸者(宮門を守る官員)に詔を発して群臣を中に入れさせないようにした。そのため周勃しゅうぼつ灌嬰かいえいら群臣たちは中に入ろうとしなかった。


 十余日が過ぎた頃、舞陽侯・樊噲はんかいは痺れを切らして、闥(宮中の小門)を開いて直進した。大臣達が後に続く。


 中に入った彼らが見たのは劉邦が一人の宦者を枕にして臥せていた姿であった。それを見た樊噲らが涙を流して言った。


「かつて陛下は我らと共に豐・沛で起き、天下を定めました。どれほど雄壮だったことでしょうか。今、天下が既に定まりましたが、どれだけ憊(疲弊)しておられましょう。陛下の病いが重いため、大臣は震恐しているというのに、我らに会って事を計らず、ただ一人の宦者と絶とうというのですか(死を迎えようというのですか)。陛下は趙高の事を知らないのでしょうか」


 劉邦は笑って立ち上がった。


「それでお前たち何の用だ?」


 ここまで乗り込んできたのはただ単に心配になったわけではないという思いからそう聞いたのである。


「陛下、英布えいふが謀反を企んでいるという訴えが出ております」


 劉邦は眉を上げた。


 淮陰侯・韓信かんしんが殺された時、英布は心中、恐れを抱いていた。続けて彭越ほうえつが誅されると、劉邦はその肉を醢(肉醤)にして諸侯に下賜した。


 劉邦の使者が淮南に至った時、英布は丁度、狩猟をしており、届けられた醢を見て大いに恐れた。次が自分の番だとという疑心の元に秘かに部下に命じて兵を集めさせ、あわせて周辺の郡に危急の事がないか探りを入れた。


 この頃、英布の幸姫(寵姫)が病になり、医者にかかった。


 医者の家の前に中大夫・賁赫の家があった。


 賁赫は厚い礼物を準備して医者の家で酒を寵姫と共に飲んだ。今後、高位に登るために口添えをしてもらうためである。


 自身の欲望を満たすための軽い行為は疑心暗鬼となっている英布の目からすれば、自分の寵姫と賁赫が淫通したように見えた。そのため賁赫を捕えようとした。


 恐れた賁赫は伝(駅馬)に乗って長安に走り、


「英布に謀反の端(兆)があります。彼が兵を起こす前に誅殺するべきです」


 と上書したのである。


 報告を読んだ劉邦は相国・蕭何しょうかに話した。蕭何は、


「英布がそのような事をするはずがありません。恐らく仇怨の者が妄りに誣告しているのでしょう。まず賁赫を捕え、人を送って淮南王を微験(秘かに探ること)するべきで。」


 と言って、慎重に事を進めることを進言した。


 英布は賁赫が罪を畏れて逃走し、劉邦に訴えたと知った。国の陰事(隠し事。兵を集めて周辺を探っていること)が報告されたと疑った。彼の疑心は留まるところを知らない。更にそこへ漢の使者も来たとなれば

 謀反の証拠を探るためであると考えた英布は賁赫の家族を皆殺しにしてついに兵を挙げた。


 英布謀叛を報せる書が届くと、劉邦は賁赫を釈放して将軍に任命した。続けて諸将に計を問うた。諸将は皆、


「兵を発して擊つべきです。豎子を坑(生埋め)してしまいましょう。彼には何もできません」


 と答えた。


 すると汝陰侯・滕公・夏侯嬰かこうえいが連れてきた元楚の令尹・薛公せつこうが言った。


「反すのは当然というものでしょう」


 夏侯嬰が問うた。


「陛下が地を割いて封じ、爵を分けて王にしたにも関わらず、なぜ反したのか?」


「往年(以前)は彭越を殺し、前年は韓信を殺したのです。この三人は同功一体の人であり、禍が自分の身に及ぶと疑ったから反したのでしょう」


 劉邦は彼の言葉に興味を抱き、計を問うた。


「英布の謀反は不思議ではありません。もし彼が上計を用いれば、山東は漢のものではなくなりましょう。中計を用いれば、勝敗の帰趨はまだわかりません。下計を用いれば、陛下は枕を安んじて寝ることができましょう」


「上計とは何だ?」


「上計は、東は呉を取り、西は楚を取り、斉を併せて魯を占拠し、檄を燕・趙に送ってそれぞれの地を固守させれば、山東は漢のものではなくなりましょう」


「中計とは何だ?」


「中計は、東は呉を取り、西は楚を取り、韓を併せて魏を占拠し、敖倉の粟(食糧)を掌握して成皋の口を塞げば、勝敗の帰趨はまだわからないでしょう」


「下計とは何だ?」


「下計は、東は呉を取り、西は下蔡を取り、輜重を越に遷して自身が長沙に帰れば、陛下は枕を安んじて寝ることができ、漢は無事でいられましょう」


 薛公の進言には少し解説がいる。『資治通鑑』の注釈を行った胡三省こさんしょうが解説している。


 呉は荊王・劉賈りゅうかの封地、楚は楚王・劉交りゅうこうの封地、斉は斉王・劉肥りゅうひの封地である。魯は楚領内にあり、韓地は淮陽国(淮陽王・劉友りゅうゆう)の一部で、魏は梁王・劉恢りゅうかいの封地である。下蔡は沛郡に属し、越は会稽を指す。長沙は呉芮ごぜいの封国で、この時は子の呉臣ごしんが治めている。


 英布の都は六(地名)にあり、淮水に守られている。


 下計は西の下蔡と東の呉(劉賈)を占領して淮水全域を支配するという消極的な策である。越は東南にあり、そこに輜重を遷すというのは守りを厚くすることを意味する行為であり、英布は長沙王(呉芮)と婚姻関係にあったため、自身は長沙に遷ってそこを拠点にすると考えられる。


 薛公は英布が積極的に出て来れば、勝敗の行方が分からなくなるが、淮水一帯で守りを固めれば、恐れる必要がないと判断していた。


「それではどの計を用いると思うか?」


 劉邦の問いにきっぱり薛公は、


「下計を用います」


 と答えた。


「なぜ上計と中計を廃して下計を用いると言えるのだ?」


「英布は元々麗山の徒です。自ら努力して万乗の主という位に至りましたが、全て自身のためであり、後を顧みることなく、百姓のために万世を考慮することもありません。だから下計を用いるのです」


 英布には本当の意味での志が無い。そのためその行動に人を感動させるものがないのである。


 劉邦は薛公の意見に頷くと彼に千戸を封じた。


 劉邦は詔を発して各王や相国に淮南王に相応しい者を選ばせた。群臣は皇子・劉長りゅうちょうを推した。こうして皇子・劉長が淮南王に封じられた。


 さて、先ほどの述べたがこの頃、劉邦は病がちだったため、太子・劉盈りゅうえいに英布討伐を命じようとしていた。


 劉盈には東園公、綺里季、夏黄公、角里先生という四人の客がおり、四人が建成侯・呂釋之(呂雉の兄)に言った。


「太子が兵を指揮しますれば、功があっても位が高くなることはなく、逆に功がなかければ、それが元で禍を受けることになります。あなた様はなぜ急いで皇后様に請い、機会を探して陛下に泣いてこう言わせないのですか。『盈布は天下の猛将で、用兵を善くしております。今の諸将は皆、かつては陛下と対等な立場にいました。もし太子に彼等を指揮させれば、羊に狼を指揮させるのと同じため、太子の指示を聞くはずがありません。しかも英布がそれを聞けば、戦鼓を敲いて西に向かって来るでしょう。陛下は病ですが、無理にでも輜車に乗って、臥して監督するべきです。そうすれば諸将で尽力しない者はいません。陛下は苦しいと思いますが、妻子のために自強してください』と」


 呂釋之は夜の間に呂雉に会って話をした。


 彼女はこれにはそのとおりだと考え、機会を探して劉邦の前で涙を流し、四人が話した内容を訴えた。劉邦は、


「元々豎子は派遣するに足りないと思っていた。而公(汝の公。劉邦)が自ら行くことにしよう」


 と答えた。


 劉邦が兵を率いて東に向かい、群臣が都を守ることになり、皆、霸上まで見送った。留侯・張良ちょうりょうも病であったが、なんとか起き上がって曲郵に至った。


 張良が劉邦に言った。


「私も従うべきですが、病が重すぎます。楚人は剽疾(剽悍強暴)ですので、陛下は争鋒を交えてはなりません」


 更に張良は太子を将軍にして関中の兵を監督させるように進言した。劉邦は頷き、


「あなたは病だが、強臥して(臥せたままでもいいから)太子を補佐してもらいたい」


 当時、叔孫通しゅくそんとうが太傅であったため、張良は行少傅事(少傅代理)とした。太傅と少傅は太子を教育する官である。


 こうして劉邦の最後の戦が始まった。




 




 

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